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弐百六拾七 タチュユキさん、再びの長講釈

 さっきよりは、若干手順が込み入っている。ひょっとして、この人たちにおれは認められた? のっそりひょんから昇格したのかな?


「バーカ、何言ってんだよ」

 ぴしゃりとやられる。


 慌てた時、腹が立った時、そしてうっかりしている時にも、俺の念は駄々洩れになってしまうのだ。


 向こうは真面目な顔で後を続ける。

「勘違いするんじゃない。インスタントだからってバカにしちゃあ不可(いけな)い。一度淹れたコーヒーを粉末にして香と味を閉じ込める。そしてお湯を注いだ時にまたそれを蘇らせる。素晴らしい技術だぞ。メーカーの皆さんが日夜研究に研究を重ねて、最高のものを提供してくれているんだ。それを我々が手軽に味わうことができるんだから、感謝しなくちゃな」


「はあ」


「心もとない返事だなあ。いいか、疲れた時にふとコーヒーが飲みたくなったとするだろ?」


「はあ」


「でも、疲れているから面倒だ。そんな時にこそ、インスタントだ。可哀想に、お前は今まで知らなかったんだなあ」


「えっ?」

 藪から棒に何だろう。


 相手はそんなおれを見て溜息を一つつく。それからさらに続けた。

「いいか、お湯を注いだ途端にぱっと広がる芳醇な香り。それを口に含んだ時の幸福感。そんな時、ああ、今日も俺は頑張ったなあってしみじみ思えるんだ。そして感謝の気持ちさえ湧いてくる。ああ、俺は生かされているんなあとか、人に助けられているんだなあとかな」


 早苗さんがにやにやしながら夫を見つめている。それに気付いた竜之さんが慌てて言った。

「おっと、不可い。もう30秒()っちまったな。いいか、欽之助。ここでも丁寧にゆっくりだ。ゆっくり、やさしくと」


 この分だと、そのうち本当にアルコールランプが出てくるかもしれない。


「サイフォンと言えないのかね。それはまた今度だ」


 えっ、本当に出るのかよと思ったが、向こうはお湯を注ぐのに集中している。

「いいか、この時にだな、香りとともに音も味わうんだ」


「音ですか?」


「おうよ。ドリッパーの底からコーヒーの抽出液が落ちてくるだろう?」


「はい」


「ポタポタでもないんだな。かと言ってチョロチョロでもドボドボでもない。そりゃ小便(ションベン)だ。うーん、何と言えばいいんだろう。強いて言えば、ちりんちりんという、か細い音。挽いたコーヒー豆の香味を逃さないように、大事に大事にサーバに落とし込む優しい音だ」


 言われたおれは、その音に聞き耳を立ててみた。確かに繊細な、いい音だ。


「こうしているとな、何時の間にか俺は雑念を忘れている。心がこう、すっきりしてくるんだ。――そうだ早苗、俺はどうしてこんな大事なことに気付かなかったんだろう。自棄(やけ)になってパチンコなんかに(うつつ)を抜かさず、こうやって心を整えながら、このささやかな時間をお前と過ごせば良かったんだ」


「それに気付いたアンタは偉い」


 おれはまた思い出してしまった。京子がさんざんおれをからかいながら、コーヒーカップに口を付けていたことを。あの貴重な愛しい時間は、もう二度と戻らないのだ。でもあの時、京子は楽しそうに笑っていたが、本当に楽しかったのだろうか?

 

 彼女は言ったっけ。一人で喫茶店に行くのが好きだと。ミルクをぽたっと垂らして、その白い筋がいろいろな模様に変化していくのをぼんやりと眺めているのが好きなんだと。


 ふと気がついたら、彼女はじっとコーヒーカップの中を覗き込んでいた。その直前までのふざけたような笑みはすっかり消えていた。その時おれは思ったのだった。


 ひょっとしてこの人は、おれの窺い知ることのできないような何らかの闇を抱えているのだろうかと。そしてそんな表情さえ、美しいと思ったのだった。


 あの時のおれには知る由もなかった。彼女がおれより三つ年上であることを。彼女は最後までそのことをおれに話してくれなかった。勿論、そんなことは重要なことではない。


 それを話すことは、もっと重要なことに触れることになるのだ。彼女は一人で重いものを背負っていた。それを一緒に背負ってやるだけの器量が、おれにはなかったのだ。


 なにしろおれ自身が、石児童を背負っているのだから。石児童はまた、自分の背中より大きいランドセルを。ランドセルの中には、いろいろ重い宿題やらが。


 否々! 彼女にとっては重いものでも何でもなかった。だから、あえて自分からおれにそのことを話す必要なんてなかったんだ。全てはおれ自身の問題だ。


「おい、何をぼんやりしてるんだ、欽之助」

 声を掛けられたおれは、はっとして顔を上げた。


「もういい頃だ。最後の一滴まで搾り取るような真似をしちゃあ不可い。そんなことは、悪代官の所業だからな」

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