百 怪鳥と百年杉
すると庭のほうから、「おーい、欽之助」と呼ぶ声が聞こえてくる。
寅さんだ。
「軽トラ取りに来たんだけど、一緒に乗っていくか? 稲刈りを手伝ってくれると言ってたよな」
おれは少し驚いた。
たしかに、呑みながらそんな話は出たが、約束までした覚えはない。しかし、はっきりと断ってもいないので、そう受け取られても仕方がないかもしれぬ。
またタイミングの悪い時に、お出ましになったものだ。
安太郎さんが無理だとしても、この万年筆の妖怪から間接的にでも話を聞こうと思っていたし、ノートの中身も読ませてもらおうと思っていたというのに……。
「おーい、どこだ?」
どうやら、勝手に縁側から座敷に上がり込んできたようである。
やや間があって、「あっ――」という短い悲鳴が聞こえたが、それっきり、階下は静まり返っている。
何があったんだろうと、不安になる。
すぐに下りてみなければ――。
「安太郎さん、これはまた次の機会に見せていただいていいでしょうか」
と聞くと、影法師は黙って頷いている。
「おい、もう行くのか? 悪口の言い甲斐のある奴に、久し振りに出逢えたというのに」
万年筆が残念そうに言う。
「おれもだよ」
苦笑しながら、そう答えると、
「もう70年だぞ」
と、なおも不満そうにしている。
「えっ?」
「だから、70年以上も、僕はここでじっと過ごしてきたんだ。その間に、僕の命の源である泉も枯渇してしまった。今では青い血の一滴も出ない」
影法師のほうを振り返ると、両手を合わせて拝むような仕草をしている。
「分かった。おれで良かったら、何とかしてみよう」
「君、本当なのか?」と、万年筆。
「ああ、任せておくがいい」
「だったら君、いい拾い物をしたと思っていいぜ。何しろ、あの夏目漱石が使っていたのが、僕の仲間なんだから。かの修善寺の大患の時に、子供たちにあてて手紙を書くのに、仰向けに寝たまま書いたっていう優れものだからね」
「そいつはまた楽しみだ」
おれはひとまず彼らに別れを告げると、急いで階段を下りて行った。二階への入口が、すかさずバタンと閉まる。
すぐに座敷に行ってみると、いつもの赤いツナギに鉢巻き姿の寅さんが何かに平伏すような恰好をしている。
「寅さん、一体どうしたっていうんですか」
驚いてそう聞くと、がばっと上体を起こした。
「どうしたって? 俺のほうこそ、それを聞きたいよ。これは一体何なんだ」
その視線の先を追うと、そこには二本の人形の手。
さっき、影法師に渡そうとしたら、そのまますり抜けるように畳に落ちてしまったのを、うっかり忘れていたのだった。
「これは、わらわんわらわの手じゃないのか? いくら霊力のない俺でも、これは分かる」
あの寅さんが、ぶるぶる震えている。
おれは少し考えた後、これ以上隠し立てすべきでないと判断した。
そして、これまでの経緯を手短に話して聞かせた。
寅さんはしばらく茫然としていたが、やがて気を取り直すように呟いた。
「お蔭で百年杉の倒れる前に、約束を果たすことができる」
「約束って……、誰との約束ですか?」
「以津真天とだよ。百年杉は、そいつが嘴に咥えていた種を、空から落として植えたものなんだ」
寅さんは、そう答えたのだった。