廿五 無だ、空だ
それにしても、物の怪に頼らず、自分で解決しろの一言だけとは、孫が困っているというのに、爺ちゃんも呑気なものだ。
座敷に上がってみると、床の間に例の軸がだらりと垂れ下がっている。
驚いたことに、すっかり茶褐色に褪めてしまった紙には、黒い染みが点々とあるばかりで、老子も牛も何処かに遊びに行ってしまったのか、もぬけの殻になっている。
完璧な無だ、空だ。
ひょっとしたら、画の中からおれに追加のアドバイスをくれるんじゃないだろうかと微かに期待もしたが、見事に外れた。もっとも霊界通信使に文を託すぐらいだから、最初からそれは無理だったのかもしれない。
ところで、この家の二階に上がる木製の階段だが、サイドの部分が箪笥になっていることは、前に書いた。その上のほうの段に賃貸契約書を放り込んだままにしておいたのを、おれは思い出した。そいつを取り出し、改めて確認してみる。すると、二行ほど空白になっている部分がある。
たしかここには、以下のようなことが書かれてあったような記憶がある。
「夜の深き頃に、両腕にて首を絞められたりすることあらんも、異議の申し立てなど、之有間敷候」
いったい何時代からこの契約書を使っているんだと思ったものだが、そっくりその部分がなくなっているようだ。
なるほど、そういうことだったのか。モンジ老さんに食べてもらったのだな。おれはバスガールの思い付きに舌を巻いてしまった。
それはそれで良かったのだが、さてどうしたものかとおれは悩んだ。
そんなおれを、影法師が階段に座り込んでじっと観察するようにしていたが、無視を決め込んだ。
乱れ髪が何だか可哀想な気もしたし、爺ちゃんからは物の怪には頼るなと言われてしまった。しかし、もうやってしまったものは仕方がない。
問題は今後のことだ。これからも未来永劫、文字という文字を片っ端から食い尽くされてしまうのでは堪ったものではない。夜中に呻吟しながら打ったワープロ原稿まで食われてしまったのだから。
ふと気づくと、もうシャワーを流す音が聞こえる。この頃は遠慮も何もあったものじゃない。勝手にガスの栓をひねって、風呂を沸かしている。
おれは洗面室の前まで行くと、大声でバスガールを呼んだ。
「おい、急ぎの用事がある。ちょっと出てきてくれないか」
「何よ、今入ったばかりなのに」
シャワーの音は一向にやむ気配がない。
「急いでくれ。少し困っているんだ」
しかし返事はない。仕方なくダイニングテーブルの椅子に腰かけ、彼女が出てくるのをじりじりとしながら待った。
小半時も経った頃だろうか。
「もういったい何だっていうのよ。レディがお風呂に入ってるところに声を掛けるなんて。全くデリカシーの欠片もないんだから」
バスガールが、テーブルの向こうに腕組みをして立っていた。