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百拾七 恋人つなぎ

 彼女は、海に強く憧れていた。人間の女の子たちが海の話をしているのを、どこかで聞いていたらしい。海に行きたくても、狭い井戸の中で育ったので、どうやって行くのかさえ知らない。


 そんな彼女のことを、おれは可哀想に思い、海に付き合ってやった。しかし、海もさることながら、実は人間の女の子の生活そのものに、彼女は憧れていたのではないだろうか。


 彼女は、狭い井戸の中を飛び出し、広い世界が見たくなったとも言った。だとすれば、人間の女の子のように街で買い物したり、お洒落な店で美味しいものを食べ歩いたりするような経験も、恐らくはないのであろう。


 おれは湯浴み乙女(バスガール)に向かって言った。

「明日は稲刈りがないんだ。1日たっぷり空いてるから、街に遊びに行こうか?」


 彼女は、ぱっと顔を輝かせた。

「本当に?」

 と言って、食い入るようにこちらの顔を見つめてくる。


「ああ、もちろんさ」

「本当にホント?」

「本当にホントだよ」

 つい苦笑いしながら、そう答えた。


 その途端、彼女はおれに飛びついてきた。

「わあい、だから欽之助大好き。じゃあ私、もう一度お風呂入ってくるね」

 そう言うと、バタバタと走るように浴室に消えてしまった。


 その夜、おれは昼間の疲れもあってぐっすりと眠ってしまった。影法師のことはすっかり忘れていた。

 バスガールが悪戯(いたずら)を仕掛けてくることもなかった。



 翌朝6時ぴったりに目が覚めたおれは、朝御飯を食べようとダイニングルームに向かった。


 ところが、バスガールが既に準備万端整えて、待ち構えていたのだった。

 夕べとは違って、白いレースのワンピースに、薄桃色のアンサンブルニットを羽織っていた。テーブルの上には、白い麦わら帽子と臙脂色(えんじいろ)のポシェット。


 目が合うと、おはようと彼女は言った。

 おはようと返したら、彼女の頬が心持ち赤く染まった。


 街をぶらぶらするなんて、やはり初めてのことなんだ――。

 期待に胸を膨らませているその様子が意地らしかった。


 それで、家で朝御飯を食べることは諦め、直ちに東京の街へ向かうことにする。まず、駅までバスで30分ほど。道中、彼女はほとんど口を開かなかったが、至極満足そうでもあった。


 おれの肩に頭を(もた)せ掛けたまま、静かに目を閉じていた。そして時々目を開けては、おれと目が合う度に微笑んだ。


 電車の中もずっとそのようにしていた。新宿駅に着いたのは、8時半頃である。駅構内にあったカフェで、モーニングセットを頼んだ。

 

 彼女は、ポークハムやトーストを頬張る度に、美味しいと笑った。

「こんなの食べるの初めて」と、心から嬉しそうに言う。


 それからコーラを飲んだ。コーラも初めてと言った。美味しいと言った。有難うと何度も言った。


 こんな安い食事で、こんなにも感謝されて、逆におれのほうが申し訳ないという気持ちに陥るのだった。


 それから原宿に向かい、代々木公園や表参道を散策した。バスガールが勝手に恋人つなぎをしてきたので、そのままにしておいた。


 そう言えば昔、中野京子がそんなことをしてきたこともある。おれは照れ臭いこともあって、その手を振りほどいた。彼女はそれを面白がって、何度振りほどいても、手を繋ごうとする。


 仕舞(しま)いにおれは、降参して逃げ出してしまった。すると京子は、声を立てて笑ったのだった。

 然し、本当のところはどう思っていたのだろう……。

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