弐百八拾壱 恋なんか愛なんか
まだある。あいつは嘘つきだ。
うつむいて唇を噛み、目だけを素早く左右に動かす。白い頬には、さっと朱が差す。そういう時はきっと嘘をついている。それもたちどころにばれてしまうような嘘だ。
どうしてそんな嘘をつくのか分からない。ばれたらぺろっと舌を出す。それでお仕舞いだ。決して謝ったりはしない。
あれだけの美貌だ。過去にボーイフレンドの一人や二人いたっておかしくない。でもそんなことを彼女に尋ねたりはしない。いくらおれでもそんな野暮なことをするものか。彼女も言わない。父親のことだって、本人ではなく他人から聞いたのだった。
知らないと不安だ。分からないと不安だ。
恋をすると不安になる胸がドキドキする近づけば近づくほど離れていくような気がする頭がこんらんする勉強が手につかなくなる単位を落としそうになる夜ねむれなくなる何かを大学ノートにかきなぐったりする急にワーッとさけびだしたくなったりする急におどりだしたくなったりするじぶんがばかみたいにみえる裸の木を見てなきたくなる不図不可いことをやってみたりしたくなる自分が恋をしていることを人に話したくなったりする……
おれの知っている彼女。
名前は中野京子。三つ年上であることはこの当時はまだ知らなかった。彼女も言わなかった。しかしそんなことはどうでもいいことだし、彼女にとってもそうだったのだろう。
父親は慈民党の国会議員、中野十一。西麻布の豪邸に住んでいて、お手伝いさんもいる。
所謂才媛ってやつで、東京大学東洋文化研究所で民俗学の研究をしている。身長162.3cm。体重は知らない。スリーサイズも知らない。長い髪を落ち着いたピンクブラウンに染めている。
話題が豊富だが、議論になると決して引かない。口論になると涙をいっぱいためて反駁してくる。如才がないと思えば、オッチョコチョイのところもある。ひたむきで努力家だが、何にでも首を突っ込んでは失敗したりもする。
不器用で料理は苦手だ。片付けが得意かどうかは知らない。お姫様キャラで、いろいろ人に命令する。それも禁止命令が多い……。
と、こんな風に彼女のことをいろいろ並べ立てても、ますます彼女のことがおれは分からなくなるのだった。
まだまだ彼女のことを知らないことが多いからだろうか、とも考えてみた。当然彼女が言わないだけで、知らないことはいろいろあるだろう。しかし、言わないことは嘘をついていることと同じじゃないだろうか。
いや、そんなことを考えては不可い。これじゃあ彼女を疑い、詮索していることと同じだ。猜疑心の塊のようなものだ。
取るに足らないようなことまであえて言うほどのこともないだろうし、所詮人は人のことを知り尽くすことはできないのだから。
知らないということは、所有できていないということだ。恋とは、まだ所有していないものを所有したいという願望だ。
愛とは所有しているものを、手放したくないという欲望だ。でも人は人を所有できるものだろうか。
おれは彼女のことをおれのものにしたいなどとは一度も考えたことはない。愛とはかかわり方だ。おれは京子を愛している。尊敬もしている。
彼女がどうあろうと、彼女に何があろうと、おれは彼女の全てを受け入れる。そのようにおれは覚悟していたはずなのに。
彼女のことをオッチョコチョイと書いたが、そういう自分は何だろう。軽率の極みってものだ。作家で成功できるかどうか、自分にその能力があるかどうかということも顧みず、新聞社を辞めてしまったのだから。
片桐に対して「飢え死に」と言う言葉を使ったのも迂闊だった。娘の交際相手が、無職の上にそんなことまで覚悟しているような人間などとは、国会議員どころか世間の普通の親だって決して許さないだろう。
その点を片桐につかれたことは、まさに急所を抉られるほど痛いことだったのである。
しかし、おれにはおれなりの考えがあった。おれは性急で向こう見ずな人間だが、芥川賞が二年や三年で簡単に取れると思うほどの馬鹿ではない。
何度応募しても落選する。二次、三次まで行っても、最終選考で落とされる。それを何十回も繰り返してやっと何かの新人賞を受賞する。芥川賞はそれからだ。もうその頃には、老年に差し掛かっている人も居る。
たまたま初めて書いたものがどこかの文芸誌に掲載されたばかりか、あれよあれよと言う間に芥川賞を受賞するなんて人もたまにいるが、そういう人は神様からよくよく愛されて生まれてきたんだろう。
芥川賞を取れたからって、それでただちに作家として食っていける保証をもらえたわけではない。むしろそれからが大変だ。
おれはそれでもいいと考えていた。親の財産も少しはあるし、裕福にとはいかなくとも何とか細々とした原稿料で暮らしていけるだろう。
京子は京子で何か自分の好きな研究をやりながらも、少しぐらい収入は得られるだろう。まさか、彼女に養ってもらうなんてことは考えていないが、二人で助け合えば何とかなるはずだ。
そんな虫のいいことをおれは考えていたのだった。




