弐百五拾参 欽之助、マドンナを思い出す
「俺の心が、女房から離れていたって? そいつは穏やかじゃないなあ。いったい何を根拠にそんなことを言うんだ?」
テーブルに両手をつき、目玉をぐるぐるさせながら顔を近づけてくる。
おれはその剣幕に少したじたじとなりながらも、頑張って答えた。
「だって、奥さんの意見に耳も傾けず規模拡大したり、借金したり、挙句の果てにはパチンコ屋に入り浸ったり……。それって、奥さんから心が離れていたって言わずに何て言うんですか?」
「む、むむむ……」
竜之さんは唸り声をあげると、尻もちをつくようにぺたりと椅子に座り込んだ。
「言われて見ればそうかもしれない」
力なくそうつぶやくと、腕組みをして目を閉じた。そのまましばらく黙り込んでいる。
やがて口を開いた。
「俺は結婚以来、約束を守って彼女の思うとおりにさせてきた。同居もしなかった。仕事も続けさせた。農業も手伝わせなかった。
ところがいつの間にか俺の心の中に、俺がそうさせてやってるんだ、俺に感謝しろという慢心が芽生えていたのかもしれない」
竜之さんにしてはえらい殊勝なことを言う。意外に思いながら聞いていると、彼は続けた。
「だから、早苗が仕事をやめて俺の親の介護を始めた時も、あいつには感謝したけれども、一方では、そんなのは当たり前だろうと思っていたんだ。
今まで好きにさせてきたんだ、だから、俺がどんな我儘をしても文句は言えないはずだ。心の奥底ではそんなふうに思って、あいつに居丈高にふるまうようになっていた。それが積もり積もって、とうとうあいつは堪忍袋の緒を切らしちまったんだ。
あいつが帰ってくるって? 欽之助、それはない。もう駄目だよ。俺はもうお仕舞いだ」
ふいに顔をくしゃくしゃにさせたかと思ったら、大きく鼻水をすすり上げた。頭から鉢巻をむしり取り、目と言わず鼻と言わずゴシゴシこする。
一見粗暴なようでいて、本当は繊細で、よくものを考えている人なんだ。おれはそう思って、あらためて彼を見直したのだった。
「帰ってきますよ」
と、おれは言った。
「繰り返しますが、妖怪というものは基本的に人間が好きなんです。だからいつも人間の身近にいます。したがって人間の存在なくして、妖怪の存在もないわけです。
竜之さんの見た若い女は、奥さんの真似をしているんですよ。人間が好きだから、人間の真似をしたがるんです」
「あの化け物が、早苗の真似をしたって言うのか?」
「そうです。奥さんは、あなたの心を取り戻そうとしているんです」
「何だって?」
向こうはそう言うと、再び腕組みをして考え込んでいる。
洟垂れ姉に洟垂れ弟――。
竜之さんの話を聞くまでは、彼らの存在は自分の夢の中での出来事だと思っていたが、そうではなかったのだ。妖怪に違いない。
爺ちゃんには聞いたことがないから、新種の妖怪であろう。洟垂れ弟は、人間の犯した過ちをからかって喜ぶいたずら者だ。
そして洟垂れ姉のほうは、ある人間の想い人に化けて、その人間をやはりからかっているのであろう。
おれの会った彼女は、お好み焼きを器用に作ると、手際よく容器に詰めて渡してくれた。ところが、おれがそれを食べ終わり、象牙製の箸を返そうとしても受け取らなかった。
規則だからと。それで人を刺すことも可能だからと。
あれはいったい何だったのだろう?
京子は、恐ろしく不器用な女だ。彼女が料理を作るのを、おれは見たことがない。と言っても、おれのアパートに呼んだこともないのだが。
鼻垂れ姉は化け損なったのであろうか。ただ一つ合っているとすれば、京子が先端恐怖症だったことだ。
規則だからと彼女は拒否した。規則? 規則とは人間の約束事だ。
約束? そう、おれは片桐を介して京子の父親と約束したのだ。彼女と別れると。
ああ、しかし今更こんなことを考えても仕方のないことだ。実際におれは彼女と別れた。そして、彼女はもうすぐキンケツと結婚することになっているのだから。
「おい、欽之助」
竜之さんが再び口を開く。
「そんな話で、早苗が帰ってくるなんて、やはり無理があるな。いや、もちろんわらわんわらわの話は信じる。しかし、これはないな。
あっ、ひょっとしてあいつ、男と一緒に出奔したんじゃ。あいつは本当にいい女だからな。いつ男ができてもおかしくないって前から思っていたんだ」
そう言って頭を抱え込んだ。




