弐百八拾参 公園の男
手を下す……? それはひょっとして人を殺すということだろうか。
思わずごくりとつばを飲み込むと、相手はふいに力を緩めた。
「ものの譬えというやつだよ」
にやりと笑う。
「まあ、君の想像に任せるさ。しかし君はこれだけの仕打ちを受けながら、何一つお嬢さんには告げていないようだな。それだけは褒めておくとするか。これからもそうしたほうが利口というものだろう。お嬢さんのためにもね。それからもう一つだけ付け加えておく。私は決して尻尾をつかませたりするようなへまはしない。以上だ。また会おう」
それだけ言うとさっと立ち上がり、勝手に伝票を持っていった。会計を済ませるとこちらを振り返り、もう一度にやりと笑う。それから消え去った。
確かに京子には一切告げていない。子供みたいに言いつけるような真似はしたくないし、何よりも彼女を苦しめることになるからだ。
これもおれが、作家を目指すなどと手前勝手な人生の設計図を思い描いていたせいだ。彼女の忠告も聞かず、収入の見通しもないまま新聞社をやめてしまった、そのツケをおれはいま支払わされているんだろう。
このことで随分喧嘩もしてきたし、彼女を苦しめてもきた。これじゃあろくでなしと変わりない。片桐の言うとおりだ。もう彼女を苦しめたくないと思った。
それから一、二ヶ月も過ぎた頃だったろうか。ある日の夕方、おれは青山通りをぶらぶら歩いていた。小説は全くはかどらず、京子とのこともあって、少し苛々していた。
久し振りに<ヴィクターズ>に行ってみたいと思ったが、何となく顔を出しにくかった。もしジローちゃんに出会えたら一緒についていこうと思ったが、とうとう出会うことはなかった。
疲れたおれは神宮外苑のベンチに腰を下し、まだ青々とした銀杏の葉をぼんやりと眺めていた。
すると向こうから、中年の男が歩いてきた。革靴は汚れ、草臥れたような背広を着ている。そのままおれの目の前を通り過ぎると思いきや、真横に座ってきた。
驚いて顔を見たら、何事もないかのように話しかけてくる。
「夏の終わりは、やはり何となく寂しいものですねえ」
おれと同じように銀杏並木の梢のほうを見上げている。
「まだまだ日差しは強いですが、やはり真夏の頃とは違う。日差しの強さだけでなく、空気の色だとか、車の通る音だとかに翳りが感じられる。そうは思いませんか」
「ええ、まあそうですね」
仕方なくそう相槌を打った。
「日本の国にも翳りが見える。人間も元気がない。やはり、みんなで汗水垂らしてモノづくりしていた頃が良かったなあ。護送船団だとか終身雇用だとかいうやつでさ。やはりあれだよ、自由競争だとか市場原理だとかいう一辺倒な考えに支配されるようになってから、一気にこうなってしまったような気がするんだよね」
「やはり」と「だとか」をやたら連発する。確かに本人も元気がなく、疲れ切っているように見える。
「申し訳ありません。経済のことはよくわからないものですから」
そう言って立ち上がろうすると、男はすかさずそれを阻止するように言った。
「落目さんでしょう?」
こちらは見ずに、顔は前方に向けたままだ。
それではっと気付いた。
「片桐さんの……同僚の方ですか? 中野十一事務所の……」
そろそろと聞いてみた。
「まさか」
相手はあざけるようにふっと笑うと、空を見上げながら言った。
「もうここで暮らすようになってから、しばらくなります」
「えっ?」
「と言っても、昼間だけですけどね。そのうち夜もそうなるかもしれないが。まあ今のところ、そこまでならずに済んでいるのは、あの人のお蔭です」
こちらの質問にはまともに答えてくれないが、あの人というのは恐らく片桐のことで間違いないだろう。秘書仲間でないということは、奴の個人的な手勢ということか?
おれが急いで頭を巡らせていると、男は再び言った。
「あの人は一匹狼ですよ。ただ、私みたいな人間はたくさん抱えています。手下だとかではなく、対等です。あの人がそうおっしゃってくださるんですよ。メディアだとか探偵だとかよりはよほど役に立つ情報が入るそうです。ギブアンドテイクってやつですな。お蔭で誇りを失うことがないばかりか、何とか食いつないでいけます。あの人は結構はずんでくれるんでね」
ということは、手下ではないにしてもこの男がおれを見張っていたわけか。ほかにもそんな人間を抱えているということは、何もおれごとき人間を見張るためでは勿論あるまい。




