弐百六拾八 泣け、欽之助
「どういうことですか?」
とおれは聞いてみた。
「まあ、最後の搾りかすのようなもんだな。どうも不味くて不可い。雑味が混じるんだな」
「そういうものですか」
「そういうもんだ。よし」
そう言うと竜之さんは、搾りかすをフィルターごとゴミ箱に捨てた。実に潔い。
「ほらよ」
と、対面から早苗さんとおれのカップに注ぐ。
自分も一口飲むと、こちらをじっと見ながら言う。
「お前、ミルクを入れたいんじゃないのか?」
「あっ、いえ」
「遠慮しなくていい。もっともおれはぞっとしないが。勿体ないんだよな。香りが損なわれるようで」
そう言って、スティックを差し出してきた。
「…………」
おれは一瞬言葉に詰まる。
「そうじゃないよ」
早苗さんが横から口を出す。
「クリームにして。ポーションの」
「何だって? わがままな奴だなあ」
向こうは迷惑そうな顔をしながら、それでも棚の中をごそごそいじり出した。
やがて、
「あった。ほらよ」
と渡してくれた。
おれは素直にそいつの先をぷちっと折って、一滴だけコーヒーに垂らしてみた。白い筋が見る見る全面に広がっていき、いろんな形に変化していく。
「見えようによっては、何かの占いに使えそうね。欽ちゃん、あなた何に見える?」
と早苗さん。
「あ、はい……」
何も見えない。ただ見えるのは、カップの中をじっと見つめるあの時の京子の姿、あの表情だけだ。
何故あの時、おれは怯んでしまったのだろう。いったい何をおれは怖れたのか。その一瞬の隙を、おれはあの父親につかれてしまった。しかも、彼には対面もかなわないまま、完全に打ちのめされてしまったのだ。
京子のことを愛していることに変わりはない。それなら何も聞かず、何も考えずに彼女の全てを受け入れさえすれば良かったのだ。しかし、今さら何を? 彼女はキンケツと婚約した。もう取り返しはつかないのだから。
おれには彼女を愛する資格はない。男らしくきっぱりと諦めたんだ。遠くで彼女の幸せを祈ることにしたんだ。――って、昭和の男かよ。馬鹿だな、お前は。
しかし、あの時の彼女の表情――。ふざけたり、楽しそうに笑っていたりしているのとは裏腹に、本当は彼女は辛かったのではないか。何度もそう思い返すたびに、おれは彼女のことが哀れに思えてくるのだった。
しかし、人のことを哀れに思うなんて傲慢だ。本当に哀れなのは自分自身なのだということにも気付かずに。畢竟するに、お前は振られただけなんだよ。彼女自身は自分に誇りをもち、前を向いてまっすぐ生きているじゃないか。要するに自己憐憫なんだ。
不可い。不可いよ、欽之助。だめだ、涙が出てきた。ぐっとこらえる。しかし止まらない。おれはうつむいたまま嗚咽し始めた。
二人が顔を見合わせているのが、気配で感じられた。
「泣けよ」
と竜之さんが言った。
「しかし、泣くなら中途半端に泣くな。渾身の力を込めて、思いっきり泣くんだ。おれも早苗に振られた時、そうだったんだから」
おれはカウンターの上で両方の腕を組み合わせたまま、言われたとおりひとしきり泣いた。その間、二人とも何も言わなかった。ひとしきり泣くと、すっきりした。
「有難うございました」
おれは顔を上げると、カップのコーヒーをぐびりと飲み干した。
「あっ、こいつ」
「いいじゃない」
と早苗さんが笑う。
「う、うん。欽之助、さっきはお前が失恋したことをからかったりして悪かったな」
「いえ、本当のことだから何とも思っていません。それにもう過ぎたことだから」
「本当のところは、お前を応援したい気持ちもあるんだ」
「えっ?」
「ほらよ、あの人が巫女さん、いや神主さん? えい、なんでもいいや。とにかく、あの京子さんがだよ、こんにゃく様を引き継いでくれてこの村を繁栄に導いてくれるって話なんだが。本当にそうなってくれればいいなって。そうなれば本当に助かるんだ。安心して農業ができるからな」
すると早苗さんが、ぱっと目を輝かせた。
「そ、そうなのよ。さっき、私が言い掛けたのはそのことだったの」




