小説家とソフトウェアエンジニアは似ている
私は小説家だ。
「小説家になろう」に投稿しようとしているのだから小説家で間違いない。
正確には小説家になろうとしている一介のワナビだ。
未だ一本の小説も投稿していないが、気分は小説家そのものだ。
芸術家が職業ではなく人生の在り方であるように、小説家もまた職業ではなく人生の在り方である。
職業としての小説家は職業小説家と言うべきだ。
ウィキペディアにおける『小説家』の定義がどうであれ、私はそう定義している。
私は職業小説家ではなく小説家であるのだ。
人生の在り方として小説家を選択したのだ。
職業で言えば私はソフトウェアエンジニアだ。
ソフトウェア業界でお給金を頂戴し糊口を凌ぐガテン系のエンジニアだ。
人生の在り方として小説家であるのだが、やはり人間は定収が無ければ生きてはいけない。
家族を養って行けない。
誤解してほしくないのだが、私は私の職業に誇りを持っている。
極めようとも思っている。
しかし残念なことに、私は私が崇拝する何人かのグルがそうであるような人生の在り方としてのソフトウェアエンジニアではない。
職業ソフトウェアエンジニアである。
私は人生の在り方としてソフトウェアエンジニアにはなれなかったし、なりたくもない。
芸術とは分野はなんであれ、他者に何らかの感銘を与えるものだ。
芸術家とは他者に、何らかの感銘を与え続けることを人生の在り方として志向するものだ。
別にその感銘は感動でもよいし、好感でも嫌悪でもよいし、恐怖でもよい。
人生としての芸術家は、他者に何らかの感銘を与えるものだ。
幸いなことに芸術家は、他者に何らかの感銘を与えようと欲した時点で、芸術家であると自称することができる。
単なるワナビと言われようと、芸術家は志向した時点で芸術家たりえる。
無論、人生の在り方としての小説家は小説により、文章により、己の文芸により、他者に何らかの感銘を与えようと欲する芸術家だ。
私は、他者に何らかの感銘を与えようと欲したから、小説家を自称しているわけだ。
職業ではなく、人生の在り方として。
職業とする場合、それで飯が食えることが求められる。
なんであれ飯を食うのは大変だ。
職業としてのソフトウェアには、期待通りに在ることが求められる。
職業としてソフトウェアを設計する場合、完璧であることが求められる。
要求者に対して要求仕様を完璧に実装する必要がある。
少なくとも完璧を志向しなければ、そこそこのものも創れない。
「二番ではダメなのか」と考えた時点でダメなのである。
小説家とソフトウェアエンジニアは似ていると思う。
小説はソフトウェアなのだし、小説には設計が必要なのだから。
設計とは要求仕様にしたがって、分解と再構築を行うプロセスをいう。
どのように分解し、どのように再構築を行うかが設計なのである。
芸術としてのソフトウェアというものは確かにある。
プログラムを読んでいて美しいと思うことがある。
感心することはよくある。
感動することもたまにある。
恐怖することも極たまにある。
無理無駄ムラを完全に廃し、シンプルに複雑な機能を実装したものには神が宿っているが如き美しさがある。
小説にも構造の美、設定の美、様式の美は当然ある。
そのような小説を書けるのならば、そして読者に感銘を与えられるのならば、その小説家は芸術家と言えるだろう。
私はそう考える。
とは言え、本稿は特に「小説家とは」を語るのが目的ではない。
小説家とソフトウェアエンジニアが似ていると思う。
ゆえに、ソフト設計のツールが小説を書くにあたり有効なのではないかと考える。
だからここでツールの話をする意味があると思い、ツールの話を書く。
前振りが長い割には大した話を書く予定はない。
多分「小説家になろう」に投稿されている諸先生方には、何を今更、という話になると思う。
しかし需要はあるだろうと考え、投稿を決意した次第である。
これは私の「小説家になろう」に投稿する初めての「小説」だ。
シャンルは「その他」にするか「エッセイ」にするか迷ったが、「エッセイ」でいいだろう。
なぜならば、ハウツーを書きたいわけではなく、「道具とは」を語りたいと思うからである。
とはいえ、誰かの役にたつのならば、それはそれで嬉しい。