壱 プロローグ
「ねえ、抱いて」
女は甘えるように、両手をこちらの首に巻き付けてきた。
「よしてくれ」
おれはその手を振り払った。
しかしいくら振り払っても、その手は畳の下から伸びてくる。
こんなことが始まったのは、この家に移り住んで三日目の夜からだった。
最初の二日間は、おれの様子をじっとうかがっていたに違いない。
三日目の夜に、いよいよこちらを試してきた。
「何だ、こんなもの」
おれがその手を払いのけると、静かに消えていった。
おれがそんなに怖がらないのが分かって、よっぽど嬉しかったんだろう。それからは毎夜出るようになった。
出るには構わないが、これでも物書きの端くれのそのまた端くれの宇宙の最果ての端くれだ。
自分で言うのもはなはだ面はゆいが、執筆活動に影響するので、すこぶる迷惑である。
おれは基本的に朝型人間である。夜中にものを書いていると妙にはかどることがあるが、朝になって読み返してみると、自分で自分の書いたものに身震いさせられるような羽目に陥る。それはきっと、何かに取り憑かれていたせいに違いない。
だから、こんなものに毎晩出られると、昼間に眠たくなって全く筆が進まない。キーボードを打つ手が弾まない。
ある夜、思いついた。
前の住人が植えていたものかどうか知らないが、荒れ放題の庭でニンニクばかりやたら育っている。こいつをすりつぶして、唐辛子を刻んだやつをたっぷり混ぜ込む。ついでにタバスコもおまけに追加してやった。
こんなものが効くかどうか、物は試しだ。
ある夜、また出てきたので、
「少しは遠慮するがいい」と言って、刷毛でべったりと塗り付けてやった。
すると、キャッという悲鳴とともに引っ込んだのはいいが、代わりに何かがコロコロと転がってきて止まった。
女の顔がこちらを向いている。
髪を振り乱してはいたが、細面で、透き通るように色の白い美しい女だった。
長いまつげを少し瞬かせたあと、潤んだ両目で静かに視線を投げかけてきた。
何だかひどく申し訳ないことをしたような気がしたので、
「悪かった、ごめん」
と言うと、またコロコロ転がってどこかへ消えてしまった。
おれはこいつに乱れ髪と名付けてやった。
しかし、この家はいったいどうなっているんだろう。
散々迷ったあげくに、この家を仲介した不動産会社に解約を申し出た。
担当者は、と言っても一人でやっている会社なのだが、眼鏡をはずして契約書にじっと目を通している。よく見ると、目玉がレンズにくっついている。本人の顔はと言うと、眉毛の下がつるりとして何もない。
やれやれ、お前もか……。