弐百六拾 初恋の苦い味
「欽ちゃん、あなたも一緒に聞いてくれる? 息子のことなんだけど、私たちには理解できないことも、同年代のあなたなら理解できるかもしれないから」
「それがいい。この際だから、あのバカ息子のことを洗いざらいぶちまけてやれ」
「バカ息子なんて言わないでよ。バカはあなたに似たんだろうけど」
「何だ、それじゃあ一緒に、あいつのことをバカって言ってるようなもんじゃないか」
「余計なことは言わないで、早くコーヒーを淹れてきなさい」
「はい」
「この人ね、料理なんて何にもしないけど、コーヒー淹れるのだけは上手なんだから」
「任せとけ。いいか、欽之助。コーヒー淹れるには手順が大事なんだ」
どこかで聞いたようなセリフだ。フィリップ・マーローは決して手順を乱さないし、細部も大切にする。しかしまさか、このタチュユキさんが?
しかし正直、コーヒーなんてどこがおいしいのか分からない。ただ苦いだけじゃないか。あんなもの、みんなただ格好つけて飲んでるに違いない。
そう言えば昔、喫茶店で京子に笑われたことがある。おれはコーヒーの苦いのがいやで、砂糖もミルクもたっぷり入れて、スプーンでやたら掻き混ぜたのだった。
いやなものはいやだ。しかし、もう観念するほかはない。
仕方なく飲もうとするおれを見て、彼女はくすっと笑った。
「カップにスプーン入れたまま飲むの? 変な人」
窓辺に降り注ぐ陽光に、彼女のピンクブラウンの髪がきらきら輝いていた。
彼女の笑顔が眩しくて、おれは思わずうつむき、その黒くてまずい液体を、相変わらずスプーンを入れたままガブガブと飲んだのだった。
「手順が一つ抜けているわ」
と彼女は言った。
「普通、取っ手は左にあるでしょう。それってイギリス式らしいんだけどね、その場合は、まず左手で取っ手を押さえながら、右手で混ぜるの。そこまではあなたも正解」
何だこいつ、と思った。知ったかぶりする女なんか大っ嫌いだ。
半分はそう憤りながらも、残りの半分は彼女との初デートにすっかり舞い上がっていたのだった。
「あなた、出身はどこ?」
ストレートに聞いてくる。
「九州」
おれもストレートに答えた。
「九州の人って、喫茶店でコーヒー飲んだりしないの?」
今度は変化球だ。まさかそんな攻め方をしてくるとは。全く予想外の質問だった。
そもそもおれにとって、コーヒーなんて飲み物の範疇に入っていなかったし、喫茶店になんか入ったこともない。しかし、いくら九州でも喫茶店ぐらいはあるだろうし、好きで行く人もいるだろう。
少しムッとしながら、どう打ち返してやろうか考えていたら、京子はぷっと吹き出した。
「あなた、いま怒ってるでしょう? 分かりやすい人」
「少なくともおれ自身は行ったことがないが、九州にも喫茶店はある。いや、あるはずだ。それにしたって、今時の若者が喫茶店でだべったりするものか」
そう見栄を張った。
しかし、少し自信がなかったので念のために聞いてみた。
「東京では若い人も喫茶店に行くんだろうか?」
「知らない」
彼女はにっと笑って答えた。
「でも、私は好きだな。それも友達なんかと一緒ではなく、一人が好き。落ち着くから」
「ふーん」
おれは頬杖をしてそっぽを向いた。
おれは今、この女に翻弄されているのだろうか……?
何だかよけいに腹立たしくなる。
「でね」
彼女は構わずしゃべり続ける。
「ちなみに私は砂糖は入れない。ミルクだけ。それもスプーンは使わない。ミルクをこうぽたっと垂らすでしょう。そうするとひとりでに溶けていって、白い筋がいろいろな模様に変化していく。それをぼんやりと眺めているのが好きなの」
いくら容姿が良くったって、性格がそんなにひねくれていたんじゃ、友達なんかできっこない。一人でそうやって世界を作っているがいい。
おれは頬杖をついたまま、知らん顔を決め込んでいた。すると彼女もふっとしゃべるのをやめた。そのまま二人の間に静寂の時間が流れる。
しかし居心地が悪い。チラッと盗み見るようにしたら、じっとコーヒーカップの中を覗き込んでいる。さっきまでのふざけたような笑みはすっかり消えていた。
はっとした。
ひょっとしてこの人は、おれの窺い知ることのできないような何らかの闇を抱えているのだろうか――。
笑顔も美しいが、この顔も美しいと思った。
思わず見とれていたら、彼女が不意に顔を上げたものだから、まともに目が合ってしまった。
どぎまぎした。
どうしよう。こんな時、おれの心の中はたいてい見透かされてしまう。




