弐百九 安太郎さんの手記(了)
私の懇願は受け入れられ、奈美さんは藤尾家に半ば強引に戻された。しかし、少しでも目を離した隙に私の元に戻ろうとするので、両親も仕方なく彼女を軟禁状態に置いていたらしい。
それから一年も経たないうちに精神を病み、帰らぬ人となってしまった。
満州事変や二・二六事件などが相次ぐ中、逆に当局に目を付けられるような活動に、私は憑かれたようにのめりこんでいったのだった。その後の顛末は、敢て此処に記す必要もあるまい。
疲れた……。カスミがかかったようになって視野が狭まっている。
私の命脈もそろそろ尽きかけているようだ。
だからと言って、今更あの世で奈美さんに合わせる顔もないし、彼女のほうだって決して赦してはくれないだろう。
だから私はこの屋敷に影としてとどまる。自らをこの世に封印するのだ。
清さんにも済まないことをしてしまった。彼女が今頃どこでどう過ごしているか、こんな私には知る由もないが、彼女の幸せを祈るばかりだ。
両親にも申し訳ないことをしてしまった。親より先に死んでしまうなんて、これ以上の親不孝はあるまい。
せめて、私のやってきたことが決して間違いではなかったということが……
ああ、おとうさん、おかあさん、僕のやってきたことが……、僕は結局、現実には何も為しえなっかたけれども、せめてやろうとしてきたことは、決して間違っていなかったのでは……?
いよいよイシキがこんだくしてきたようだ。
お父さん、お母さん……。
願わくばあなたたちが生きている間に、あなたの息子が…、僕が決して間違っていなかったことが分かるような時代が来ることを……。
もういいですね。いいですよね。
おとうさん、おかあさん。ゆるしてください。
これはマボロシだろうか。階下で夏川の声が聞こえる。
あの夏川? 特高の……?
僕に会わせてもらえるよう母に頼んでいる。無理だよ。イヤ無理でも会いたい。でも無理だ。母もそう言って断っているようだ。
夏川が叫んでいる。
「先生、私はあれからずっと取り調べを受けていましたが、今日やっとカイホウされました」
先生だって? 誰が先生なんだ。
そんなことより、あの時私を介抱してくれた先生はどうした? そうか、死んでしまったんだな。お前の拳銃で。
いや違う!
先生は、じゅーたんばくげきで死んでしまったんだ。お前の妹と一緒にな。
「先生、センソウはもうそんなに続かない。警察のじょうそうぶからそう聞きました。これから日本は変わります。だから、新しい日本を一緒に作りませう。
先生、だから死んではいけない。若い私たちを導いてください。お願いします。だから、しんではいけない」
ナツカワ、何を云ってるんだ。日本が変わるだって? そんなわけはない。
泣いているのか? お前もオレと同じようにとうとう狂ってしまったのか?
「先生、また来ますから。今度はきっと会ってください」
また来るだって? 来なくていい。こんな私にいつまでもかかずらっていてはいけない。君は新しい道を歩むんだ。
いけない。いけないよ。このままじゃいけない。どこにもいけない。
だからわたしはどこにもいかない。ここにとどまる。
わたしはここで奈美さんをまつ。しかしかのじょはこないだろう。かのじょはわたしをゆるしちゃいないんだから。それでもいい。それでもわたしはここでまつ。
しかし、かのじょにあえることはないだろう。なぜならわたしはカゲボウシになるのだから。みずからをふういんし、かげぼうしとしてここでいきつづけるのだから。
かくことがほんとうにつらくなってきた。すこしやすむ。
奈美さんはわたしをゆるさない。わたしもわたしをゆるさない。だからわたしはかげぼうしとなりみずからをふーいんする。そんなわたしを奈美さんはみつけることはできない。
もうほんとうにげんかいだ。ではgogd bye!
はてけふはなんにちだつけ?
そうだ、しこくれんごうかんたいがしものせきをほうげきしたひだ。
20 8 5 kokoにふでをおく。




