弐百六拾六 アッツアツの夫婦
「お前、いったい何が言いたいんだ?」
「あなたは借金をこさえた末に、先祖の土地まで手放す羽目に。それですっかりヤケになってしまった。でも、あなたは悪くない。あなたは一生懸命だったんだから」
ここで感極まったように、言葉を詰まらせる。
「早苗、お前……」
「一生懸命頑張って、規模拡大して――」
涙ぐんだまま微笑もうとして、口をピクピクさせている。
「うん」
「そして、他人の土地まで引き受けて、ムラを守ろうとしたんだよね」
「うん、うん」
とうとうタチュユキさんの顔もくしゃくしゃになる。
「でも、駄目だった」
「そうだよ、駄目だった。俺が馬鹿だったんだ。今まで悪かった、ゴメン」
拳で涙を拭ったが、それでは足りず、鉢巻を取ってごしごしやり始めた。
早苗さんはゆっくり夫のそばに行くと、優しくその肩に手を掛けながら言った。
「アンタは一つも悪くもない。逆だよ、アンタは立派だった。むしろ悪かったのは、私。苦しんでいるアンタを理解できなくて」
「早苗――」
竜之さんは、がばっと妻を抱き締めた。全く見ちゃおれない。眼が火傷しそうだ。
しばらくそのまま時が流れる。
「あのお……」
ごつごつぴかぴかしたカウンター側面の瘤を、おれはしばらく撫でていたが、もう我慢の限界だ。恐る恐る口を開いた。
「そろそろこの辺でおいとまをさせていただこうかと」
「何だ、お前まだいたのか。気の利かない奴だな。おう、帰れ帰れ」
片手で追い払うような仕草をする。
「はい。どうも長居をして申し訳ありませんでした」
おれは早苗さんにお辞儀をして、その場を去ろうとした。
「駄目よ、まだ駄目」
すかさず止められる。
「まだ言いたいことがあるんだから。それに欽ちゃん、これはあなたに一番関係のあることなの。だから逃げ出しちゃ駄目よ」
「はい。でも……」
それでもやっぱり、ここは何としても逃げ出さなければ。そう思いながら、竜之さんの顔色をうかがうと、
「そ、そうだよ。お前、もう少し付き合えよ」
と、いきなりの手のひら返し。
「タチュユキ、もう一杯コーヒーを淹れてくれる?」
「うん、分かった」
いそいそとやり始める。すっかり借りてきた猫だ。
竜之さんの親父さんは、子供の時分に蛇を叩き殺した。蛇は死ぬ前に、お前の子供として生まれ変わり復讐をしてやると誓った。それを登世さんが、蛇の霊を祓い清め、竜として浄化させてやったというのだ。彼の名付け親は登世さんだったのだ。
蛇から、竜へ。それが今は、ただのおにゃんこだ。この人も何回変態していくものやら。
そして、このおれはどうだろう。オッチャンからボッチャンへ。失恋の末に落ち目になったかと思えば、寅さんたちからは坊ちゃん扱いだ。あげくにモンジ老からは性欲の塊だと。清さんから先生呼ばわりされたかと思えば、ヤンマーはおれを変態だと。そう言えばあのバスガールは、このおれをエッチ、変態、ドスケベ欽之助とのたまったものだ。今ではとうとう、のっそりひょんだ。
世の中も変われば、人も変わる。だったらこう考えればいい、人は変われる。変われるものなんだ。優しくもなれれば、強くもなれる。成長だってする。
ああしかし、おれは卑怯でなかったか。京子に対して誠実だっただろうか。否々! そしてそのことを、彼女の父親にすっかり見透かされてしまったのだから。
あれからおれは変わっただろうか――。
ガチャガチャいう音に、はっと我に返ると、竜之さんが何かを食器棚から出している。
「お前には分からないだろうが、ドリッパーとサーバーと言うんだ。これも手順が大事でね」
何れも白い陶器製のものだ。でも、また手順だって?
「そうだよ、手順だ」
そう言いながら、先ほどと同じバタフライブルームとやらのティーポットにまたお湯を注ぐ。
「いいか、ここからが肝心だ」
白い三角形の紙を取り出し、彼らしからぬ丁寧な手つきで2回ほど折る。それから別のコーヒー粉を取り出し、スプーンで3杯入れた。ドリッパーとやらの側面を、指でとんとんと叩いている。えらく慎重だ。最後にティーポットからゆっくりとお湯を注ぐ。
「いいか、性急はいけない。30秒ほどこのまま蒸らすんだ」
いいか、をやたら繰り返す。




