弐百拾七 ブーメラン
「色男だって?」
安太郎さんの指がさらに強く、おれの肩に食い込んでくる。
「君はひどい男だな。私の手記を読んだうえで、あえてその言葉を口にするとは。私に対する最大の侮辱だ」
「侮辱、侮辱、侮辱――」
おれは叫ぶように言った。
「その言葉こそが、あなたのことをよく言い表している。自分で自分を赦せないなんて言ってるけど、本当は我が身可愛いさだけなんだ。
体裁や名誉、そんなことしかあなたの頭の中にはないんですよ。そんなことを気にするよりも、なりふり構わず女を愛することができないんですか」
急に胸がずきんとした。言葉の刃は、時にそれを口にした本人の胸を刺したりするものだ。まさか自分で言ったことが、そのまま自分の身に降りかかるとは。
安太郎さんは、じっとおれの目を見つめていたが、やがてその手をゆっくりと放した。
「君は今、あの人のことを考えていたね。確か京子さんって言ったっけ。眠っている君のことを心配そうに見ていた。あまりにも奈美さんにそっくりだったので、私はすっかり驚いてしまったが。
いやそんなことよりも、いっぱしの口を利いておいて、君こそ京子さんに対して何というていたらくだ。私とたいして変わらないじゃないか」
ちょっと油断したり、興奮したりするだけで、おれの念は駄々洩れになるのだ。
「僕のことなんてどうでもいいじゃないですか」
おれは、かっと顔を熱くしながら言った。
「問題は奈美さんです。今日すぐにここに来てください――。そう聞こえたんでしょう? 声は僕のものだったとしても、本当は彼女自身の叫びだったかもしれないというのに」
「奈美さん自身の……?」
安太郎さんは呆然としたようにそうつぶやいた。
「そうですよ。それが彼女の本当の気持ちだと思います」
「嘘だ。そんなはずはない。現に彼女は三日三晩私を待たせたあげくに、いなくなってしまった。私を赦していない証拠だ」
そう言うと、くるりと背中を向けた。
「たった三日三晩ぐらい、何ですか。奈美さんがあなたを待っていた時間に比べれば、それぐらい大したことはない。今度こそ、あなたのほうから彼女のもとへ飛び込んでいくべきだ」
「もう放っといてくれないか」
安太郎さんは、ついに階段を上り始める。
おれはその背中に向かって、さらに食い下がった。
「あなたはそれでいいかもしれない。一人でそうやって、全ての不幸を自分で背負ったような気になって、これからもずっとこのあばら家で過ごしていればいいんだ。しかし、奈美さんはどうなるんですか?」
安太郎さんの足がぴたりと止まった。背中を向けたまま、こちらに聞き耳を立てている。
おれは続けた。
「あなたがそうやって自己満足に浸っている間、奈美さんは永久にこの世とあの世の挟間をさまよい続けることになるんですよ。それでもいいんですか?」
こちらの問いかけには応じず、安太郎さんは再び階段を上り始めた。夢遊病者のようにふらふらした足取りで。
「待っていますよ。あなたを信じていますから」
おれがそう言ったとたん、階段の突き当りにある木の蓋がバタンと閉まった。
仕方なく、座敷との境にある襖を開けると、真正面に奈美さんが立っている。文机のある部屋からこちらの部屋に移動して、聞き耳を立てていたに違いない。
「奈美さん……」
思わずそう口にすると、向こうはぺろりと舌を出した。
「あなたは余計なことをしてくれたかもしれませんね。安太郎さんは、他人から何か言われるとますます意固地になるんですから。あなたによく似ているようです」
そう言われたおれは、苦笑いしながら言ってみた。
「こうなったら、あなたのほうから行ってみますか? せっかく、この屋敷に戻れたんですから」
彼女は首を振る。待ちますわと一言だけ言うと、隣の部屋に戻った。さっきまでおれが居眠りをしていた文机の前に静かに座り、そこにあった帳面を広げる。最初から気になっていたらしい。
「あっ、駄目ですよ。勝手に見ては」
「いいの。いいの」
澄まして、ページを繰っている。
「駄目ですってば、いくら元夫婦だからって、プライバシーは尊重しなければ」
あわててそう言ったが、全く無視を決め込んでいる。
そのうち、彼女の眉間にしわが寄った。もうおれには彼女を制止する気持ちはなくなってしまった。
ぼんやりと庭の外に目を移すと、秋晴れのいい天気ではあったが、何となく日がかげってきたような気がした。安太郎さんのいる二階からは物音ひとつしない。ただ奈美さんがページをめくる音だけが時折響く中で、時は静かに流れていった。




