弐百七拾弐 欽之助、ランドセルを開ける
気を取り直すようにふうっと息を吐き、立ち上がった。少し疲れを感じる。昨夜飲み過ぎたこともあるが、京子のことでさらに追い打ちを掛けられたようだ。
歩きだした刹那、背中で声がした。
「重いかい?」
「重かあないさ」
おれは答える。
「自分に正直になれよ」
「おれはいつだって正直だ。清さんからもアカオトシからもそう云って褒められたさ」
「ふん。へそ曲がりめ」
「へそ曲がりで結構」
おれはそう云いながら、背中に手を回す。
「おい」
際どい声がする。
「いよいよ、おれを打遣るのか?」
「なに、過去、現在、未来とも、お前とはずっと食付いたままさ」
「じゃあ、何故おれを」
小僧が聞く。
「お前のランドセルに用があるんだ」
「何だって? おれは絶対にこいつを手放したりはしないからな」
「慥か、石が入っている筈だがな」
おれは小僧を無視して呟いた。
「ふふん。そいつならいいだろう。おれはもっといろいろ宿題を抱えているんだから。それにこれからもっと増えていく――」
「おーい、最先から何ぶつぶつ言ってんだよ」
台所から、竜之さんの声。
「いえ、独り言です。気にしないでください」
おれは石児童をひょいと小脇に抱え、テレビの前に立った。ソファーに腰を下し、真っ黒な画面を見つめる。電源を入れる気にはならない。
ソファーに頭を凭れ、眼を閉じる。
「もう此処らでいいよな? この重くて仕方がない奴をどうにかしたいんだ」
「遠慮しないでもいい」
石児童は、おれの横で大事そうにランドセルを抱えながら答えた。
お義父さんには参った。おれがあの男をそう呼ぶ日は、永久に来ない。そもそもあの男におれは殺されたようなものだ。まさしく息の根を止められてしまい、京子とは別れるほかなくなったのだった。
中野十一。一を聞いて十を知ると言われている男。慈民党の国会議員にして表舞台にはほどんと現れないが、各界の実力者たちさえ彼には一目置き、恐れをなしてもいる。
あの男の秘書で片桐勇司という男が、何度も接触してきた。京子と別れさせるために、時には暴力でおれを脅し、時には金で誘惑しようとして。
あいつは、封筒にいれた百万円の束のことを、こんにゃくと言っていた。政界ではそう呼び慣ならわされているらしい。
しかし、おれは偉大なへそ曲がりだ。そんなことに屈するわけがない。しかし、向こうも決して諦めない。爬虫類みたいにしつこいやつだ。
由井正雪みたいな髪型をした嫌味な奴だ。身なりはいい。いつも高級ブランドのスーツできっちり決めてくる。
外見からは分からないが、怪力の持ち主でもある。きっとスーツの内側には鋼のような筋肉をまとっているに違いない。そして筋肉は鱗でおおわれている。
奴が指定した場所には決しておれは赴かない。自ら敵地に乗り込むようなものだ。どんな罠が仕掛けられているか分かったもんじゃない。
私のテリトリーだと怖いんだろう。ならばどこでもいいから、君が好きな場所を指定したまえ。ママに抱っこされておっぱいでも飲みながらさ、ぬくぬくと安眠できるような場所をね、と挑発するように言う。
おれが取り合わないと、向こうから勝手にやってくる。ある日おれは、青山にある<ヴィクターズ>という店で一人飲んでいた。無謀にも芥川賞なんかを目指し、新聞社を辞めてしまったものの、肝心な小説はさっぱりかどらなかった。
京子とも会えば喧嘩ばかりで、将来の生活にも不安を感じていた。そんな時に、奴がひょっこり顔を現したのだった。いつものように手下に命じて、おれを監視しているのだろう。




