弐百六拾四 一難去ってまた一難
おれは改めてその匂いを嗅いでみた。
「そうですね……」
とりあえずつぶやいてみる。そうやって自然に言葉が湧いてくるのを待つ。
「うーん、何だろう……」
もう一度つぶやく。
二人とも、次の言葉を待つようにじっとこちらを注視している。
それにしても、たかがインスタントコーヒーぐらいで、なんでこんな――。おっと危ない。おれの念はすぐにだだ漏れになってしまう。制御だ、制御。
香り――。かくも不思議なるもの。その原因となる物質がそこには存在しないのに、そいつは不意に立ち現れる。
あれ、何だろうと思いながら、おれの心はざわめく。遠い過去に誘われるような不思議な感覚、或いは記憶……。
例えばそれは、幼い頃、友達と遊んでいた時にふと漂ってきた何かの植物の香り? 或いは母に抱かれてまどろんでいる時に、快く鼻腔を刺激してきたもの……?
いや、感覚ではない。記憶だ。
眠っている――。おれはこんこんと眠り続けている。母の胎内で。無限の宇宙の中で。そして父母未生以前の我に、おれは立ち返る――。
「何だよ、いつまでかかってんだ。たかがコーヒーの香りぐらいで」
竜之さんの言葉におれははっとする。
たかが、コーヒーだって? ひょっとして念が洩れた?
そうだ、今はこの眼前の危機を乗り越えなければ。
おれに突きつけられているものは、今ここにあるものなのだ。父母未生以前の我だなんて、そんなこんにゃく問答みたいな話ではない。もっと具体的なことなんだから。
ん、こんにゃくだって?
そもそも誰かが「こんにゃく様再建委員会」なんかを立ち上げて、それでもってこのおれを騙してそこに連れていったから、こんな面倒くさい人に付き合わされるような羽目に陥ってしまったんだ。
チクショー、寅さんのバカ野郎!
「トラが馬鹿なのは、分かっている」
「え?」
「ゆうべも散々そう叫んでいたじゃないか。お前も随分しつこいな」
「あ……」
「俺が心を込めて淹れたコーヒーは、どうなったんだ?」
「そうでした、スミマセン。ええと、そうですね……」
「やれやれ、またそうですねときたか。いつまでもそれで誤魔化そうとしたって、そうは問屋が卸さないからな」
「ちょっと待ってください」
改めてコーヒーカップに鼻を近づける。
「うーん、何だろう……」
「おいおい」
「懐かしい……」
「懐かしい?」
「それに何だかほっとするような……」
「ほお」
「でも、それだけじゃない」
「何だ」
「それでいて何かしら心細いような……不安なような……」
「何だ、さっきから。ような、ようなとばかり」
「まだ、あります」
「何だよ。まだあるのか?」
「遠い昔に、何か大切なものを置き忘れてきたような……」
「どれだけお前は矛盾を抱え込んでるんだ。まあいいや。それだけ言えたなら、いちおう合格だ」
って、どんだけ上から目線なんだよ。
「何だと?」
しまった――。
「恋ね」
早苗さんが割って入った。
「濃いだって? そんなわけないだろう。あっ――」
早苗さんがいたずらっぽく目配せをしているのに気づくと、竜之さんはこちらを振り向き、意地悪そうな笑みを浮かべる。




