弐百六拾参 面倒な男
竜之さんは、彼らしからぬ丁寧な手つきでティーポットからカップにお湯を注ぐと、顎をしゃくって言った。
「何をボンヤリ突っ立ってるんだ。さあ、早くそこに座るんだよ」
「はあ」
おれは仕方なく、キッチンカウンターを回って早苗さんの横に腰を下ろした。
「ほらよ」
カウンター越しに、淹れたてのコーヒーが二つ置かれる。
淡い緑色と水色に彩られたカップの中の黒い液体を、おれはじっと見つめた。ミルクも砂糖もない。出してくださいとは言えない雰囲気だ。背中に一瞬、緊張が走る。
苦いぐらいは我慢できる。しかし向こうはあれだけ講釈をたれたのだ。飲んだ以上は何か言わなければ許してはくれまい。
だがおれは、嘘というものが大っ嫌いだ。ましてや歯の浮くようなお世辞には虫酸が走る。
ましてやましてや、それがおれの口から出ようものなら、全身ほろせだらけになって、七転八倒しながら我と我が身を掻きむしる違いない。
苦いものは苦い。まずいものはまずい。
おれは京子にだって、ずっとそれで通してきたんだから。
京子の前で、わざとのように砂糖をたっぷりぶちこんで、右手でスプーンで掻き回し、そのスプーンをカップに入れたまま、左手で持って飲んだのだから。
あいつは最初のほうこそ、そんなおれをからかったり笑ったりしていたが、仕舞いにはあきれて何も言わなくなったっけ――。
向こうから竜之さんが厳しい視線を送ってくる。早苗さんもコーヒーカップに口を付けたまま、じっとこちらの様子を窺っている。
ええい。こうなったら野となれ山となれだ。
おれは腹をくくって、そいつを一口ズズッと啜った。
竜之さんが顔をしかめる。早苗さんがぷっと噴き出す。
二人がどうしてそんな反応をしたのか訝りながらも、自然におれの口から出た言葉は、
「あっ、おいしい」
だった。
「だろう?」
「でしょう?」
二人が同時に笑った。
おれはもう一度ズズッとやってみた。
確かにおいしい。
竜之さんは対面に立ったまま静かに口をつけると、言った。
「ただ、おいしいだけか? それじゃあ、まるでガキだ。誰でもそう言って誤魔化せる」
「そうですねえ……。苦味が和らいで、まろやかな感じがします」
「ふん、月並みだな。まあいい。香りはどうだった?」
「あっ」
面倒臭い人だなあと思いながら、おれは改めて鼻を近づけた。
「あっ」
「何だ」
「いいです」
「いいですって、もっとほかに表現方法はないのか? よくそれで芥川賞作家だなんて言えるな」
「いや、それはキヨさんが勝手に……」
「言い訳はいい。巧言令色鮮し仁って言ってな、言葉なんか飾り立てなくったっていいんだ」
「よく漢字で言えたね」
早苗さんがまた冷やかす。
「おうよ、俺はそれだけで生きてきたんだ。特にお前に対してはな」
「そうだね。あん時、アンタはホント格好悪かった。アンタに告られたときは顔から火が出るほど恥ずかしかったよ、私」
「ふん。いいか、錦之助――」
竜之さんはそう言うと、首にぶら下げていたタオルを手にすると、ぎりりと頭に巻き付けた。
「男は無様だろうが、みっともなかろうが、そんなことはどうだっていいんだ。そんなことよりも、魂の叫びみたいなものがあるだろう。もっと俺の心に刺さるようなことを言ってくれ」
心に刺さるような? ああもう、面倒臭いなあ。
早苗さんが、さっきから意地悪そうにニヤニヤ笑いながらこっちを見ている。
ああ、やっぱりこの人は京子に似ている……。
畜生、さっきから心にチクチクと刺さってくるのはおれのほうだよ。
彼女と向かい合ってコーヒーを飲んだあのひととき――。あのひとときを、なぜおれはもっと大切にしなかったのか。あの愛しい時間は、もう二度とは戻ってこないのだ。




