弐百七拾 愛は惜しみなく奪う
「いやあ、無理です、無理です。彼女はほかの人間と婚約しているんですよ。それにあの女とはとっくの昔に切れているんですから」
おれはあわてて打ち消した。あえて、あの女と言ってみた。
すると、早苗さんが言った。
「それにしても、おかしいなあ。だって美登里ちゃんが言ってたわよ。彼女、それはもう献身的だったって。眠っているあなたの額の汗を拭ってあげたりとか、布団を掛け直してあげたりとか」
「それは、いつのことを言ってるんだ?」
竜之さんが不思議そうな顔で聞く。
「ほら、百年杉が倒れてしまった時の話。あの時、欽ちゃん背中に大怪我をしたらしくて」
「ああ、聞いた、聞いた」
急にニヤニヤし始める。
「それで寅さんたち夫婦と三人で布団に寝かしてあげたんだけど」
「布団は二組敷いてあったそうだな」
「茶々入れないでよ」
夫を睨みつける。
「そうそう、それで思い出した。そのあと彼女ったら、今お茶をいれますからと、いそいそしながら台所に立ったらしいのね。でも、しばらくしたら悲鳴と同時にガチャンという音が座敷まで響いてきたんだって」
「いったい、何があったんだ?」
「行ってみたら、半泣きで座り込んでたっていうの。床には急須と湯飲み茶わんが散乱していた」
「へえ、大変な美人の上に才媛らしいが、意外だなあ」
「そうだよ。それで丁度つり合いが取れているんじゃないの? 美登里ちゃんが言うには、彼女そそっかしい上に、大変な不器用なんだって。それに大酒呑み」
「おっ、待ってました」
ちょっと早苗さん、京子のことを褒めるどころか、さんざん貶めてない? でも、まだあるぞ。出しゃばりで、何にでも首を突っ込んでは失敗するんだ。そそっかしくて不器用なことと同じようなものだけど。
まだある。女王様気質で、あれをしないで、これをしないで、何とかをしないでというのを連発する。それに悪口を言い出したら際限がないんだから。でもこの点はおれとよく似ている。この所為で、二人でどれだけ口喧嘩をしたことか。
アカオトシは言ったっけ。女には言いたいだけ言わせてあげりゃあいい。それをいちいち言い返したり、口喧嘩したりする男は大馬鹿野郎でさあと。
京子はすっかりムキになって言い返してくる。目に涙を一杯浮かべて。泣く子と地頭には勝てない言うが、泣く子は本当に悲しいから泣いているんだ。そう思って、何度後悔したことだろう。ああでも、今さら後悔したって始まらない。
それにもう一つ、彼女についてみんながまだ知らないところがある。彼女は嘘つきだ。嘘つき――。あることをあえて言わないことは、嘘つきになるんだろうか?
「嘘なんかついてないよ。そこがすごくうぶで、可愛かったって。まるで結婚したての若妻みたいだったって。それこそ甲斐甲斐しく。見ていて痛々しいぐらいに」
「ふーん」
竜之さんがおれのほうを見て、またニヤニヤする。
「皆さん、誤解してます。彼女は責任感が強いだけなんです。自分の所為でおれが怪我をしたと、そうすっかりそう思い込んで――。一途なんですよ。だからあいつは学者に向いてるんです。研究心旺盛で、決して妥協しない」
「私は少し違うと思う」
早苗さんが静かに言った。
「一途なのはそうかもしれない。でも、それはあなたに対してなのよ。美登里ちゃんが感じ取ったのは、そのことだったと思う。女にはわかるんだから」
「いや、いや、いや……、第一、彼女はほかの男と婚約しているんですよ」
俺は首を振った。
それにおれのほうだって、彼女を愛する資格なんてない。そのことは彼女の父親にも見透かされてしまった。
「やれやれ、お前はただそればかりぐずぐずと。それにしても京子さんとお前は、いったいどうなってるんだ?」
竜之さんがあきれたように言う。
「そうだ。彼女、またこっちに来るらしいわね。あのわらわんわらわの人形を直して。その時に、彼女の気持ちをしっかり確かめてみたら?」
「チャンスじゃないか。布団を敷いて待っとけよ。四の五の言わず奪っちまうんだ」
そう言った竜之さんを、早苗さんがまた睨みつける。
奪うだって? そう、愛は何もかも奪おうとする。彼女の大切な時間を。時には人生そのものを。
おれは逆襲に出ることにした。
「竜之さんは奪ったんですか?」
きっと顔を上げて相手を見据える。




