百七拾七 欽之助、からかわれっぱなし
「英ちゃん、はっきり言うけど、僕たちはもう終わっているんだから」
「さてと――」
英ちゃんは、誠と目配せをすると立ち上がった。
「俺たちはこんにゃく様の片付けがまだ残っているから、忙しいんだ。お前の恋愛話なんかに、いつまでも付き合ってられない。夜は夜で、氏子の臨時総会もあるしな。今夜は揉めるぞ。大変だ、大変だ」
「でも、英ちゃん。登世さんは、総会には絶対に出ないって言ってたぜ。うちの婆ちゃんたちと女子会をやるんだって」
「いったんへそを曲げると、てこでも動かないから困る。早く京子さんに後を継いでほしいものだ」
二人で玄関のほうに向かいながら、聞こえよがしに言う。
「旺陽女様のおな~り~ってね。そうだ、英ちゃん……」
誠が急に声をひそめる。
「布団を二組並べて敷いたって話。あれは本当なのか?」
「ああ、あれか? お二人さ~ん、ごあんな~いってな。あとでこっそり教えてやるよ」
「うん」
「ちょっと、待った!」
おれは通販番組のように叫んでいた。
「あっ、そうそう」
英ちゃんがいきなり振り返ったので、慌てて追いかけていったおれと、危うくぶつかりそうになる。
「俺の結婚式には、お前と京子さんも呼ぶから、そこんところよろしく」
「いや、だから――」
「じゃあな」
英ちゃんはそう言って背を向ける。
先に沓脱ぎに下りていた誠が、いきなりがばっと上がり框に膝をついたので、何をするのかと思ったら、「京子さ~ん」と声を絞り出すようにして叫んだ。
「誠! お前――」
かっとなって握りこぶしを上げたおれに向かって、今度はエアハグ、エアキッスのポーズを取る。
こいつ、どこまでおれを馬鹿にしたら気が済むんだ。
おれもぱっと沓脱ぎに飛び降りたら、その前に家の外に飛び出していた。
ケラケラ笑いながら、黒塗りのセドリックのそばまで行くと、英ちゃん、早く早くと急かせている。
逃がしてたまるか。
サンダルを履くのももどかしく追いかけようとしたら、英ちゃんからぽんと肩を叩かれて、言われた。
「子供みたいにじゃれ合うのはよせよ。今日はゆっくり静養するんだな」
いや、別にじゃれ合っているわけじゃ……。おれは本気で腹を立てているんだから。
チクショウ、今度会ったら絶対に生かしておかないからな。
門を抜けていくセドリックを目で追いながら、おれは堅く決心したのだった。
しかし、あの野郎。何だってあんなにしつこく……?
そう疑問に思ったおれは、はたと気づいた。
あいつ、可愛い嫁さんをもらうのが夢だと言ってたっけ。なるほど。英ちゃんはプロポーズに成功したし、おれはおれで別れたとはいえ、あんな美人の彼女がいたんだから、面白いはずもない。あいつめ、やっかんでいるんだな。
よっしゃあ、今度会ったら絶対に今日の仕返しをしてやる。
おれは子供みたいに固く決心したのだった。
夢か――。そうか、おれにも夢があったんだ。
いつの間にか、そんなことはすっかり忘れていた。
ノーベル賞はともかく、芥川賞は本気で目指した。取れたら結婚しようと、おれは京子に約束したのだった。
しかし、そんなものが五年や十年で簡単に取れると思うほど、おれは馬鹿ではない。三十になろうが四十になろうが、それでもいいと思っていた。
その時こそは正々堂々と彼女の父親に挨拶に行く。あいつのことだ。そんな賞なんか、鼻で笑うかもしれない。その時は彼女を引っさらっていってでも、一緒になる。おれはそんなことを、本気で夢想したこともあったのだが。




