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百拾弐 欽之助、朝帰りを咎められる

 朝になって再び目を覚ましたおれは、布団の上で上半身だけを起こしたまま、しばらく茫然としていた。


 どこに居ようと、手は床下から伸びてくる――。

 化野(あだしの)はそう言っていた。おれはそのことを、すっかり忘れていたのだった。


 そこへ寅さんがやってきた。パジャマ姿でさえ、鉢巻をしている。

「どうだ、よく眠れたか?」


「よく眠れたかどころの話じゃありませんよ」

「何だ、どうしたっていうんだ?」


 おれが夕べの出来事を話して聞かせると、

「ふーん。変な夢を見たものだな」

 と暢気そうに言っている。


「夢なんかじゃないですよ。千美子さんが助けてくれなかったら、僕は一晩中苦しんでいるところだった」


「分かった、分かった。さあ、朝飯にしようぜ」

 と、てんで相手にしてくれない。


「いや、ちょっと待ってください。以津真天(いつまで)の言う百年は、本当にまだ来てないんでしょうか」


「だから言ったろう? あれが出るようになったのは、サンフランシスコ講和条約の締結された1951年なんだから、まだ当分は大丈夫だって」


「でも、本当にその年が起点なんでしょうか」


「今はそんなことよりも、稲刈りだ。昨日はお前が足手まといになって、作業が予定よりすっかり遅れてるんだから」


 

 これでは取り付く島もない。

 おれは急いで朝食を呼ばれると、寅さんに先に行ってくれるよう頼んだ。あんなことがあったので、一人残されていたバスガールのことが、急に心配になったのである。


 人形が用事があるのは、このおれにであって、バスガールにではない。よもや、彼女に手を出すことはない筈だ。


 そう思いながらも、完全には不安を拭いきれなかった。それに、彼女の言葉に反してよその家に泊まった後ろめたさもあった。おれは自分の家へと足を速めた。


 玄関を開けて、ぎょっとした。

 上がり(がまち)の向こうに、湯浴み乙女(バスガール)が腕組みをして立っている。頭には白いタオルを巻き、白いバスローブをまとっていた。


「ふーん。朝帰りとはね」

 そう言って、ぎらぎらとした目付きでこちらを睨む。


 自分こそ、人の家で横着にも朝風呂か……?

 呆気に取られていたら、向こうはぷいと奥に消えてしまった。


 おれは、もう一つ気になっていた座敷の方に、直ぐに足を向けた。

 恐る恐る古備前の中を覗いてみたが、人形の手は光を発することもなく、静かにそこに収まっていた。


 夕べ、あれだけ人を脅かしておきながら、いい気なものだ。

 全くどいつもこいつも……。


 おれはそいつを、そっと手にすると、二階へと向かった。

 今度は直ぐに入口が開いた。


 影法師は腕組みをして、例のトランクの傍で端座していた。どうやら、初めから待っていたらしい。


「安太郎さん、これを預かってくれますね」

 と言ったら、黙って頷いた。


 トランクを開けると、相変わらず虚ろな(まなこ)に、ぼうぼうの髪を振り乱した人形の首がそこにあった。その直ぐそばに、両手を置いてやる。


「もう少しだけ待ってくれるかい?」

 そう声を掛けたら、人形の表情が少しだけ和らいだような気がした。

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