弐 ボッチャン、落ち目となる
しばらくすると、目玉だけのない顔を上げてこちらを見た。
「中途で解約はできません。契約書にはっきりと明記しておりますので」
おれはせっかちで癇癪持ちだが、そこはぐっと抑えて言った。
「それなら仕方がありません。そこは借りたままにしておきます。しかし、畳の下から手が出てくるのには閉口しているので、もう一軒マンションでも借りることにします」
「それは構いませんが、手は畳の下から出てくるとは限りません。契約期間中はあなたがどこにいようと、床下から手は伸びてきますよ。
ん? ちょっと待ってください。あなた、生涯特約を結ばれてますね」
生涯特約という字句はたしかに契約書には書いてあったような気もするが、乱れ髪が出るということまで書いてあったかしらん?
おれはものを書くのは好きだが弁舌は苦手なので、こう相手にピシャリとやり込められてしまうと、いつもすごすごと引き下がるしかない。
それにしても、中途で解約できないとはけしからん。これじゃあ、奴隷契約よりひどいってもんだ。
破格の家賃だったっから、ついその場で躍り上がらんばかりにハンコを押してしまったのだ。これだから、契約書は事前によく読んでおくに限る。
と言っても、あとの祭りと観念するほかない。
自己紹介がすっかり遅れてしまった。
吾輩はボッチャンである。名前はまだない。
なあんて冗談冗談。一度そういう風に書いてみたかっただけだ。
では真面目に。
おれの名は、落目欽之助。大学を卒業して三年になるが、今は無職である。東京とは名ばかりの片田舎に古い家を見つけて住んでいるが、いちおう一人暮らしとしておこう。
どうしてそんなことになったのか、最初に記しておく。
無職とは言ったが、これでも東京大学の卒業生である。文学好きで小説家志望だったから、文芸サークルに所属して一人前に同人誌なども発行したりしたものだ。
その時の同人を何人か挙げると、まず樫木正雄。頭をつるつるの坊主頭にしているので、あだ名はつる坊。次に、中浜喜与志。あだ名はキョンシー。両手を前にだらんとさせて歩く癖があったから。最後に、金本結貴。あだ名は、キンケツ。
そうそう、一番大切な人を忘れていた。
中野京子。あだ名はマドンナ。おれの最初で最後の恋人だ。
キンケツが経済学部のくせして文芸サークルなんかに入ったのは、実は彼女が目当てだったらしい。だから、こいつとは最後まで馬が合わなかった。今では憎っくき怨敵のような存在と言ってもいいだろう。
さて、他人のあだ名ばかり紹介したが、実はおれのあだ名は、小学校から大学の途中までは、オッチャンだった。もちろん苗字から取ったものである。
ところが、小説家志望で文芸誌に投稿してはボツ、投稿してはボツの繰り返しだったものだから、とうとうみんなからボッチャンと呼ばれるようになった次第。
ツァラトストラかく語りき。かくて精神は駱駝となり、駱駝は獅子となり、獅子は小児となれり、と。
落目欽之助はオッチャンとなり、オッチャンはボッチャンとなり、そして最後に本当に落ち目となってしまう。