弐百五拾八 タチュユキさん、鼻水にからめ取られる
「こいつに指摘されて初めて気づいた。俺はいつの間にか思い上がっていたんだ。そういうのをことわざで何と言ったっけ。
ええっと、どじょううなぎに陥った? いや待てよ。増長慢だったかな? ほら、ご隠居が俺に説教する時にいつも使う言葉があるじゃないか」
「増上慢でしょ?」
「うん、その増上慢だ。あのクソ坊主め、お前は頭が悪いんだから、どじょううなぎって覚えておけと、そんなことをほざきやがった。
ともかくもだ、俺はお前と結婚する時に誓ったんだ。お前を必ず幸せにすると。そのために、お前が仕事を続けることを許した。同居しないことも許した。農業を手伝わないというのも許した」
「許した……?」
「そうだよ。何もかもお前の好きにさせてやっているって、そう思ってつけあがっていたんだ」
「ふーん」
早苗さんはそう言うと、夫の次の言葉を待っている様子。
「それでな、早苗」
「うん」
「実は、ずっと前から言おう、言おうと思っていたのに、言っていなかった言葉があった」
「うん」
「お前は俺の両親に本当に良くしてくれた。そのことには気づいていたし、感謝もしていた。でも、ちゃんと口に出して言わなかった。済まん。有難うと。
でもその実、心の中のどこかでは、そんなのは当たり前だ、今まで好き放題にさせてやったんだからと、そう思っていたのかもしれない。いや、思っていたんだ」
「ふーん。よく気が付いたね。偉い!」
「おちょくるのはやめてくれ。俺の言いたいことはそれだけじゃない。
俺はお前に寛大だったと、勝手にそう思い込んでいたんだ。だからその見返りに、俺が何をしたって許してもらえる。そう一人合点していた」
「うーん」
「土地を増やすことも、借金してまで高額なトラクターを買うことも、お前に相談することもなく……、いや相談する振りはしたかもしれない。
しかし、お前の意見には耳を傾けようとしなかった。俺の中に奢りと甘えがあったんだ」
早苗さんは、しげしげと夫の顔を見つめて言った。
「何だよ、タチュユキらしくもない。……少し見直したけど」
「それでどうなんだ、早苗」
「何?」
「やはりお前の心は、こんな俺から離れてしまったのか? もう取り返しがつかないのだろうか」
「うーん」
早苗さんは少し考えるような素振りをすると、チラッとこちらを見た。
「後で答えるよ」
「後で答えるって、なんでそんなに勿体ぶるんだ。俺は変な出し惜しみはしないぞ。
お前が居なくなって、どんなにこの小さな胸を痛めたことか。お前が好きだ。お前を失いたくない」
早苗さんの両頬がとうとう真っ赤になった。
鈍感なタチュユキさんは、そのことに一向に気づかない様子。
「遠慮しなくていいから言ってくれ。それがお前の幸せになることなら、おれはいつでも身を引く覚悟はできているんだから。それが俺の最後の真心だと思ってくれ」
「この唐変木!」
早苗さんはそう言うと、真正面の相手の頬を力一杯ねじり上げた。
「イテテテ。何をするんだ」
上半身を浮かせながら、叫んでいる。
しかし、さすがのタチュユキさんも今度は気づいたのだろうか。すっかり相好を崩して言った。
「分かった。じゃあ、後でゆっくり聞かせてくれ」
鼻の下までだらーんと伸ばしている。
「それで、あいつは? 腹はすかせてなかったか?」
「まあ、まともな生活はしてないのは確かだね。アルバイトで、やっと食いつないでるもの」
早苗さんは、少し顔を曇らせて答えた。




