弐百六拾弐 モノローグとダイアローグ
「ん? お前いま、何か思ったか?」
「えっ? 別に何も」
「いや、思ったよな?」
意外としつこい。
いま何か思ったかって、そりゃあいつも何かを思っていますよ。生きてるんだから。思わなかったら死んでます。
「いや、そういうのじゃなくて。――ん? お前いま、何か口に出して言ったか?」
「いえ、何も。いやだなあ、タチュユキさん。さっきからどうしたんですか?」
危ない。危ない。うろたえたり、腹を立てたりしている時だけでなく、気が緩んでいる時も、念が駄々洩れになるのだった。
「うーん、どうも変なんだなあ」
向こうはなおも疑わしそうにこちらを見ながら言った。
「さっきから、急に思いが湧いてくると言うか……、いや、そうじゃないなあ。勝手に思いが飛び込んでくると言うほうがふさわしいのかな? それとも幻聴のようなものが聞こえたと言うべきか……」
この人はこれだから油断がならない。無学で乱暴なように見えて、実は物事を深く考えているし、突然鋭いことを指摘したりする。
人間は、始終何かを思ったり考えたりしているものだ。まとまった思考とまではいかないまでも、雑念や妄想、そういうものが絶えず現れたり消えたりしている。
きっと脳みその中では、神経回路のあちこちで火花のようなものがパチパチと明滅しているのだろう。火花の一つが雑念で、火花と火花が神経回路で結ばれると妄想になる。
ふと妄想が湧いてしまうのは仕方がないが、それを抱き続けたり膨らませたりしてはいけないと、お釈迦様は言った。
人間、生きてりゃ悩むってもんだと言ったのは、ゲーテだったか? 悩むのは仕方がないが、妄想はいけない。もうすぐ他人の妻になる女への飽くなき思い――、これは妄想だ。
モンジ老さんは、おれのことを性欲の塊だと言ったっけ――。
そうだよ。いけないかい? おれの勝手だ。これからもおれの一人寝の夜は続くんだ。
いけない。いけない。こいつはいけないよ。しっかりしろ、欽之助――。
一人で首を振っていると、すぐそばで声がした。
「大丈夫か、欽之助?」
竜之さんがじっとこちらの顔を覗き込むようにしている。
我に返って、あわてて答えた。
「あっ、だ、大丈夫です。夕べ呑み過ぎたので、少し疲れが出たみたいです」
「やっぱり、お前は変な奴だよ」
「そう言われるのは、慣れてますから」
「ふん、ますます面白い奴」
竜之さんは、おれの頬を軽く叩きながら言った。
「疲れなら、俺のコーヒーで取れるから。いいか、まずは分量だ。このスプーン一杯で約2グラム。多すぎてもいけないし、少なすぎてもいけない」
意外だ。この人のことだから、適当にどばっと入れるものとばかり思っていたのに。
「当たり前だ。ほらここに書いてある」
そう言って容器のラベルを示す。見ると、確かに2グラムにつき、140CCと書いてある。
「もちろん俺はこれを鵜呑みにしたわけではない。いろいろ試してみたが、この割合で淹れるのが一番おいしいということに落ち着いたんだ。黄金比だよ、これは」
「はあ……、黄金比ですか」
「そうだ、黄金比だ。黄金比と言うからには、分量はきちっと守る必要がある。百姓だってそうだよ。適当な時期に、適当な量の農薬を撒く。肥料を施す。特別栽培だったら、慣行栽培の半分以下だ」
「はあ」
「何だよ、またお前の、はあが始まったな。まあいいや。このカップは少し大きいから、心持ち2グラムより多めに入れる。もちろん、お湯もだ。
いいか、基本はおろそかにしてはいけないが、この匙加減も大切なんだ。俺の頭の中には、それぞれのカップごとにどれだけコーヒーとお湯を淹れたらいいか、全て頭に入っている」
「はあ」
竜之さんがじろっとにらんだので、あわてて言い添える。
「あっ、そ、そうですよね。その匙加減ですよ。基本に忠実なのもいいが、柔軟さも必要だ。人生って本当にそうだ」
「俺のことをコチコチ頭とばかり思っていただろう」
「いや、思っていませんってば」
奥さんの早苗さんはカウンターで頬杖をついたまま、さっきからの二人の様子をにやにや笑いながら見ていた。




