義務と責務と人の想い
太一が月面に来て一週間が経った。
何だかんだで手持ち無沙汰な毎日だが、基本的には特殊作戦軍の兵士なのだから毎日のトレーニングは欠かしていない。狭い部屋だが身体を苛めて筋力を維持することは出来るし、トレーニングとは身体の能力を維持する上で必要不可欠な事だとよく理解している。水をたっぷりと入れた湯沸かしポットを前支えしながら、太一は遅筋の維持を図っていた。
「ふぅ……」
ひとつ息を吐いて筋肉の強張りを確かめながら、トレーニングの結果をひとつひとつ確かめる。毎日積み重ねていく小さな努力が良い結果に必ず繋がるなんてのは幻想だとわからない歳ではない。
しかし、それは毎日の努力を欠かしても良い免罪符ではないし、努力を怠り準備を疎かにすれば、一番必要なときに身体が自分を裏切ってしまう事も良く知っている。そしてそれが命のやり取りの現場なら、自分の命を相手に差し出す事になる。
あの日。記憶操作を受け、全て思い出せなくなると呟いたバードの言葉が不意に太一の耳へ蘇った。血を分けた妹が自分を思い出せなくなると言い切って、そして自分自身があなたの妹ではないと口にした勇気と覚悟。
────背負った責任を果たす為に必要な事
その言葉の真意を太一は気づいた。それは強制的に行われるモノではなく、有る意味自分が望んで行うものだ。誰かの思惑や都合ではなく、自分の身を護るための努力の一環だ。土壇場の土壇場で生きるか死ぬかの瀬戸際に立ったとき、一瞬の判断に遅れが出たら死ぬ。そんな現場にいる人間なのだから、余計なことは忘れていた方が良い。
もしかしたら、自分はあのビルの中で死んでいたかもしれない。そんな存在を偶然助ける事が出来た妹だが、結果的にその件で妹が苦しむかもしれない。ならば、遠慮容赦なく自分の存在など忘れてもらった方がいい。そうすれば、軍務にある間を無事に終えるかも知れない。
生身の兵士と違ってサイボーグの兵士は契約期間が長いらしいと聞いた事がある。日本の自衛国防軍にはサイボーグの部隊が無いから、細々とした部分での知識が乏しいのは仕方が無い。だが、少なくとも軍隊である以上は戦闘の義務があり死ぬ危険がある。そこを掻い潜って生き残る為なら、何をしたって攻められない。だから、忘れてもらおう。そうしよう。それで良い。
でも……
「さて。どうしたもんか」
独り言を呟いてシャワーを浴び始めるころ、テーブルにぶん投げてあった携帯電話が不機嫌な悲鳴をギャンギャンと叫び始めた。シャワーの水音に混じって聞こえるそれを呼び出しだと認識して電話に出ると、携帯電話の向こうには国連軍海兵隊の情報担当将校がいたのだった。
「ミスタータカナシ。色々調整した結果、今日の夜にでも日本へ帰る事に成りました。細かい事は日本側の担当者と話をする事になりますが、おそらく決して悪い待遇での帰還にはならないでしょう」
余り抑揚の無い声であったが用件は伝わった。流暢な日本語なのは向こうも百戦錬磨なんだろうと思う事にした。海兵隊に限らず国連機関のスタッフはバイリンガルやトリリンガルが非常に多いし、それだけで無く全てがネイティブレベルで扱える秀才が揃っている。言語を異にして意思の疎通に障害が出るのを避ける為にも、そう言う部分での融通を付けられる人間が重宝されるのは自明の理だった。
「色々とお世話になりました。お手間をおかけして申し訳ありません」
「いえ、それは違います。我々にも交渉の材料となりました。日本政府との難しい交渉において、あなたの存在が重要なキーパーツとなりました。我々こそあなたに感謝するようです」
話をしながら太一は震えてしまった。余りに無様だが仕方有るまい。どう考えでもアレは無茶な作戦だった。道理を思えば死にに行くようなモノだ。だが、作戦は立案され、隊員は特別選抜された選りすぐりの腕自慢が揃えられた。駐屯地にやってきた師団長は自衛国防軍の陸将補で、選抜された隊員に頭を下げ『すまんが死んでくれ』とハッキリ言った。すぐさま隣に立っていた参謀本部付き作戦部長が事のあらましを説明し、強く通る声で『これは国家と国民のプライドの問題なのだ』と、そう一人一人の隊員の目を見ながら言い続けていた。太一の胸に表現出来ない決意の炎があかあかと盛ったのを思い出した。その自分が、死んでもおかしくない自分が生き残り、それだけでなく、政府と交渉の材料にされてしまった。その事実に震えるしか出来なかった。
「……恐れ入ります。申し訳ありませんが、どのような交渉だったのか、教示ねがえませんか?」
一瞬だけ相手が口ごもった。少なくとも日本語での意思疎通に全く問題の無いレベルなのだから、言語的問題ではないとすぐに察しが着いた。
「……残念ですが機密にあたりますので開示出来ません。ですが、あなたの立場を悪くする交渉ではありません。日本政府と国連軍の間にある様々な諸問題について。譲歩を引き出すための材料ではありません。その点は御安心下さい。なお、地上へは国連軍の定期便で移動してもらいます。夕刻1700。迎えを出しますので、その時刻にはホテルで待機をお願いします」
「了解……しました」
少々不機嫌な空気を匂わせて電話を切った。そして、バスタオルを被りながら太一は邪念を振り払って考えた。このまま、おめおめと地上に帰って良いものか?と。だが、生き残った者には生き残った者の義務がある。恐らくは今回の作戦を奇貨として、様々に突入戦闘の充実を計るだろう。その一環として様々な事情聴取を受けるだろう事は容易に想像が付く。だが問題はその後だ。
無謀な作戦に駆り立てた国防省の責任を追及するべく、ギャンギャンと吠える無責任な野党連中に唆され情報を漏らさないようにする為。つまり、情報の拡散を防ぐ為、殉職扱いに出来る方法で合法的に暗殺されるかもしれない。つまり、自分は死んでしまうかもしれない。
――――意味ある死ならば甘受するが……
あの銃弾が飛び交う環境下へ突入し、尚且つ各所で仲間を失いながらビルの爆破準備を行った自分だ。決して許されない程の死を引き起こした事になるのだから、自分だけが生き延びたいなどと口が裂けても言えない。夥しい死を引き起こした自分には、相応しい死の形があるはずだ。それは誰かの思惑や大きな意図により磨り潰される様に死ぬこと。血の涙を流して後悔しながら死んでいった者たちと同じように死ぬこと。
――――自分は悪くありました
それを否定するつもりは毛頭ない。だが、少なくともあの作戦は必要なことだったのだと、誰かの口からそれを聞くまでは死んでも死に切れない。そして、逆に言えば、あの作戦で死んだ仲間たちの名誉が守られるのであれば、いつ死んだって良いと。何の外連見も無く太一はそう思った。だが……
────私はバーディー
彼女に。宇宙軍海兵隊のあの士官に、なんと言って詫びよう。命令違反の誹りを恐れず自分を助けてくれた彼女に。救われた命を失ってしまう不義理をどう詫びよう。
思案にくれた太一は時計を見た。地球標準時間でもうすぐ11時だ。月面都市INABAの繁華街はもうすぐ賑やかな時間になるはずだ。ふと、太一の脳裏に何かが浮かんだ。具体的なプランではないが、何となく形になるものだった。
────よし
着替えた太一は街へと出て行った。繁華街のショッピングゾーンへと。
同じ頃
『なぁ、隊長何処行ったんだ?』
チーム無線の中にロックの声が響いた。
自分の部屋で機密資料の整理をしていたバードはロックの声に驚いた。
『隊長居ないの?』
『あぁ、事務所にもガンルームにも居ないし、無線を呼び出しても反応がねぇ』
基地内の無線LANを使って暗号通信しているが、恐らく情報部は全部聞いているはずだ。セキュリティの一環として全ての無線を傍受するのは仕事の一環なのだから、それについては文句を言う気も無い。
だが、どこかプライベートで有るべき部分までも詳らかにされてしまうのは、公衆の面前で衣服をはぎ取られるような心理的嫌悪感がある。今さら人前で裸を晒す事に抵抗はない。いや、殆ど無いと言うべきかとバードは思うのだが、少なくとも自分の使っているこの身体を組み立てたエンジニアにしてみれば、女の身体という発想は全く無くて、女性型サイボーグという機械でしかないはずだ。
『あれ? ロックは聞いてなかったか?』
無線の中にドリーの声が流れる。直後にジョンソンの声も続いた。
『いまボスはエディの使いっ走りで地上へ降りてるはずだ』
『地上??』
『そうだ。時々あるんだよ。こんな時が。』
Bチームへ配属されて一年未満なロックやバードなら知らないのも仕方が無い。そんな空気が無線に流れた。
『オヤジは時々エディやブルと一緒になってどこかへ出掛けていく。だいたいアリョーシャも同行するんだが、何処で何をしたのかは絶対に教えてくれねーのさ』
ジャクソンがどこからともなく話に参加してきた。隊長は謎の部分が多い人だと思ってきたバードだが、隊長以上にエディ少将には不可思議な部分が多い。アームストロング基地の最高権力者と言って良い位の自由な権力を持っているのだった。
『高級将校ばかりが集まって何かをしているのは間違いねぇんだけど、その中身はドリーやジョンソンも知らねーときたもんだ。前に一度ビルがカマを掛けた事があるんだが、オヤジは笑って誤魔化してそれ以上は教えてくれなかった』
やや剣呑な調子のペイトンは呆れているとも言えるような空気だった。
そんなペイトンへライアンが声を掛けた。
『基地のセンターサーバーをハッキングしてみるとかどうだ?』
『やっても良いけどサブ電脳直接焼かれるぜ?』
『そうだな。身代わりユニット三つくらい要るな』
乾いた笑いが流れる無線の中だが、スミスの声に笑い声がやむ。
『でも。隊長が出掛けて帰ってくる時はだいたい何か懸案事項が解決してるんだよな。待遇だったり装備だったり、あと人の問題』
『そうだな。ロックやバーディーが来た時も、そのちょっと前にしばらくボスは留守にしていたからな』
何かを知っているのは間違いないのだが、その何かが問題の核心とは限らない。そんな微妙なやりとりの中でバードはロックが苛立っている事に気が付いた。
『それよりロック。隊長に何か用なの?』
『あぁ、大した用件じゃ無いんだが俺の判断じゃ微妙ってこった』
『微妙?』
『そう。色々とお偉方の間で問題になった時、俺が責任取らされるのは吝かじゃネーけどさ。隊長やエディ達が引責されっと拙いだろ。だからさ』
何か微妙な問題なのか?と訝しがるバードだが、一足早くビルは問題を理解したように雑談へと参戦してきた。
『ロック。恐らくだがバーディーと彼の一件だろう?』
『……そうだ。つうか、さすがだ』
『悪い事は言わない。これ以上個人では係わるな。これをバーディーが聞いてるのも承知で言うが、これ以上係わるのは彼にとってもバーディーにとっても、そして俺たちBチーム全体にとっても良い事じゃ無い。もう一度会わせたいんだろ?』
『……そうだ』
『動くなら組織で動いた方が良い。一人で降下するより団体で降下する方が迎撃する側も面倒ってことだ』
ビルとロックの会話に言葉を失ったバードだが、思惑は理解している。記憶が消え去る前に。いや、消え去る前だからこそ、お腹一杯になる様に。辛くても悲しくてもみんな忘れてしまうなら、今だけはそれを精一杯楽しもうじゃ無いか……と。そういう事なんだろうと。
『……ロック』
バードの呼びかけにロックは応えなかった。
無線の中に流れるホワイトノイズだけが時の経過を伝えていた。
『ありがとう……』
『……よせやい。しゃらくせぇ』
読んでいた書類をポイとテーブルに投げ捨て、そしてバードは天井を見上げた。涙を我慢する時の感覚はこんなだったと思い出した。心の中に蟠っていた重い空気の中へ爽やかな高原の風が吹き込んだような気がした。
だけど、それは……
その思いは……
この思いは……
『さて。隊長が居ないもんだから多数決を取ろう。反対する奴は居るか?』
ドリーは副長らしくいきなり話を切りだした。
相変わらず無線にはホワイトノイズが流れる。
そんな中にバードの声だけが流れた。
『みんなありがとう。でも、問題になる事はやらない方が良いと思う』
『バーディー。いいか?』
もう一人の大尉。ジョンソンは渋い声音で切り出した。
『ボスは常々言ってると思うが、俺たちには俺たちの正義がある。市民の為とか弱者の為とか、その時々で表現は多少違うけどな。どんな時でも一つだけブレねぇ芯があるのはお前も気が付いているだろ?』
『うん。もちろん』とそう呟いてバードは言葉を失った。
ジョンソンは同じ声で話を続けた。
『例え全世界を敵に回したって、俺たちには絶対譲れねぇモンがある。誰一人として味方が居なくなった、例えどんなに酷い戦場だって俺たちは駆けつける。たった一人の味方も居なくなった人間の味方だ。そしてそれは……』
ジョンソンが一瞬口籠もった勅語、ストレートにジャクソンが言葉を継いだ。
『バーディー。お前でもかわらねぇさ。参謀本部がどう喚こうが、軍本部がどうほざこうが、そんなの知ったこっちゃないさ。処分するならすりゃぁいい。結構だ、結構。大いに結構。俺たち抜きで降下作戦でも突入戦でも好きにすりゃぁいい。嫌っていうほど程死人を出して責任問題で苦しめば良いさ。それが嫌なら……なぁ』
良い所でジャクソンも言葉を切った。
まるで急かすような空気が無線に流れ、我慢しきれずロックは言った。
『苦しんでる人間を見捨てるのは恥ってもんだぜ。もっと言やぁ……』
ロックは一度言葉を切った。
その続きに何を言うのかバードは耳を澄ました。
『男の恥さ』
『だけどさ、情報部も色々と骨を折ってくれてると思うんだよね』
『それはそれ、これはこれだ。こんな時に見て見ぬ振りをする奴は恥の上に下衆ってもんだぜ』
そんな言葉を吐いたロックは最後に小さな声でこう付け加えた。
『顔を思い出せネェ俺のオヤジだが、言ってた言葉だけはよく覚えてんだよ』
呟くように言ったその言葉はバードの冷たい胸の中に暖かな火を灯した。
すっかり無くなった体温を思い出して、バードは僅かに笑ったのだった。
『じゃぁ今夜、バーディーの兄貴を呼び出してパーティーだな』
ジャクソンは努めて明るくそう言った。
『スターダストに予約を入れておく。今夜1800集合で良いか?』
『オーケー。じゃぁ全員正装で集合するように』
ドリーとジャクソンの仕切りでパーティーが決まった。
こんな時にトントン拍子で進むのはBチームの良い所だった。
『ありがとう…… ホントに……』
ちょっとだけ涙声っぽいバードの声が無線に流れ、それっきり無線の中が静かになった。黙って無線受信を待ち受けモードに切り替え発信を絶ったバードは、書類を整理して鍵の掛かる金庫に納めた。一つ息を吐いて、そしてロックの胸中を思う。父親の顔は思い出せなくとも、その言葉や心や想いを受け継いでいる。産まれてくる子に血肉を分け与えるのが母親の役目であるとするなら、父親の役目は精神や信念や、人として生きていく為に必要な心そのものじゃ無いかと。
――――ロックの父親はどんな人だろう……
気合いと度胸と腕一本で斬り込むロックだが、見方を変えれば無鉄砲で無謀な猪突猛進型の極めつけなファイタータイプだ。銃で撃ち合う最中へ剣一本で突入するくらい朝飯前にやってのける、そんな人間を育てた剣士である父の存在にバードは思いを馳せた。
そして、ふとバードの脳裏には、あの渋谷のビルでロックと互角に斬り合った正体不明の存在が思い浮かんだ。鮮やかを通り越し呆れる程に流麗で鋭い剣裁きは、まるでロックの上位互換だと思った。太刀筋を見て剣術の系統を理解出来るほど知識があるわけじゃ無いが、それでも見ていて判る事はある。あの剣士はロックと同じ匂いがするタイプだった。
一瞬の合間に見せたあの二人の戦いを視界の片隅にリプレイさせて、その息詰まるシーンをうっとりと眺めるのだった。文字通り一撃必殺な一足一刀の間合いで斬り合う二人を眺めながら『美しい』とすら思っていた。




