弐百五拾九 欽之助、難癖をつけられる
「ほれ見ろ。言わんこっちゃない」
竜之さんはまた彼女の横に座ると言った。
「勝手に大学を辞めるわ、ミュージシャンになるなんてほざくわ……。それで、少しは芽が出そうなのか?」
「だめ! ダメ! 駄目!」
激しく首を振る。
「食べていくのに手いっぱいで、音楽活動なんてほとんどできてないみたい。それに、あいつに才能がないのは、私たちが一番よく知っているじゃない」
もうこれ以上、ここの家族のことに立ち入ってはいけないだろう……。
おれはここで、敢然と立ち上がった。
「奥さん、済みませんでした。僕はこれで失礼させていただきます」
「奥さんだなんて、やめてよ。気持ちの悪い。これからは名前で呼んでね。私もあなたのことを欽ちゃんって呼ばせてもらうから」
「有難うございます。それじゃああらためて、――早苗さん、これからどうぞよろしくお願いします」
「帰るって言うのか?」
竜之さんが横眼で見ながら言う。
「はい、夕べはお世話になりました。それにもう一度謝ります。本当に申し訳ありませんでした」
おれは深々と頭を下げると、その場を去ろうとした。
「だめだ」
と竜之さん。
「えっ?」
「まだ帰っちゃいけない。何しろお前は、うちの家族のことにまで口を出してきたんだからな」
口を出したなんて、そんな……。
困惑していると、早苗さんが言った。
「うちのことでこの人が?」
首をかしげながら夫の顔をのぞき込んでいる。今度はこちらを振り返った。
「教えて、欽ちゃん。うちの家族が何だっていうのよ」
「いえ、それはその……」
「こいつはさっきの妖怪のことだけじゃなく、うちの子供たちのことまで持ち出して、お前が帰ってくることを予言したんだ」
「へえー、どんな根拠で?」
「一つはあのパラシュート娘だよ。だから俺は反対したんだ。あんないけ好かねえ野郎と結婚したばっかりに、しょっちゅう喧嘩しては孫を連れてうちに帰ってくる。そのまま何週間も居座っては、家事を手伝うでもなく毎日ぐーたらしていやがる」
「それってパラサイトでしょ?」
「パラサイト? 何だそりゃ? パラシュートだよ。落下傘みたいに帰ってくるじゃないか」
「それであの子がどうしたって言うの?」
「そんな娘が、お前が二週間もうちを出ているっていうのに、平気の平左衛門を決め込んでいるのはおかしいって言うんだよ」
「なるほどね。でも、それだけじゃ私がここに帰ってくる根拠にはならないと思うけど?」
「もちろん、それだけじゃない」
竜之さんがすぐにそれに応じる。
「あとは何だっていうの?」
「何でも、ここにはお前の好きな家具や調度品がそろっていて、鍋や釜、塩コショウもふんだんにある。花もきれいに植わってある。そこにあの憎ったらしい娘が可愛い孫を連れて帰ってくる。
だから、その、そういう、俺を中心としたここの生活の場にお前が満足し、愛してもいるって、確かそんなことだったかな?」
「ふーん、あんたを中心としたここの生活の場か……」
早苗さんは、また例の意地悪そうな表情を浮かべ、ちらっとこちらを振り返った。
美登里さんは素直な性格だが、この人は少し癖がありそうだ。京子に似ているかもしれない。
それにしても、竜之さんを中心とした、とは言っていなかったはずだが……。
ぼんやりとそう考えていたら、
「ねえ、欽ちゃん」
と声を掛けられた。
「あなたって、本当に面白い人みたいね。お願い、もう少しつきあってくれるかしら。いまコーヒーを淹れてあげるから」
おれは少し躊躇した。すると、
「何をうじうじしてんのよ。早くお座りなさい」
と言下に言われる。
「はあ……」
仕方なく、また元の場所に腰を下ろした。どうやらおれは、人に命令される性質らしい。




