弐百七拾壱 のっそりひょん、再び逃亡を図る
「何だって?」
一瞬、口ごもる。それから早苗さんのほうをちらっと見やると、
「ああ、奪ったとも。奪ってやりましたよ、俺は」
そう言って、胸を張った。
「同意なしに? 力づくにですか?」
さらに畳みかけてみた。少しおれは意地悪になっている。
「力づくだって? 馬鹿野郎、そんなことをするわけないじゃないか」
首にかけていたタオルをきりりと頭に巻くと、目を剥いた。
「流れだよ。それプラス呼吸、間合い、タイミングってものがあるだろう」
「流れですか?」
「そうだよ。でも、流れに流されるだけでは不可い」
「はあ……」
「そのままズルズルいくんじゃなくて、俺はいま誠実なんだろうか。この人の全てを俺は引き受ける、そういう覚悟はできているんだろうか。そして相手は何を求めているのか。いったんそういうのを推し量る。それからは成り行きに任せる」
「そういうのは、奪ったとは言わないんじゃないですか?」
「だからそれは、言葉のあやってもんだよ。ノーベル文学賞のくせにそんなことも分からないのか」
「バーカ」
それまで黙っていた早苗さんが口を開いた。
「何が覚悟だよ。ねえ、のっそりひょん。こいつはね、いざと言うときにからっきし意気地がなくってさ、だから私のほうから奪ってやったんだ」
のっそりひょんと久しぶりに呼ばれてしまった。自分の夫を遣り込めようとしたおれに、小さな復讐をしたのかもしれない。
「お前、こんなのっそりひょんにまでそんなことを――」
竜之さんは、すっかりうろたえている。
「昔、美登里さんに教えただろう。あの時はそれがトラの奴にまで知れて、そのことでさんざんからかわれて、どんだけ俺が悔しい思いをしたか」
事実だったのか?
「ハハハ」
こっちは顔をのけぞらせて笑っている。
やれやれ、夫婦いつまでも仲良くやってください。もう本当に潮時だ。
「さて、僕はそろそろこの辺で――。京子のことは無理にしても、こんにゃく様のことについては僕にできることは何でもするつもりです。皆さんには本当に良くしていただいたし、少しでも恩返しできればと思っていたので」
そう言って腰を浮かせかけたら、すかさず言われた。
「お前、コーヒーを濁して逃亡を図ろうったって、そうは問屋が卸さないぞ」
「えっ?」
「お前の恋愛のことはともかく、俺様の地主と話をつけてくれ。さっきも言ったが、すぐに買い戻すとしても、今までずっとあの土地を耕し、何かを植え、育ててきたんだ。せめて今までどおり続けさせてほしい。お前に仲介してほしいんだ。それを確約してくれたら、帰してやっても良い」
いやいや、帰してやっても良いって、おれには自由はないのか?
ぐずぐずしていたら、早苗さんが言った。
「そうだ。その小作契約だよ。その見通しができたんだ。アンタが変な茶々をいれたりするもんだから、すっかり話がそれてしまった」
「小作契約? どういうことなんだよ」
「今から話すから、しっかり聞いてよ。欽ちゃん、あなたも聞きなさい。あなたにも大いに関係のあることなんだから。つまりね、あなたの将来のお義父さんの話なの」
「いや、お義父さんって……?」
おれはさっきからそわそわしながら、腰を上げたり下げたりしていたが、またペタンと尻を落ち着けてしまった。たぶん相当な間抜け面をしているに違いない。
「もうコーヒーは淹れても、茶々はいれないでよ」
夫に向かって念を押す。
「お? おう」
こっちも負けず劣らずの間抜け面をしている。
「次、サイフォンね」
「はい」
いそいそと収納棚に向かう。
って、本当に出すの? もう三杯目だよ。それも今日の今日まで、おれは大のコーヒー嫌いだったんだよ。これ以上は胃がどうかなりそうだ。
「そうだ」
早苗さんが勢いよく立ち上がる。
「タチュユキの奴が腹を空かせてるだろうと思って、いろいろ食材を買って帰ってたんだった。コーヒーだけじゃきついから、何か作るね。欽ちゃん、あんたはテレビで見ながら、待っときなさい」
台所に立つと、二人で笑い合いながらガチャガチャやり始めた。
やれやれ、おれはいつになったらこの夫婦から解放されるのだろうか。




