弐百五拾五 妻、男の元から帰る
ゆっくりしろと言われてもなあ……。
一人取り残されたおれは、食卓に座ったまましばらくぼんやりとしていた。
もぬけの殻になってしまったような自分の家に帰るのも気が進まなかったが、だからと言ってここにこれ以上長居をしても仕方がない。
帰ったら久しぶりに小説でも書いてみようかと思った。そうすれば、それを読んでくれたモンジ老が再び現れ、悪態の限りを尽くしてくれるかもしれない。今となってはそんなことがたまらなく懐かしかった。
おれは早速立ち上がると、朝食の後片付けをすることにした。味噌汁はまだ残っているので、そのままにしておいた。
スポンジたわしにたっぷりと洗剤をぶちまけ、包丁もまな板も箸も茶碗も全部まとめてゴシゴシ洗った。
次に水道の水で、片っ端からジャブジャブ洗い流す。茶碗にはまだご飯粒がこびりついていたので、もう一度たわしでゴシゴシしてやる。
「あなた、誰?」
ふいに背後から呼びかけられたので、びっくりして振り向いた。水道水の音で、物音に気付かなかったのであろう。
向こうも大きく目を見開いている。いかにも元スポーツウーマンらしいショートヘア。背丈もこちらと同じぐらいだ。早苗さんに間違いない。
「あー、驚いた」
と言って、胸をなでおろすようにしている。
「味噌汁のいい匂いがしたものだから、まさか、あいつに限って女を連れ込むような芸当ができるわけがない。そう思いながら来てみたら、姉さんかぶりじゃない。もう、脅かさないでよ」
おれは慌ててタオルを取って言った。
「あっ、済みません。ぼ、僕は――」
「待って」
早苗さんは片手を上げて制止すると、おれの顔をまじまじと見た。
「分かった。あなた、のっそりひょんね」
「うっ」
「今まで会う機会はなかったけど、あなたのことは美登里ちゃんから話だけは聞いてた。私の頭の中に描いていたイメージにぴったり」
「えっ、美登里さんから?」
「そう。仲良しなの。亭主同士は仲悪いけどね」
ぺろりと舌を出す。それからヒーターの上の鍋に目を留めた。
味噌汁茶碗を手にすると、どれどれと言いながらおたまですくい入れる。一口すすると、じろっとこちらを見た。
「手え、抜いたな」
「あっ、済みません。つい面倒くさかったものだから」
とおれは正直に答えた。
「で、あいつは?」
「ソファで寝んでいらっしゃいます」
「いらっしゃいますって、あんな奴に敬語なんて使う必要ないわよ。馬鹿ね」
おれはいまだかつて、初対面の女の人に、こんなに爽やかに馬鹿ねって言われたことはない。
早苗さんはスタスタとソファの方向に歩いていく。
「驚いた。昼日中から寝てるの? おーい、タチュユキ」
そう言って鼻をつまんだが、竜之さんは一度フガッと声を出しただけで、またグーグー鼾をかき始めた。
「タチュユキですか?」
驚いて尋ねる。
「そう。まだ付き合い始めたばかりの頃にね、俺の名前は呼び捨てで呼んでくれって言うから、そのとおりにしたら舌がもつれちゃって、それ以来そう呼んでいるの」
「実は僕も夕べ酔っぱらって、そう呼んでしまいました」
「ハハハ。――おうい、タチュユキ。いい加減起きろってば」
もう一度鼻をつまむ。今度はずっと離さなかった。
タチュユキさんの鼾は、ピタリとやむ。そのまましばらく静かにしていたが、急に顔をしかめ左右に激しく振った。
胸を大きく上下させ、パチリと目を開けた。早苗さんに気付くと、がばりと上体を起こす。
「早苗、帰ってきたのか」
「ただいま」
「ただいまってお前、まさか男の所にでも行ってたんじゃないだろうな」
「男? ピンポーン。そうだよ。男の所に行ってた」
「何だと? コンチクショーめ。やっぱりそうだったのか。お前だけは……、お前だけはそんなことはないと信じていたのに」
竜之さんの顔がゆがみ、見る見るうちに目頭が真っ赤になっていく。




