表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
256/514

弐百五拾参 欽之助、マドンナを思い出す

「俺の心が、女房から離れていたって? そいつは穏やかじゃないなあ。いったい何を根拠にそんなことを言うんだ?」

 テーブルに両手をつき、目玉をぐるぐるさせながら顔を近づけてくる。


 おれはその剣幕に少したじたじとなりながらも、頑張って答えた。

「だって、奥さんの意見に耳も傾けず規模拡大したり、借金したり、挙句の果てにはパチンコ屋に入り浸ったり……。それって、奥さんから心が離れていたって言わずに何て言うんですか?」


「む、むむむ……」

 竜之さんは唸り声をあげると、尻もちをつくようにぺたりと椅子に座り込んだ。

「言われて見ればそうかもしれない」

 力なくそうつぶやくと、腕組みをして目を閉じた。そのまましばらく黙り込んでいる。


 やがて口を開いた。


「俺は結婚以来、約束を守って彼女の思うとおりにさせてきた。同居もしなかった。仕事も続けさせた。農業も手伝わせなかった。

 ところがいつの間にか俺の心の中に、俺がそうさせてやってるんだ、俺に感謝しろという慢心が芽生えていたのかもしれない」


 竜之さんにしてはえらい殊勝なことを言う。意外に思いながら聞いていると、彼は続けた。


「だから、早苗が仕事をやめて俺の親の介護を始めた時も、あいつには感謝したけれども、一方では、そんなのは当たり前だろうと思っていたんだ。

 今まで好きにさせてきたんだ、だから、俺がどんな我儘をしても文句は言えないはずだ。心の奥底ではそんなふうに思って、あいつに居丈高にふるまうようになっていた。それが積もり積もって、とうとうあいつは堪忍袋の緒を切らしちまったんだ。

 あいつが帰ってくるって? 欽之助、それはない。もう駄目だよ。俺はもうお仕舞いだ」


 ふいに顔をくしゃくしゃにさせたかと思ったら、大きく鼻水をすすり上げた。頭から鉢巻をむしり取り、目と言わず鼻と言わずゴシゴシこする。


 一見粗暴なようでいて、本当は繊細で、よくものを考えている人なんだ。おれはそう思って、あらためて彼を見直したのだった。


「帰ってきますよ」

 と、おれは言った。

「繰り返しますが、妖怪というものは基本的に人間が好きなんです。だからいつも人間の身近にいます。したがって人間の存在なくして、妖怪の存在もないわけです。

 竜之さんの見た若い女は、奥さんの真似をしているんですよ。人間が好きだから、人間の真似をしたがるんです」


「あの化け物が、早苗の真似をしたって言うのか?」


「そうです。奥さんは、あなたの心を取り戻そうとしているんです」


「何だって?」

 向こうはそう言うと、再び腕組みをして考え込んでいる。


 洟垂れ姉(はなたれあね)に洟垂れ弟――。


 竜之さんの話を聞くまでは、彼らの存在は自分の夢の中での出来事だと思っていたが、そうではなかったのだ。妖怪に違いない。


 爺ちゃんには聞いたことがないから、新種の妖怪であろう。洟垂れ弟は、人間の犯した過ちをからかって喜ぶいたずら者だ。


 そして洟垂れ姉のほうは、ある人間の想い人に化けて、その人間をやはりからかっているのであろう。


 おれの会った彼女は、お好み焼きを器用に作ると、手際よく容器に詰めて渡してくれた。ところが、おれがそれを食べ終わり、象牙製の箸を返そうとしても受け取らなかった。


 規則だからと。それで人を刺すことも可能だからと。

 あれはいったい何だったのだろう?


 京子は、恐ろしく不器用な女だ。彼女が料理を作るのを、おれは見たことがない。と言っても、おれのアパートに呼んだこともないのだが。


 鼻垂れ姉は化け損なったのであろうか。ただ一つ合っているとすれば、京子が先端恐怖症だったことだ。


 規則だからと彼女は拒否した。規則? 規則とは人間の約束事だ。

 約束? そう、おれは片桐を介して京子の父親と約束したのだ。彼女と別れると。


 ああ、しかし今更こんなことを考えても仕方のないことだ。実際におれは彼女と別れた。そして、彼女はもうすぐキンケツと結婚することになっているのだから。



「おい、欽之助」

 竜之さんが再び口を開く。


「そんな話で、早苗が帰ってくるなんて、やはり無理があるな。いや、もちろんわらわんわらわの話は信じる。しかし、これはないな。

 あっ、ひょっとしてあいつ、男と一緒に出奔したんじゃ。あいつは本当にいい女だからな。いつ男ができてもおかしくないって前から思っていたんだ」

 そう言って頭を抱え込んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ