百七拾壱 浮遊する白いカッターシャツ
おれはいつの間にか、テーブルに突っ伏したまま、眠っていた。バスガールの薬が効いたようである。
浴室から、湯を使う音が聞こえてくる。バスガールが戻ってきたのか?
いや違う、京子だ……。
何だ、京子の奴め。あんなことを言ってたくせに、やっぱりあのままの姿で電車に乗るのが厭だったと見える……。
してみると、泥に汚れたニットのセーターとスカートも洗ったのであろう。待てよ、洗った服はどこに干したんだろう。
家の中でも何とか工面すれば干せないこともない。しかし、今日中に帰るなら、早く乾かしたいはずだ。物干しは庭にあるから、そこに干したんだろうか。
いや、待てよ。下着のまま外に出るわけにはいかないじゃないか……。
おれの朦朧とした意識は、そのままふわふわと彷徨い始め、屋根の辺りから庭を見下ろしていた。
京子が、自分の洗った服を物干し竿に干している。もちろん、下着姿などではない。下着の上に、白いシャツを身に着けている。
おれのだ。新聞社を退職して以来、一度も袖を通すことのなかった、おれの白いカッターシャツ。
大きく開いたシャツの胸元から、ブラジャーが少し覗いている。すらりと伸びたはだかの白い脚――。やめてくれ。近所の人に見られたらどうすんだよ。
彼女の服の横には、俺のTシャツ。血で汚れていたのを洗ってくれたんだろう。ルンルンと唄いながら、シャツの両端を引っ張ってしわを伸ばしている。
すぐそばの屋根の上では、雀がチュンチュンとさえずっている。見渡すと、稲刈りを終えたばかりの田んぼが広がっている。里芋畑も見える。合間には、青い葉がすべて枯れたように見える所がある。あれはコンニャク畑であろうか。
田んぼでも畑でもない50坪ほどの場所があって、周囲より心持ち高くなっている。地域の人たちからは『寝たろう松』と呼ばれているが、今では松など植わっていない。
何の変哲もない一本の木の下には、赤い前掛けをしたお地蔵さん。おれが初めてこの地を訪れ、辺りを見渡した場所である。そのお地蔵さんが、おれを見てニヤリと笑った。
低いなだらかな山のふもとには、古寺がある。甍のそばには、赤い柿の実。空はどこまでも青く、真下には下着に白いカッターシャツをまとっただけの女。
はだかエプロンなんかより、絶対こっちのほうがいい。
ああ……、男の永遠のあこがれ……。
彼女がルンルンと鼻歌。屋根の上では雀どもがチュンチュン。赤い前掛けのお地蔵さん。見渡す限りの田んぼと畑。低いなだらかな山のふもとには、古寺。古寺の甍の傍には、赤い柿の実。
そして、すぐ真下には白いカッターシャツの美しい女。
ああ、これが桃源郷というものであろうか。
しかし、夕方になり、洗濯物も乾けば、彼女は帰ってしまうのだ。父親である、あの中野十一のもとへ。そして、婚約者である金本結貴のもとへ――。
そうだ、雨だ。雨、雨。雨が降って、洗濯物が乾かなければいい。それも大雨だ。電車、電車。電車が不通になればいい。彼女はもう帰れない。それからおれは、白いカッターシャツの女と暮らす。永久に――。
おれはやっぱり煩悩の塊だ。コイブミさん、こんなおれが、どうしてあやかしどもの気持ちを理解し、救ってあげたりできるだろうか……。
おれは、ずっと眠っていたらしい。再びドライアーの音で目が覚める。
京子が、例の姿で髪を乾かしているのだろう。
おれは、寝惚けたまま勝手にそのように想像していた。
すると、玄関で騒ぐ声が聞こえる。
「おーい、欽之助、大丈夫か?」
「欽ちゃーん」
寅さんと美登里さんのようだ。
待ってくれ、おれが出るから。京子の恰好を見られたら大変だ。
しかし、身体が動かない。びくともしない。バスガールの薬のせいだ。
おれはそのまま、再びこんこんと眠り続けた。




