弐百五拾六 男ども、手玉に取られる
「バーカ。男と言ったって、八十八の所だよ」
「八十八の?」
竜之さんはそう聞き返すと一瞬相好を崩しかけたが、すぐに怖い顔で言った。
「あいつは勘当したと言ったはずだ」
「あんたが勝手にね。私は勘当なんかした覚えはないから」
「あのお、竜之さん。おれはこの辺でおいとまさせていただきます」
「タチュユキでいいのよ」
「えっ?」
「だからこんな奴、タチュユキって呼び捨てしても構わないから」
「いや、そんな……」
おれは苦笑する。
「ああ、いいとも。現に夕べもそう呼んだじゃないか。お前には特別に許してやる。何しろ、早苗が帰ってくることを断言してくれたんだからな」
「こののっそりひょんさんが? へえー、何を根拠に」
早苗さんは少し意地悪そうな表情で、こちらを振り向く。
「はあ……」
おれはいささか躊躇しながら、彼女に化けたと考えられる妖怪の話を始めかけた。
「妖怪?」
早苗さんはいったん怪訝そうな顔をしたが、すぐに吹き出した。
「あなたたち、朝から何言ってんのよ。二人とも飲み過ぎたんじゃないの? あー、おかしい。噂どおり面白い人ね」
「酔っぱらっているって、俺たちが夕べ一緒に飲んだのを何故知っているんだ」
今度は竜之さんが不審そうな顔をする。
「美登里ちゃんとはいつもLINEで連絡を取り合っているからね」
「何、美登里さんと? じゃあ、お前の所在も知っていたのか?」
「もちろん」
「もちろんって、ひょっとしてトラの奴も知ってたってことはないだろうな」
「さあ。でもあの二人、あんなふうだけど結構仲いいからね。絶対誰にも言わないでねとは念を押してたけど、寅さんにだけは教えてた可能性もあるわね」
「むむむ。そいつは気に食わないな。気に食わないぞ。お前の行方を肝心要のこの俺が知らなかったっていうのに、トラの奴は知ってたっていうのか」
ふらりと立ち上がり、虎の皮の敷物を憎々しげに見下ろしている。それから歯をギリギリさせると、こいつめ、こいつめと言いながら、何度も踏みつけた。
「それで、さっきの話の続きを聞かせてくれる?」
早苗さんは、そんな夫の行状を無視するように再びこちらを振り返る。
「さあ、そんな所にいつまでものっそり突っ立ってないで、お座りなさい。私に化けた妖怪がどうしたって? 興味あるわね」
「いや、待て」
と竜之さんが言った。
「ここに座るには儀式が必要なんだ」
「儀式ですか?」
「そうだ、儀式だよ。座る前にこいつを三度踏みつけるんだ。こうやってな」
またドスドスやり始める。
やれやれ踏み絵じゃあるまいし。こいつはあくまで虎の皮の敷物であって、寅さん自身ではない。
だから竜之さんの気に入るようにしてやってもいいのだが、しかしそうは言ってもやはり抵抗がある。でもそれじゃあ偶像崇拝になってしまうし……。
「あなたも馬鹿ね。何、こんな奴の言うことを真に受けてぐずぐずしてんのよ。いいから早くお座んなさい」
また爽やかに馬鹿ねと言われたおれは、苦笑しながら言われたとおりにするほかなかった。
「ふん、俺の言うことを聞いてくれるのは孫だけだ」
竜之さんはそうこぼしながら、妻の横に座る。
早苗さんはそんな夫を押しやるようにしながら、また尋ねてくる。
「で、何、何? その私に化けた妖怪がどうしたって?」
おれは頑張って説明を試みた。
「妖怪は人間に化けたがるんですよ。何故なら、人間が好きだから。でも、しょせんはあやかし。似ているけど全然違う。でも、その変に似ている所が、案外真実を現していたりするんです」
「分からないわね。もっと具体的に言ってよ」
「そいつは俺の口から話したほうがいいだろう」
竜之さんはそう言うと、例の洟垂姉弟の話を奥さんに聞かせてあげたのだった。




