弐百八拾四 欽之助、自分の行く末を案じる
片桐がこの人たちを使うのは、政敵の動向を探って何かの弱みを握ったうえで、追い落としたり、利用したりするのが目的なんだろう。
奴の言う「手を下す」というのは、殺すということではなく、単に相手の政治生命を奪うという意味だったのかもしれない。
しかし、敵が一番愛しているものにまず手を掛けるというのは、どういうことなんだろう。これも奴が言うように、ただの譬えだったのだろうか。
すると男がまた口を開いた。
「あなたは余りいい印象を抱いていないようだが、私はあの人を嫌いではない。さっきも言ったように、ここの住人になって久しいが、あの人のお蔭で何とか女房にもばれずに済んでいる」
おれはこの男と自分の身の上を引き比べてみた。
男は五十代に見える。最近、首になったばかりなんだろう。退職金はもらえたのだろうか。貯金はあるのか。何とか65歳まで頑張れば年金が支給されるが、その時点で、三千万円ほどの貯えがなければ、年金だけでは食っていけないらしい。
このおれはどうだろう。2年間しか働いてないから退職金なんて微々たるものだったし、貯金もほとんどできていない。親の残してくれた財産があるが、一生遊んで暮らせるほどあるわけではない。無職だから年金の掛け金も払えない。
あらためて不安になる。
やはり小説なんか書いてないで、ちゃんと働くべきか? と言っても、おれは片桐の言うブンヤ上がりで潰しがきかない。何の技術、資格も習得していない。それにおれは方向音痴だけでなく、経済音痴、法律音痴ときている。駒場時代に少しは勉強したが、もっぱら頭を働かせてきたのは漱石や鏡花の方向ばかりだ。そんなおれをどこの誰が使ってくれるものか。
このままだと行く末は下流老人だ。そのおれが、彼女と結婚するだと? 親が反対するのも無理はない。しかも国会議員だ。仲を裂こうとするのは当たり前ってものだ。それを悪人呼ばわりすれば、逆恨みのそしりをまぬかれまい。
そんなふうにいろいろ思案していると、男が初めてこちらを向いて言った。
「今はここの住人ですがね、以前は追い出し部屋の住人だった」
「追い出し部屋……ですか?」
「これでももとは技術者だったんだよ。仲間とともに研究に研究を重ねて、多くの素晴らしい製品を産み出してきた自負がある。ところが今やITだとかGAFAだとかの時代だ。日本のモノづくりは衰退するばかりでね。
日本人は勤勉でいいものは造れるのに、そのための技術力も十分持っているのに、円高で生産拠点を海外に移すしかない。それで失業者は増えるばかりだ。それでも儲かっている所は、もうかり過ぎるほど儲かっている。そのお金が十分にみんなに回って、労働時間も減って、余暇もできて、それでみんなが本当に豊かな生活ができていればいいんだが、そうはなっていない。
どこかでお金が滞っているんだ。富の再分配という役割を政府が放棄しているんだからどうにも仕方がない。やはりこれも、市場原理ってやつなのかな」
こちらの質問は受けずに、一人で言いたいことを言い続ける。そればかりか、いつのまにか口振りもぞんざいになっている。
この男、いったい何が目的なんだろう。いったい片桐から何を言いつかっているんだろう……。
もしや、ナイフなんか隠し持っているんじゃ?
思わず脇腹の辺りを押さえながら、それとなく男の様子を探った。しかし男のほうに、そんなつもりは全くないようである。
おれは自分の小心さを秘かに恥じながら、彼の目的が何なのかストレートに尋ねようとした。するとおれのほうが口を開く前に、男がまた言う。
「ついこないだ非正規も首になっちまってね。どうにも仕方がない。優秀な技術者だったこの私が、今じゃ雇用の調整弁ってやつですよ」
急に聞いてみたくなった。
「日本がそんな状態なのに、あの中野十一は何をしているんでしょうか。政界の実力者なんでしょう?」
「実力者であっても、独裁者ではない。いくら彼が大物だからって、何でも思いどおりにできるわけじゃありませんよ。ほかにも大きな力がいろいろ蠢いていますからね。だからこそ彼のような人が必要なんです。世の中の巨大な歯車を、彼は今じっくり時間をかけて慎重に慎重に動かそうとしている。片……、いえあの人がそう言っていました。私はそれに望みをつないでいるんですよ」
また丁寧な口調に戻っている。ひょっとしたら用事を片付けようとしているのかもしれない。機を逃さず聞いてみた。
「なるほど、皆さんのお考えはよく分かりました。ところで、片桐さんから何か言付かってきたんじゃないですか?」
男はベンチに凭れ掛かってのんびりと言う。
「空が青いなあ。葉も青い。でもやがては黄色くなって、最後はみんな散ってしまう」
業を煮やして立ち上がろうとした刹那、
「あの人からの伝言です」
と、男が言った。相変わらず空を見上げたままである。
「まだ日が落ちるまでだいぶ時間がありますよ。やはりあなたは若いですなあ。――いいですか。あの人からの伝言を、正確にお伝えしますよ」
ここで改めてこちらに顔を向ける。
「結論から申し上げますと、先生のほうがついに根負けしてしまったということですよ。先生がおっしゃるには、いつまでもこんなことにかまけてはいられない。もういい加減にして、政治に集中したい。だから今後のことは若い二人に任せる、とまあ、こういうことのようですな」




