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弐百八拾八 京子の秘密

 そう言えば、そんなことを聞いたことがあるような気もする。しかし、いくら漱石の友達だからって、そこまで詳しいことは知らない。それにおれは、極めて散文的な人間だ。おまけに閉所恐怖症ときている。わずか17音の中にこの世界の美しさ、精妙さを閉じ込めることなんてできるものか。


「おおかた今日に備えて一生懸命勉強したんでしょう。私を遣り込めるためにね。しかし、あなたほど文学に不向きな人間はいませんね」


「確かに」

 片桐は不敵に笑いながら言った。

「文学なんて、屁みたいなものだ。目くそ、鼻くそ、涙にため息……。下の句は字余りだ。全く人間の身体から出るものでろくなものはない。小説家って、そんなものばかり吐いているじゃありませんか」


「そして文学に無縁のあなたが、奇麗なものばかりを世の中に産み出しているわけだ」


「そうです、そうです」

 手を叩いて嬉しそうに言う。

「そればかりか、汚いものを奇麗なものに変える。それが政治ってやつですよ。どうです? 改心して政治家を目指してみては」


 おれは自分の両肩を抱いて、ぶるぶると震える仕草をしてみせた。

「いやあ鳥肌が立ちましたよ。どうです? そろそろレバーを仕留めにかかっては。いつまでもそんなジャブみたいなパンチばかり繰り出してないで」


「レバーですって? おおイヤだ。ここは寿司屋ですよ。今日の試験に合格して、あとで一緒においしくいただこうじゃありませんか。ね?」


「それならそれで、試験問題を早く出題されたらいかがですか?」


「ふむ。いいでしょう。ではいきますよ」

 片桐は一呼吸置くようにこちらの顔を見据えると、おもむろにこんなことを聞いてきた。

「あなたはいったい、お嬢さんのことをどこまで御存じなんでしょうか」


 おれは不意を突かれたように、一瞬言葉が出なかった。彼女のことをどこまで知っているかって? 


「漠然としていて答えようがないですね」

 とりあえずそう返すと、すぐに続けた。

「しかし、これだけは言えます。人は人のことを知り尽くすことはできません。あなたは、探偵みたいに私のことを嗅ぎまわった。しかし、いくら私に関する事実を並べ立てたって、私のことを言い表したことにはならない。それと同じことですよ。前も言いましたよね」


 いくら相手のことを理解しようとしたって、そうすればするほど相手のことが分からなくなる。そこに寂しさが生じる。それを埋めようとすればするほど、ますます寂しさが(つの)る。それが恋というものじゃないだろうか。


「それじゃあ、もう少し具体的に聞きましょう。お嬢さんはあなたより3つ年上だ。このことは御存知でしたか?」


 これには少しばかり驚いた。思わず後ろを振り向いた。背後は隣の部屋とを仕切っている襖があるばかりだ。


「心配ない。この店はすべて貸し切りですよ。そんなことができるのはうちの先生だけですがね」


 おれはそれには取り合わず、その前に言われたことを反芻していた。彼女からそんなことは一言も聞いたことがない。だが、本当につまらぬことだ。彼女にとってもそうだったのだろう。あえて自分のほうから、わざわざ持ち出すほどのことでもあるまい。


 そう考えたおれは、

「はっ、何のことかと思いきや。くだらない」

 と吐き出すように言った。


 すると相手は畳みかけてきた。

「しかし、大学はあなたと同期だ。なぜそうなったか知りたくはないですか? あの頭のいいお嬢さんが、なぜ3年も遅れてしまったのかを」


「いい加減にしてください」

 おれは身を乗り出すと、テーブルを両手でバンと叩いた。

「そんなことを他人のあなたから聞きたくはない。そもそも彼女が自分で言いたくなった時に自分自身の意志で言うべきことでしょう。それをいったい何の権限があって、他人のあなたがぺらぺら喋るんですか。彼女のお父さんがそんなことまで認めているんですか」


「そうですよ。それが必要なんでね」

 平然と答える。


 ついかっとなり立ち上がろうとすると、片桐がすかさず言った。

「お嬢さんにはシザンの経験がある。おまけにもう子供が産めない体になってしまった」


 シザン……? 今、死産と言ったのか? おれはテーブルの上に両手をついたまま、これは聞き間違いではないだろうかと思った。


 目をぎらぎらさせながら、しばらく相手の顔を凝視していると、向こうはふと顔を背けた。床の間の掛け軸を見ながらぽつりと言う。


「竹に雀か。落目家の子孫繁栄はもう望めないな」


「これ以上……」

 今度は本当に体を震わせながら、やっとのことでおれは言った。

「もうこれ以上、彼女を冒涜するようなことは許さない。帰らせていただきます」

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