弐百七拾九 カタバミ
ジローちゃんは言っていた。片桐のあとを、何かたくさんのものがぞろぞろ這う音が聞こえたと。マスターはこれを一笑に付したが、おれは何となく胸騒ぎがしてならなかった。
地を這う者は強い……。
<ヴィクターズ>を出て青山通りの雑踏の中を歩きながら、ふと爺ちゃんの言葉を思い出した。おれが子供の時分、爺ちゃんは庭で芝生の草取りをしながらよくこぼしていたものだ。
「欽之助、ごらん。これはカタバミと言ってな、こいつが芝生の一番の大敵なんじゃよ」
示された所を見ると、クローバーの葉っぱのようなものが芝生を蔽うようにびっしりと生えている。
「ほれ、ここにも」
カタバミは緑色のものもあれば、赤茶色のものもある。いずれも葉は小さくて、地面にへばりつくように広がっていた。
「一見可憐なようでいて、こいつがまあしたたかでな」
爺ちゃんはそう言いながら、節くれだった指で芝生の間を器用に掻き分けながら、カタバミを引っこ抜いた。
意外にもそいつは太い茎で繋がっていて、子供のおれが両端から引っ張っても簡単には切れなかった。
「ほら、ここに小さな黄色い花があるじゃろう。小さくて分かりにくいが、こいつがオクラのような形の実をつけると、ぱちんと弾けてそこらあたりに種を飛ばすんじゃ。茎でも広がる。根っこでも広がる。種でも広がる。全くやっかいな奴じゃよ。
そうそう、こっちをごらん。こいつはオッタチカタバミと言ってな、ずっと大きくて丈も高いじゃろう。こいつは引っこ抜けば終わりじゃ。実にあっさりしている」
爺ちゃんは、草刈り鎌でガリガリやりながら続けた。
「そこへいくと、やはり小さくて地を這うほうは強い。まあ、一本一本引っこ抜くことは無理にしても、こうやって葉っぱをやっつけてやれば少しは違う。光合成で根に栄養を送ることができなくなるからな」
おれが感心して聞いていると、爺ちゃんは不意に真顔になってこっちを見た。
「人間も同じじゃよ。人間も地べたを這う者は強い。そういう人間が能力を発揮していい方向に働けば、本人を成功にも導くし、世の中のためにもなる。しかしさんざん利用され踏みつけられた挙句、報われることがなかったり裏切られたりすると……」
それから何と言ったのか、当時子供だったおれにはよく理解できなかったし、記憶にもない。
「だから、気を付けるんじゃよ」
というお決まりの文句でお仕舞いだったが、確か最後に妖怪の話が出たような気もする。しかしそれが何だったのか今になって思い出そうとしても、やはり思い出せなかった。
話を片桐に戻す。
奴はまた勝手におれのもとにやって来た。ある出版社がおれのちょっとした記事を雑誌に掲載してくれることになり、その打ち合わせをしている最中だった。
その相手に片桐が自分の名刺を見せると、相手は恐れをなしたようにそそくさと帰っていった。
例によっておらが村の先生自慢から始めたのを適当に聞き流していると、奴は言った。
「だから私は先生のためなら何でもやる。それがまた国のためなんだから」
「ご立派なお心がけです」
とおれは言った。
「君も先生のために、いや日本の将来のためにも、お嬢さんとは別れてくれないだろうか」
「お断りします。これは私と彼女の問題ですから」
「立派な心掛けじゃないか。ブンヤ崩れの小説家もどきが」
片桐はおれを睨みつけながら言った。
「それならそれで覚悟をしておいたほうがいいだろう。私は目的のためなら何だってやるからな。法律すれすれのこともね」
「はっ」
おれは吐き捨てるように言った。
「以前あなたがホテルでやった行為は何ですか。喉から出血したんですよ。あれが法律すれすれとはね。立派に傷害罪が成立しますよ」
片桐はニヤリと笑うと、脚を組んでふんぞり返った。
「何度も言ってるじゃないか。たとえそうだとしても、私は決して尻尾はつかませないと。それに、あんなのは生ぬるい。必要だったら、人殺しだって私は厭わないからな」
おれはすっかりあきれてしまった。
「あなたの先生は、それを御存じなんですか」
「知らないほうがいいのさ。汚れ役、危険な役は全て私が引き受けることにしているのだから。そのうえで、先生は私に全幅の信頼を置き、大きな裁量を私に持たせてもくれている。私がどこで何をしようと、たとえ一、二週間連絡を取れなくても先生は詮索したりしない。お金のことも含めてね。どうだろう、コンニャク1つでも駄目なら、5つまで引き上げてもいい。それで手を打たないか」
「ふん、金なんか――。飢え死にしてでもそんな汚い金をもらうつもりはありませんよ」
すかさず言われた。
「お嬢さんと一緒でもか? 君はお嬢さんと一緒に飢え死にするつもりなのか? それともお嬢さんのヒモにでもなって生活するのかな? えっ、ニート君」




