弐百九拾参 男の器量とは
話が本当だとすれば、当時のおれはまだ高校一年生である。しかも田舎者だから、そんなことが週刊誌で報道されたことは知る由もない。
しかし男の餌食になった学生の一人は、父親が大物の国会議員である。記事にはそのことは触れられなかったのであろうか。もしや、例によって片桐の奴が動いて……?
「川辺一谷だよ。彼に頼んで、私の名はおろか私を推察させるような内容は一切伏せてもらったんだ。川辺のことは君も知っているだろう。私の古くからの知り合いでね。何、知り合いと言っても親しい仲ではない。むしろ、宿敵と言っていいだろう。私とは政治哲学が違い過ぎるんだな。だが、一種の盟友関係にもあると言っていい。
互いに情報のやり取りをしているが、何もかも垂れ流しってわけじゃない。相手がどんな情報を欲しているのかを探りはするものの、何を提供し、何をしないかは、互いの胸先三寸って奴でね。やじろべえが刀の刃先上で危ないバランスを保っているようなものさ」
川辺一谷さんなら勿論よく知っている。朝陽新聞社の主筆だ。新人のおれを可愛がってくれたし、退職しようとするおれを必死で引き留めようとしてくれた。彼にはもう合わせる顔がない。
「ふふふ……」
声は襖の向こうで低く笑った。
「奴はなかなかの食わせ物でね。主筆ではあるが、社主に匹敵するぐらいの力を持っている。例の『風聞春秋』の発刊にこぎつけたのも彼の力あってのことだよ。表の世界のことは新聞で叩き、裏の世界のことでは週刊誌で叩く。何が『風春砲』だ。春風どころか寒風だ。いや木枯らしだ。ある人間がさんざん努力して築き上げたものを、瞬時に吹き払ってしまう。だから我々も戦々恐々なんだ。
――ところで君はどうするかい? 何、京子のことだがね」
不意打ちと来た。どうするっていきなり聞かれても、すぐに答えられるわけがない。そこで当意即妙に、ぺらぺら口当たりのいいことを答えることができれば良かったのだろうが、生憎そんな芸当はおれには持ち合わせがない。
そう考えながら黙っていると、声は続けた。
「君がさっきの話を歯牙にもかけず、笑い飛ばしてしまうような器の大きな人間なら良かったのだが」
「笑い飛ばす――、ですか?」
これにはつい反応してしまった。
「笑い飛ばせるような話ですか? 死産の末に、子供のできない身体になってしまったって言うんですよ。どうしてそんなことに――」
「それは……、専門的なことは私にも分からんよ。だが、娘は死線を彷徨っていてね。どちらの命を助けるかということを問われれば、私としては当然娘のほうを選択するしかないだろう。それに、あんな男の子供など……」
おれはまた黙り込むしかなかった。だが、襖の向こうでは追及の手を緩めなかった。
「私はこれでも器の小さい人間でね。君も同じだ」
と勝手に決めつけてくる。
だが否定はできない。すぐに反応し、カッとなる。喧嘩っ早い割には、腕力ではかなわない。女には言い返す。相手が泣くまで言い返して、あとで後悔する。うじうじといつまでも後悔する。器が大きいわけがない。
すると深山幽谷の奥から、まるで罪人に宣告するような声が響き渡る。
「君がどういう人間なのか、さっきの様子でよく分かったよ。ここで、はっきり確認しておきたい。はたして君は、京子の全てを受け入れることができるのかな? あれの全人生を、これからずっと一緒に背負っていけるのだろうか。
もし一緒に暮らすようにでもなればなったで、折に触れてそのことを思い出し、あれを責めたりしないだろうか。いや直接ではなくても、心の中で――。そしてそれは勢い、彼女への態度となって現れないだろうか。或いは後悔の念で苛まれたりはしないだろうか。京子のことだけでなく、われとわが身を罰したりはしないだろうか。どうなんだい?」
これだけ矢継ぎ早に聞かれて、いちいち答えられる訳がない。いや、向こうは答えなど求めていない。おれを追い込みたいだけなのだ。
おれはさっき自らに課したばかりの戒めも忘れ、逆襲を試みた。
「あなたは、これからもこんなことを続けるのですか? 誰に対しても」
「おや? ということは、君はもう撤退する気なんだね? いい兆候だ」
質問には質問で返す。相手を遣り込めるための常套手段だ。
おれはめげずに、さらに質問で返した。
「もし、あなたの望みにかなうような、そんな人間が現れたとして、その男は本当に京子さんを愛しているということが言えるんでしょうか?」
「ふん、愛なんぞ何にもならんよ。幸子は――、あれの母親はいつも私によそよそしく接するばかりだった。一見従順そうに見せながら、最後まで私を赦さなかったんだ。惚れた男と強引に引き裂かれたんだからな。それだけ一途な女だったってことだ。
幸子が亡くなった時、あれはまだ中学生だったんだが、私が初めて出逢った時の母親と瓜二つだった。あとでつくづく思い知らされたよ。京子はあの母親の血をそっくり引いているんだってね」
最後は吐き捨てるように言う。
そこでおれは、ハッとした。この男はひょっとして……?
おれはその疑念を直接ぶつけた。
「あなたは、本当に娘さんを愛しているのですか?」
「おい……」
片桐の呻き声のようなものが聞こえた。襖の向こうからは、しばらく返事はなかった。




