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弐百七拾参 怨敵、あらわる

 <ヴィクターズ>は、古い3階建てのビルにある。青山通りから少し奥に入った閑静な場所にたたずんでいるが、それでも周囲(まわり)は大きなビルばかりである。よく今まで地上げなどに遭わずに持ちこたえてきたものだ。


 ここに立ち寄るようになったのは、当時勤めていた朝陽新聞社からほど近い場所だったからである。初めてガレージ脇のドアをくぐった時は、店内の奥に大きなグランドピアノがあるのに度肝を抜かれてしまった。


 あとはテーブル席が3つとカウンター席があるだけだ。まだ時間が早かったせいか、客は誰もいなかった。カクテルバーのようなのに、奥の棚に焼酎がある。すっかり嬉しくなってカンター席に座ると、いいちこの水割りを注文した。


 黙って差し出してきた右手を見ると、小指の第一関節から先がない。おれの視線に気付いたのか、マスターが聞いた。


「気になるかい?」

 ひげをたくわえた初老の紳士である。


「いえ別に。ただ単に気付いただけです」


「ただ単にね。そりゃ目があるんだから、気付くわいね」


「はい。おれの小学校の時の友達は、親指がありませんでした。田んぼで悪さをしていて、(まむし)()まれたんです」


「ほお、蝮ね。ハハハ。俺も昔はマムシと呼ばれていたんだよ」


「そうですか」

 おれはそう答えながら、この手であのピアノをどうやって弾くんだろうかと考えた。従業員はほかにいそうになかったし、彼がピアノを弾く様子はいつまでも見せなかった。


「あんた、出身はどこだい?」


「九州です」

 おれは単簡に答えた。


「どおりでね。九州か――。そこにもいたことがある。いい所だ」


 おれはいいちこにカボスを絞り入れ、口を付けてみた。下町のナポレオン。まろやかですっきりしている。


 死んだ両親や祖父母たちのことを思い出す。友達や親せきのことも。子供の頃走り回った山や川、原っぱなどが目に浮かんできた。


「いらっしゃい」

 入口に向かってマスターが言った。


 新しい客がドアを開けたようだ。ほかの席は空いているというのに、まっすぐ入って来て俺の真横に座る。


「おい、落目。落ち目じゃないか」

 とそいつは言った。


 何とあの金本結貴(きんけつ)だった。悪いことに彼が就職した会社はジンアイ商事と言って、これもまた青山の一角に社屋を構えている。


 奴め、開口一番厭味ったらしく言ったものだ。


「ここで偶然君に逢えるとはうれしいよ。しかしカクテルバーで焼酎とは、野暮な奴だなあ。いや、全く君らしい。それはともかく、会社も近いことだし、これからもちょくちょく会おうじゃないか」


 まさに邂逅一番だ。


「しかし、アカの朝暘新聞に就職するとは、君も本当に落ち目になったものだね。あそこは政治家や大企業ばかり目の敵にしているんだから」


 おれが相手にしないと、勝手にほざき続ける。


「僕を見たまえ。一流企業だぞ。天下のジンアイ商事なんだからな。しかし日本はすごいと思わないか。神宮球場のそばには、高木忠商事のタカチューもある。世界に冠たる一流商社が、この青山通りだけで二社もあるなんてさ」


「マスター、次、二階堂お願いします」


「あっ、僕はカクテルでお願いします。ええっと、何にしようかな……」



 彼とはこんな具合に、ここで何度か出くわすことになる。別に会いたくて会うのではないが、向こうで勝手にくるので仕方がない。



 片桐はある日突然、<ヴィクターズ>に現れた。手下に見張らせているから、いつでもおれの居場所が分かるのであろう。


 カウンター席にいたおれの真横に座るなり、店内をじろじろ見まわしながら奴は言った。

「ふん、しけた店だな」


 マスターは一瞬ちらっと彼を見たが、特に何も言わなかった。


「まあ、無職で貧乏ったれの君にはちょうどいいだろう。しかし、そんな君に付き合っている暇はこちらにはないんだがね。私の手を煩わせるのは、もういい加減に()してくれないか」

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