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百七拾八 安太郎さんの手記(1)

 先を急がなければならぬ。


 英ちゃんと誠が帰った後、おれは早速二階へ上がった。

 安太郎さんは洋間に居た。腕組みをして窓から庭を眺めている。

 

 声を掛けると、振り返って頷いた。おれはすぐにトランクを開け、すっかり色のさめてしまった帳面を取り出した。


 お借りしていいですかと聞くと、かすかにまた頷いたが、すぐに、行けというような合図をする。再び顔を窓の外に向け、それっきり振り返ることはなかった。


 おれはその背中に向かい、黙って一礼をすると、静かに階段を下りた。

 硝子戸の(うち)から外を見渡しながら、彼がどのような思いを馳せているのか、今の時点では詳しくは分からない。


 ただ、その背中がひどく寂しげに見えたので、彼のそばで読ませてもらおうかと思わないでもなかったが、本人がそれを望むまい。


 もうその日は誰も訪ねてくるものはなく、(きよ)さんもお茶会だか女子会だか何だか知らないが、いつまでも帰ることはなかったので、おれは安太郎さんの帳面を文机(ふづくえ)の上に広げ、それからじっくり読ませてもらったのだった。


 以下にそれを掲載するが、時間に余裕がないことと、ここでは事件の顛末を明らかにすることが主眼であることを考慮し、一部は省略することとした。




(以下、安太郎さんの手記)


  ※ ※ ※ ※ ※ ※


 私が黙って相手を見ていると、いきなり頬を張られた。

「こんなのは、ほんの挨拶代わりだと考えておいたほうがいいぞ。ふー」


 男は、坊主頭にちょび髭を生やした巨漢だった。灰色の開襟襯衣(シャツ)は全く寸法が合っておらず、はち切れそうに開いた(ボタン)と釦との隙間からは、汚れた下着が覗いていた。


 男は、井脇豪三と名乗っていた。ふーふー言っては、タオルで顔の汗を拭く。汗を拭いては喋る。センテンスが終わる度に、いちいち、ふーと荒い息を吐く。


「なんで検挙されたか、分かっておるな? ふー」

「分かりません」

 そう答えた途端、顎に強烈な一撃を食らう。後ろ手に縛られていた私は、椅子ごとコンクリートの床に転がった。


 井脇豪三の部下らしい係官が私を抱え起こすと、井脇は自分の握り拳をまじまじと見ながら言った。

「俺の白魚のようなこの手を、余り煩わせんでくれ。ふー。貴様は、治安維持法違反並びに出版法違反だ。ふー。つまらん論文を雑誌で発表し、大衆を扇動して国家の転覆を謀ったのだ。ふー。そうだな?」


 此方(こちら)が再び黙り込むと、井脇は、

「おい、夏川――」

 と係官に向かって顎をしゃくった。


 夏川と呼ばれた男は軽く頷くと、私を椅子ごとテーブルから引き離した。それから竹刀を手に持つと、上司のほうを振り返る。井脇は、やれと、また顎で指示をした。


 次の瞬間、私の両腿に竹刀がバシンと振り下ろされていた。電流が私の身体を貫き、脳天を突き抜けた。然し、悲鳴は上げなかった。


 夏川は若く、端整な顔立ちをしていたが、その表情を全く変えることもなく、何度も何度も竹刀を振り下ろし続ける。振り下ろされる度に、それは私の眼前で空気を切り、びゅんと音を立てる。


 然し、悲鳴は決して上げない。これが、せめてもの私の抵抗なのだ。


 坊主頭の井脇はテーブルの上で肘を突き、ニヤニヤしながらその様子を眺めているのだった。

「まだまだ序の口だ。ふー。赤ん坊のお遊戯と言ってもいい。ふー。これしきのことでは、口を利く気にはならないか……」


 そう呟くと、つかつかと此方に向かって歩いてきた。相手の靴の底が見えたと思ったら、それは私の顔面を直撃した。今度は、まともに仰向けに倒れ、コンクリートの床で頭を強打してしまった。


 然し、それだけでは済まなかった。

「ウオー!」

 大男の井脇は突然、凶暴な叫び声を上げ、私を椅子もろとも抱え上げると、そのまま床に叩きつけた。

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