弐百八拾六 大馬鹿寿司
だが、そんなおれの経済的な事情を問題視しているかと思ったら、今度は人柄ときたか。そんなことになるとは思いも寄らなかった。迂闊にもほどがある。
性急で喧嘩っ早い割には、喧嘩の相手に勝てるような腕力も胆力も知力もない。普段はへいへいと人の命令に従ってばかりいる癖に、権力のあるやつにはぷいと背きたくなる。そんな自分のことを偉大なへそ曲がりだなんて嘯くような馬鹿な人間なんだ。
馬鹿で単純だが、かと言って竹を割ったような性格でもない。つまらぬことで逡巡したり、いつまでもぐずぐず思い悩んだりする。
京子は、そんなおれのことを大きな矛盾だと評した。無であり、暗闇であり、混沌であり、アナーキーであり、疑問符だとも。それは確かにそうだろう。おれは未だに自分のことが分からない。自分のことさえ理解できない人間が、どうして京子のことを理解できるだろうか。
そんなことを頭の中で何度も堂々巡りさせているうちに、とうとうその日がやって来た。どうにも仕方がない。何があろうとも正々堂々と渡り合ってやる。そう決心した。
大っ嫌いな背広を久し振りに着た。クリーニングからおろしたばかりだ。革靴もぴかぴかに磨いた。暑かったので上着は手に携え、汗を拭きふきようやく大馬鹿寿司のあるビルに到着した。
ところが店の入口まで来ると、玄関の格子戸に「本日は臨時休業させていただきます」という素っ気ない張り紙がされてある。しかし、ガラスを通して中に明かりがついているのが分かる。
もしや片桐の奴、京子の父親がおれの人柄を見極めたいと言っているからと、そんな嘘をついてまでおれをおびき出し、おれをどうにかしてしまおうとでも……?
一瞬そんな疑いが閃いたが、即座にそれを打ち消した。奴がたとえ悪人であろうとも、そんな姑息な手段を講じるとはとても思えなかったからである。
えい、ままよ。あとは野となれ山となれだ。
思い切って玄関をくぐる。
「いらっしゃいませ」
カウンター内の一番入口に近い所から、若い女が感じの良い笑顔でこちらに会釈をした。そのすぐ隣では青年が包丁を研いでいる。少し顔を上げ、ぺこりと頭を下げた。
通路を挟んで左手がカウンター、右手が広めの和室である。和室は開け放たれていて、カウンター席と同様に一人も客がいない。
「落目様ですね。ご案内します」
女がカウンターから出てきて、笑顔を崩さないまま奥のほうに促す。
通路の突き当りがトイレで、その手前を右に行ったところにまだ部屋があるらしかった。
カウンターの一番奥に、もう一人男が立っていた。何も言わず、ぎろりとこちらを見た。人の真贋を一目で見極める眼力があるとでも言いたげだ。聞きしに勝る変人と見える。この男が、ここの店主なんだろう。
目礼だけして通路を右に曲がると、先に立っていた女が、
「どうぞこちらです」
と言った。小部屋が二つあって、奥ではなく左側のほうを手のひらで示している。
「さあ、どうぞ」
と促されるので、ネクタイを締め直し、再び上着に袖を通した。
「失礼します」
そう言って襖の取っ手に手をかけた。声が少し上ずっている。初っ端からしくじってしまったが仕方がない。
襖を開けると、奥のほうに向かって左側に片桐が座っていた。
「やあ」
と片手を上げる。
床の間には、竹に雀の軸が下がっている。中野十一の姿は見えない。さては遅れてくるのか?
「律儀ですねえ。まだ30分も前ですよ」
片桐はゆったりと座椅子にもたれ、胡坐をかいている。
おれはおやと思ったが、特に何も言わなかった。部屋に上がると、とりあえず入口の近くに正座した。
「暑かったでしょう。さあ上着をお取りなさい。遠慮はいいですから」
おれに対して、えらい馬鹿丁寧である。ひょっとしたら、自分が仕える先生の婿になる可能性があるというので、こんな風に態度を豹変させたのだろうか。
だとしたら大変な鉄面皮だ。筋肉だけでなく、面の皮も鉄の鱗で覆われているのかもしれない。
「いえ、きちんとご挨拶をさせていただいたうえで」
おれはそう言って断り、その場を動かなかった。




