表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
290/514

弐百八拾六 大馬鹿寿司

 だが、そんなおれの経済的な事情を問題視しているかと思ったら、今度は人柄ときたか。そんなことになるとは思いも寄らなかった。迂闊(うかつ)にもほどがある。


 性急(せっかち)で喧嘩っ(ぱや)い割には、喧嘩の相手に勝てるような腕力も胆力も知力もない。普段はへいへいと人の命令に従ってばかりいる癖に、権力のあるやつにはぷいと(そむ)きたくなる。そんな自分のことを偉大なへそ曲がりだなんて(うそぶ)くような馬鹿な人間なんだ。


 馬鹿で単純だが、かと言って竹を割ったような性格でもない。つまらぬことで逡巡したり、いつまでもぐずぐず思い悩んだりする。


 京子は、そんなおれのことを大きな矛盾だと評した。無であり、暗闇であり、混沌であり、アナーキーであり、疑問符だとも。それは確かにそうだろう。おれは未だに自分のことが分からない。自分のことさえ理解できない人間が、どうして京子のことを理解できるだろうか。


 そんなことを頭の中で何度も堂々巡りさせているうちに、とうとうその日がやって来た。どうにも仕方がない。何があろうとも正々堂々と渡り合ってやる。そう決心した。


 大っ嫌いな背広を久し振りに着た。クリーニングからおろしたばかりだ。革靴もぴかぴかに磨いた。暑かったので上着は手に携え、汗を拭きふきようやく大馬鹿寿司のあるビルに到着した。


 ところが店の入口まで来ると、玄関の格子戸に「本日は臨時休業させていただきます」という素っ気ない張り紙がされてある。しかし、ガラスを通して中に明かりがついているのが分かる。


 もしや片桐の奴、京子の父親がおれの人柄を見極めたいと言っているからと、そんな嘘をついてまでおれをおびき出し、おれをどうにかしてしまおうとでも……?


 一瞬そんな疑いが(ひらめ)いたが、即座にそれを打ち消した。奴がたとえ悪人であろうとも、そんな姑息な手段を講じるとはとても思えなかったからである。


 えい、ままよ。あとは野となれ山となれだ。


 思い切って玄関をくぐる。


「いらっしゃいませ」

 カウンター内の一番入口に近い所から、若い女が感じの良い笑顔でこちらに会釈(えしゃく)をした。そのすぐ隣では青年が包丁を()いでいる。少し顔を上げ、ぺこりと頭を下げた。


 通路を挟んで左手がカウンター、右手が広めの和室である。和室は開け放たれていて、カウンター席と同様に一人も客がいない。


「落目様ですね。ご案内します」

 女がカウンターから出てきて、笑顔を崩さないまま奥のほうに促す。


 通路の突き当りがトイレで、その手前を右に行ったところにまだ部屋があるらしかった。


 カウンターの一番奥に、もう一人男が立っていた。何も言わず、ぎろりとこちらを見た。人の真贋を一目で見極める眼力があるとでも言いたげだ。聞きしに勝る変人と見える。この男が、ここの店主なんだろう。


 目礼だけして通路を右に曲がると、先に立っていた女が、

「どうぞこちらです」

 と言った。小部屋が二つあって、奥ではなく左側のほうを手のひらで示している。


「さあ、どうぞ」

 と促されるので、ネクタイを締め直し、再び上着に袖を通した。


「失礼します」

 そう言って襖の取っ手に手をかけた。声が少し上ずっている。初っ端(しょっぱな)からしくじってしまったが仕方がない。


 襖を開けると、奥のほうに向かって左側に片桐が座っていた。

「やあ」

 と片手を上げる。


 床の間には、竹に雀の軸が下がっている。中野十一の姿は見えない。さては遅れてくるのか?


「律儀ですねえ。まだ30分も前ですよ」

 片桐はゆったりと座椅子にもたれ、胡坐(あぐら)をかいている。


 おれはおやと思ったが、特に何も言わなかった。部屋に上がると、とりあえず入口の近くに正座した。


「暑かったでしょう。さあ上着をお取りなさい。遠慮はいいですから」

 おれに対して、えらい馬鹿丁寧である。ひょっとしたら、自分が仕える先生の婿になる可能性があるというので、こんな風に態度を豹変させたのだろうか。


 だとしたら大変な鉄面皮だ。筋肉だけでなく、(つら)の皮も鉄の鱗で覆われているのかもしれない。


「いえ、きちんとご挨拶をさせていただいたうえで」

 おれはそう言って断り、その場を動かなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ