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弐百五拾七 タチュユキさん、最後の土下座

 早苗さんは、洟垂れ姉(はなたれあね)が登場したところですぐに吹き出し、それからは終始笑いどおしだった。


「あー、おかしい」

 話が終わった後も、腹を抱えて苦しそうにしている。目尻には涙まで溜まっている始末だ。


 ひとしきり笑った後、例の意地悪そうな表情を浮かべながら、おれのほうを向いた。

「それで何? 私から離れてしまったこいつの心を、私が引き戻そうとしているって、そうあなたは思ったわけ? ――のっそりひょん君」


「いや、そうとも限りません」

 何か不穏なものを感じたので、おれはあわてて取り繕おうとした。


 竜之さんは言っていなかったが、もう一つの可能性として頭の中にあったことをおれは口にした。


「逆転していることも考えられます。つまり、竜之さんのほうこそ奥さんの心を取り戻そうと願っている。そのことを妖怪が敏感に感じ取り――」


「それだ!」

 竜之さんが大声で叫んだ。


「何よ、急に。びっくりするじゃないの」


「早苗、聞いてくれるか?」

 やおら虎の皮の敷物に正座をする。


「な、何?」

 こちらは少しどぎまぎしている様子。


「人生で土下座をするのはこれが二度目だ」

 一心に相手の顔を見つめながら、竜之さんは静かに話し始めた。


「そしてこれが最後だ。そんなことをするのも、お前に対してだけだし、これからも他人にそんなことをするのはないだろう。あのトラに対してもだ」


「寅さん?」

 そう聞き返すと、何かを思い出そうとするような表情をしている。

「そう言えば、例の決闘のあと彼の所に怒鳴りこんでいったそうね」


「ああ」




 高校生の時に、竜之さんは早苗さんを好きになり、クラスのみんなの前で彼女に告白をする。無残にも振られてしまった竜之さんは、彼女に土下座をしたうえで、不良をやめることを一方的に宣言したのだった。


 ところが、その後寅さんから決闘状が届く。二人は小学校の時分から仲が悪く喧嘩ばかり繰り返していたが、勝敗はつかずじまいだった。そこで、高校を卒業する前に決着をつけようというのだ。


 堤防に呼び出された竜之さんは、果し合いに応じることなく、寅さんに散々に叩きのめされてしまったのだった。不良をやめることを早苗さんに誓っていたからである。


 ところが、夕空を眺めながら一人倒れていた彼の元に、当の早苗さんが現れる。実は、橋脚の陰で最初から一部始終を見ていたというのだ。しかも、寅さんに来るように言われて――。


 嬉しかった半面、彼のことが憎くてたまらない。

 翌日、血相を変えて怒鳴り込んでいった。



 

「この野郎、ふざけやがって」


「何だよ、良かったじゃないか。一石二鳥って奴だ」


「一石二鳥?」


「ああ、そうだ。お前は女を得ることができたし、おれは番長の座を得ることができた」


「何だって? あんなの誰が納得できるものか。本当は俺のほうが強いのに。これまで手加減してやったのを知らないのか?」


「文句があるなら、やり直したって構わないんだぜ」


 竜之さんは歯をぎりぎりさせながら言い放った。

「やり直さない。だがなあ、トラ。俺はいつか絶対お前の鼻を明かせてやる。覚えておけ」


「ああ、楽しみに待っている」




「あれ以来、俺はまだあいつをギャフンと言わせることができていない」

 竜之さんも遠い昔を回想するように言った。

「農業でやたら頑張ってきたのも、一つはそれが目的なんだ。もちろん家族のためということもあるし、農業そのものが好きだってこともあるが」


「そのことは分かった。それで、私に聞いてくれっていうのは?」

 早苗さんは何かを期待するように、心持ち頬を赤くしていた。


 もうここらが潮時だろう。思い切って声を掛けた。

「あのお、竜之さん――」


「タチュユキでいいと言ったろ?」


「分かりました。それでは、タ、タチュユキさん」

 腰を半分浮かせながら言う。

「おれはここで帰らせていただきます」


「何だよ、もとはと言えばお前が言いだしたことなんだぞ。最後まで責任をもって聞くのが筋じゃないか?」


「そうよ。変な遠慮なんかしないでよ。気持ち悪いから」


「はあ」

 おれはまた仕方なく、ぺたんと尻をソファに沈ませたのだった。

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