弐百五拾四 令夫人、御帰還なるか
おれは話題を変えてみた。
「息子さんと娘さんがいるとおっしゃっていましたね。時々お孫さんを連れて帰ってこられるのは、どちらですか?」
「孫を時々連れて帰るだって? どうしてそんなことが分かるんだ」
「第一に、キッチンの惨状からすると同居は考えられません。でも、さっきトミカの消防車を踏んづけてしまいましてね、いや痛かったー。
そう言えば、おれの寝ていた和室の障子はビリビリ破れ放題だったし、襖には子供の落書きがありました。いま直してもすぐにまたやられるから、正月まではそのままにしておくつもりなんでしょう」
「うむ、娘のほうだよ」
竜之さんはそう答えると、顔を和ませた。
「これがやんちゃで手を焼いてるんだ。帰ってくると、そこら中にオモチャが散らかって、足の踏み場もなくなる。消防車どころじゃない。プラレールの踏切を踏んでみろ。痛えぞー」
おれもつられて笑った。
「娘さんは、どちらにいらっしゃるんですか?」
「横浜だ。しょっちゅう帰ってきやがる」
「息子さんは?」
「ミュージシャンになるんだとよ」
急に顔を曇らせる。
「え?」
「ミュージシャンになるってんで、大学を勝手にやめて、家を飛び出しちまった。あきれてものも言えねえや。それっきり音信不通さ。今頃は東京のどっかで、腹をすかせてブラブラしてるんだろうよ」
「ふーん」
「娘もだよ。あんな、いけ好かねえ野郎と結婚しやがって。俺は大反対したんだ、チクショーめ。ついには女房まで出ていきやがった。ふん。どいつもこいつも勝手をしくさって」
だんだん、また機嫌が悪くなる。
「娘さんには奥さんのことは?」
「すぐに連絡したさ。来てないってことだった。チクショーめ。お父さんが悪いって、散々叱られたよ。私ももう帰らない。孫にも会わせないんだとよ。お前なんか勘当だってこっちから言ってやったよ」
「なるほど」
「何をニヤニヤしてるんだ」
「あ、済みません。でも、奥さん帰ってきますよ」
「無責任なことを言うなよ」
「少なくとも、娘さんは奥さんの居所をご存知ですね」
「どうしてそんなことが分かるんだ」
「だって、奥さんが出ていかれて、もう二週間ぐらい経つんでしょう? 普通ならすぐに飛んで来て、警察に相談したり何とかしたりするんじゃないでしょうか。それを横浜に居たまま、どっしりと構えていたりできるでしょうか。たぶん、息子さんとも連絡を取り合っていますよ」
「む、むむむ……」
「それに、奥さんはここの生活に満足し、愛してもいらっしゃいます」
「なぜ、そんなことが言えるんだ」
間の抜けたような顔で、さっきから同じような質問ばかり繰り返している。
「家具、調度品で奥さんの趣味が分かります。台所用品や調理器具もきっちりと整頓されて収納されているし、調味料や香辛料なんか、おれがこれまで見たことも聞いたこともないようなものがずらりと揃えられている。
それに庭の花壇もよく手入れがされています。あれはどう見ても、竜之さんの仕業とは考えにくい。
そこに時々娘さんが可愛いお孫さんを連れて帰ってくる。このような生活の場に奥さんが愛着を持ってないはずがない。おれはそう思います」
「そ、そうかなあ……」
「そうですよ」
おれはもう一度断言した。
竜之さんはふらふらと立ち上がると、ソファのほうに向かって歩き出した。
「あっ、本当だ。孫のものだ」
消防車を拾い上げ、しみじみと眺めている。
「帰ってくるかなあ。本当に帰ってくるのかなあ」
そうつぶやくと、今度はカウチソファの間を潜り抜け、虎の皮の敷物をドスドスと踏みつけ始めた。あれだけは、奥さんの趣味ではあるまい。
「ああ、気持ちがいいや。こうすると俺は元気が出るんだ。――おい、欽之助。何だか俺は疲れたよ。ちょっと寝むことにする。お前もゆっくりしろよ」
そう言ってソファにごろんと身を横たえた。




