弐百六拾五 混線する夫婦の会話
「そうだったのか。俺のコーヒーのせいで、厭なことを思い出させちまったみたいだな。済まん」
目が口を裏切っている。ずいぶん嬉しそうだ。
「おい早苗、どうやらこいつは、失恋したばかりらしいんだ」
「えっ?」
向こうは不思議そうな顔をする。
「美登里ちゃんからはそうは聞いてないわよ。たしか京子さんって言ったっけ。この人にぞっこんなんだって。ついこの前の話だよ」
顔から火が出るとは、まさにこのことだ。直ぐにでもその場から飛んで逃げ出したくなった。しかし、その前に早苗さんの誤解を解かなければならない。京子からはとっくに愛想を尽かされているんだから。確かそのはずだ。でも、美登里さんは……。
いや、いけない。いけないよ、欽之助。変なことを期待するのは。お前にはそんな資格は微塵もない。彼女の父親にもそれを見透かされている。それがおれにとっては、最大の決定打だったのだ。
でも、どう話を切り出していいものか。
おれは単純でせっかちな人間だが、優柔不断でもある。ぐずぐずしていたら、竜之さんのほうが先に口を開いた。
「京子さんって、お前、どの京子さんのことを言ってるんだ?」
「どの京子さんって、欽ちゃんの彼女の京子さんに決まっているじゃない」
「だから、その京子さんって、――あの中野京子だぞ」
「中野京子って、そんなの私、知らないわよ。美登里ちゃんから、ただ京子さんとしか……。あっ」
こちらを振り返り、まじまじと見つめてくる。
「そうだよ。あの中野京子だよ。俺様の地主の」
俺様の地主……? 彼の土地が本当に京子のものになったのかどうかは、部外者のおれに分かる由もない。しかし仮にそうだとしても、彼女と小作契約を結んだわけでもあるまいし。
「小作契約? ということは、あの中野十一の? うそっ」
交互に竜之さんとおれの顔を見比べる。
「そうだよ。あの中野十一の娘なんだよ」
「でも、まさかそれにしたって……」
「驚くのはそれだけじゃないぞ。登世さんは言うんだ。彼女が伊勢の斎宮の後裔、旺陽女様で、こんにゃく様を再興するんだって。とんだたわごとだよ」
そうだよ、竜之さん。そんな話は全くのでっちあげなんだ。そのでっちあげに、京子も適当に話を合わせただけなんだから。しかし何と説明したらいいものか。
「そこまでは私も聞いてたんだけど……」
早苗さんは腑に落ちない様子。
「それにあろうことか、こののっそりひょんが――、いや済まん、欽之助がその旺陽女とやらと結婚すると言うんだ。あの婆様、とうとう本当に耄碌しちまったんじゃねえのか?」
のっそりひょんというのは、おれの何番目のあだ名だろう。登世さんから拝命したにしても、実に気に食わない。いやそんなことより、タチュユキさん、あのお婆さんは耄碌なんかしていないよ。あれは彼女の策略なんだ。
「うん……。えっ?」
早苗さんが少し不思議そうに言う。
「いや、私はそうは思わない。本当にそうなればいいと思う。でも、のっそりひょんっていうのは確かに可哀想。ん? タチュユキ、あなた一体どっちだって言うの? 耄碌でも策略でもない。あの話は――」
おっといけない。すっかり忘れてた。また念が漏れてしまっているようだ。いきなり京子の話が出たものだから、すっかりうろたえてしまった。制御だ、制御。
おれは死んだ爺ちゃんからとくとたしなめられていたのだった。お前は慌てたり、怒ったりすると、心の中で思っていることがそっくりそのまま相手に伝わってしまう。だから気を付けなくちゃいけないよ、と。
「策略だって? いったいお前、何を言ってるんだ?」
今度は竜之さんのほうが、狐につままれたような顔をしている。
「だから、何が策略なのよ。あの話は私たちにとって一つの希望なの」
「希望?」
「だって、百年の呪いが解けたんだよ」
「百年杉のことか?」
「うん。この言い伝えを私はそのまま信じてきたわけではないし、百年杉の顛末を美登里ちゃんから聞いた時も私は半信半疑だった」
「ほらみろ。お前だってそうじゃないか。あれはただの天災って奴だ。それをあの婆様ったら、いろいろ話を捻じ曲げたり、こぎつけたりするもんだから」
「違うよ。私がさっきからこだわっているのはそんなことじゃないの。あのね――」
一生懸命考えるようにしながら続ける。
「そんな百年の呪いの話なんか抜きにしても、ほら、私たちの住んでいる田舎って、ここんとこずっといいことなんてなかったじゃない。駅も郵便局もなくなった。農協の支店だって廃止された。地方創生と言ったって、農村はますますさびれていくばかり。だからあなたも――」




