弐百四拾参 欽之助、抱きすくめられる
いりこは頭とわたを取ったほうがいいとも言うが、面倒だし勿体ない。それに、おれの胃袋が早くしてくれとせっついている。
だからと言ってあわててはいけない。どちらにせよ、具材を準備する時間も必要だ。先に鍋に水といりこを入れ、中火にかける。
白菜は1センチ幅に、豆腐はさいの目に切った。みんな四角だと面白くないから、大根はいちょう切りにする。
そうしているうちに、いい匂いが漂ってきた。沸騰する前に火を止める。
いりこはお玉で全部すくい取り、フライパンに移す。だし汁つきだから、あとは酒とみりんと醤油と砂糖を適当に投入。汁がなくなって、テカテカになるまで煮詰めることにする。
残ったほうのだし汁に、豆腐と大根をぶち込む。大根に火が通ったら、白菜と味噌を入れておしまいだ。もうできたも同然。
日本が世界に誇るインスタントスープ……。ただ切って、放り込んで、煮るだけ。これをインスタントと言わず、何と言おう。
そんな馬鹿らしいことを考えながら、ほっと一息ついていたら、表のほうで車のエンジン音がする。竜之さんが帰ってきたのだ。
玄関が乱暴に開いたと思ったら、「おーい、欽之助」と大声で呼ばわる。
「コンビニ弁当を買ってきたぞ。あっ――」
続いて廊下をドタドタ走る音。
次の瞬間、背後から抱き締められていた。
「早苗、帰ってきたのか」
おれは思わず、わっと声を上げてその手を振りほどいた。
「何をするんですか、竜之さん」
向こうも目をまん丸にして言う。
「き、欽之助……。お前こそ、な、何だってそんな恰好をしてるんだ」
竜之さんの視線と指さす方向で、おれははっと気づいた。さっき彼の投げてよこしてくれたタオルで、おれは姉さんかぶりをしていたのだった。
いつの時分からかは覚えていない。家の掃除だろうが料理だろうが、とにかく何かの家事をする時はそうする癖がついていた。そうすると気分が乗るし、はかどるからだった。
おれはあわてて頭からタオルを取ると言った。
「奥さんと間違えたんですか?」
竜之さんは床に落としたレジ袋を黙って手にすると、テーブルのほうにふらふらと歩いていった。そのままどさりと腰掛ける。
不機嫌な横顔をこちらに向けたまま呟いた。
「なんで女房と間違えたと、勝手に決めつけるんだ。娘の可能性だってあるじゃないか」
おれは、ついくすっと笑って答えた。
「日本のお父さんは、あんな風に娘を抱き締めたりはしません。竜之さんみたいなタイプは特にそうだ。第一、娘にあんなことしたら蹴飛ばされますよ」
「ふん。だとしてもだ。何故おれがお前のことを女房と間違えたと言えるんだ」
相変わらずこちらを振り返ろうともしない。よほどさっきのことが決まり悪いに違いない。
「今時の若い女の子が、姉さんかぶりなんかするものですか」
おれはまた笑いながら言った。
「だったら、お前は何だ」
「おれはちょっと変わってるんですよ」
「ふん、自分で言ってりゃ世話はない」
「それに、こうも思いました」
おれはそう言うと、キッチンを離れ、寅さんとテーブルを挟んで座った。
「居間のカーテンに調度品や食器類。高価なものではないかもしれませんが、虎の皮の敷き物を除いては、どれもさっぱりとして感じのいいものばかりです。ただし、落ち着いた大人の女の人の感性によるものです。若い女性の趣味とは合いません。
それなのにキッチンはあんな惨状です。奥さんが出ていってしばらくなると考えるのが自然ではないでしょうか」
「お前、よくも……」
竜之さんは憤然とした顔でしばらくこちらを見ていたが、やがて鉢巻を取るとテーブルに叩きつけた。
「はいはい、そうですよ。うちにあるものはみんな安物ばかりです。女房はどうせババアだし、虎の皮の敷物だって趣味が悪いや。ふん、それがどうした」
「いや、そんなことは――。あーっ」
鍋が噴きこぼれそうになっている。いりこの甘露煮か何だか分からないものも焦げかけている。あわてて走っていき、火を止めた。
「もう、竜之さんが変なことばかり言うものだから。味噌を入れる前で良かった」
おれはぶつぶつ言いながら、ターナーでいりこを引き剥がし、お皿によそった。それから味噌を溶き入れ、白菜を放り込んだ。




