ウィスキーはお好きですか?
――――月面都市『INABA』
地球標準時間2100
太一は自らの溜息を肴に酒を飲んでいた。
奮発して頼んだマッカランの二五年は、どうも味が違う。きっと低重力で低気圧の影響だと考え、それ以上考えるのを止め、これはこれと味わう事を選択する。現状で『足るを知る』とすれば、余計な不幸を背負い込まないで済むのだから。そもそも地球から全て運び込んでいるのだ。相当手間が掛かっているのだから、感謝をする方が先だろうという結論に達していた。
「一人で飲んでるとは寂しいね」
唐突に声を掛けられ振り返ると、太一の視線の先にはロックが立っていた。
静かで薄暗い店内には静かなジャズの調べが流れていて、その中に様々な言語の会話が漏れ囀られている。そんな中に突然飛び込んできた日本語で、僅かながらも太一は衝撃を感じていた。
「付き合ってくれる人が居ないもんで」
「まぁ、そりゃそうだな。仕事で来るにしたって複数だろうしな」
「良かったら隣に座りませんか?」
「じゃぁ、邪魔するよ」
太一の隣に腰掛けたロックを見て、バーテンは何も言わずにロックのボトルをそっと差し出し姿を消す。同じ系統の人種が並んで酒を飲むなら、きっとこれだろうと読みなのだと太一は思った。差し出されたボトルはジャパンウィスキーの代名詞『余市』だった。ロックにとっては遙か遠くなった故郷を思い出すきっかけの味であり、そして、サラッと飲みやすいクセの無さは、今日一日を素直になって振り返るには最高の一杯だった。
「口に合うかどうか微妙だけど、良かったらやってよ」
「いただきます」
他人行儀で、かつ、上官に接するような態度の太一。それになんとなく距離感を取りづらいロックは苦笑いで太一を見ていた。こんな時になんて言えば良いのだろうかと思索を重ね、不意に思い出したテッド隊長の振る舞いやエディの鷹揚とした空気を理解した。
「どこか変ですか?」
「いや、まぁ……」
ショットグラスに注がれた最初の一杯を飲み干して、手酌でもう一杯注ぎながら隣を見たロック。絵に描いたような気配りを見せる太一の振る舞いに、ロックは目を細める。
「日本人だなぁって思ってさ」
「少尉は『ロックで良いって』すいません」
太一のグラスへマイボトルのウィスキーを注いでから、ジッと太一を見た。
「ここに居るとさ、頭の中から日本人が消えるんだよ。主に言葉の問題なんだと考えているが、要するに英語だと上でも下でも『YOU』で事足りるんだよ。だからなんて言うか……敬語って部分が抜け落ちるんだ。だから俺はバーディーが居てくれて非常に助かってる。すっかり忘れてしまった日本を思い起こすんだ。ついでに、自分が何者かも思い出せる」
チェイサーで口をすすいで、それからもう一口、ウィスキーを舐める。
深い味わいを嗜む程に高性能な人口舌と味覚センサーでは無いが、そこらの味音痴などよりは余程味にうるさいと自分では思っているロックだ。チェイサーに置いて行った水が微妙に消毒液臭いので、バーテンを呼んでミネラルウォーターを用意させた。
「あいつは……」
溜息混じりに呟いた太一は、ロックに注がれたウィスキーをグイッと煽り、もう一度溜息を吐き零した。懊悩とも苦悩とも付かない悲痛な叫びのように、心の内側にあるささくれだった部分を吐き出すようだった。
「あいつはいつも…… あんな仕事をしているんですか?」
「昼間の件?」
「そうです」
「そう言えば目の前でレプリを処分したんだってな。ドリーから聞いたよ」
「……蚊も殺せないような女だった筈なんですが」
「非道い事を言う様だが……」
「覚悟はできてます」
「今日のは多分序の口だな。バーディーにしてみりゃ朝飯前の軽い運動みたいなもんだ」
まるで罪人のような表情を浮かべた太一は、今にも泣き出しそうな顔でロックを見ていた。余りに変わってしまった妹が。病と闘っていた薄幸の少女だった妹が信じられないと言わんばかりだった。
「俺は……」
三白眼な上目遣いで太一を睨み付けたロックは、もう一口ウィスキーを舐めてからグラスの縁へ目を落とし、どこかすっかり遠くなってしまったモノを思い出すようにしている。それが何であるかは太一にもなんとなくわかるのだが、あえて口にしない事もまた優しさであると知っている。故に、辛抱強くロックの言葉の続きを待った。
「親の顔を思い出せない。オヤジもお袋も。そして兄弟も。だから、もしあの場に、あの地獄のカマの底みたいな渋谷のビルの中に俺の親兄弟が居たとしても、バーディーの様に救う事が出来なかったと思う。本当にたまたまなんだよ。偶然なんだよ。俺たちは土壇場でドジを踏まない様に記憶操作をされているが、バーディーの場合は偶然に偶然が重なって兄弟の分は記憶が残っていたんだ」
横目でジロリと太一を睨んで、そしてロックも溜息を吐いた。
「もしあの場に俺の親父が居たとしても、俺は知らずに見捨てただろうし、もしそれが敵になっていたら容赦なく・逡巡無く・遠慮無く殺してた。顔を見ても気が付かなかったはずだ。だから、今きっとバーディーはつらいと思うぜ。きっと家族に会いたいはずだと思う。だけど、それが出来ない辛さは、俺には想像が付かない」
太一は太一でウィスキーを舐めつつ天井を見ていた。
時折まぶたを閉じて、その裏にまだ幼かった妹を描いた。
「会えないでしょうか」
「今から?」
「はい」
ロックは判断に迷った。基地の中へ人を入れるには手続きが面倒すぎる。
呼び出すのは容易いが、本人が覚悟を決めて接触を絶っているなら、呼び出すのは酷な話だ。顔を見ればホームシックになるかもしれないし、里心が付けば土壇場の土壇場で拙いミスを犯すかもしれない。
どれほど否定しても命のやり取りの現場で生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされるのだから、一秒未満な瞬間の判断が鈍る様な事態は避けておきたいものだ。
「基地に人を入れるわけにはいかないからな」
「世界中どこへ行っても一緒ですね」
「呼び出すのも酷な話だしな」
「なんでですか?」
「会いたくないって言われたらどうする?」
「諦めます」
「じゃぁ、会いたいんだけど上から会うなって言われてる場合は?」
「あ、そうか……」
「わかった?」
一つ息を吐いて遠くを見たロックは、ショットグラスに残っていたウィスキーを飲みきった。僅かな滴の残るグラスからは馥郁たる香りが漂い、その香りの向こうにロックは遙かな故郷、日本を思った。そして、何度イメージしても思い出せない両親の顔をも。
「里心が付くとやっぱり手が鈍るんだよ。俺たちはどういう訳か一番厳しい所にばかり送り込まれる。生身の連中が死なねーようにさ、いっぺん死んでる俺たちが使われンのさ。少々銃弾貰ったくらいじゃくたばらねーし、切った張ったは挨拶みたいなモンだ。けど、時々は本気で酷い目に遭って、何時だったかカナダでドンパチやった時は仲間が二人、腰から下が無くなって死にかけてるし……」
ロックの話が段々と生々しくなってきて太一は言葉を失った。何でそんな所に妹が居るのか? その根源的な部分での疑問を太一は自己解決出来ない。
「結局ン所さ、俺たちB中隊は隊長始めメンバー全員が半端ネー適応率の人間ばかり集まってンだよ。自慢じゃネーけど、俺は95パーオーバーだし、バーディーもそうで事実上100パーって逸材ってな訳よ。確率論で言えば十億人に一人らしいんだって聞いてるが、まぁ……」
ロックの目はジロリと太一を射貫いた。覚悟して聞けよ? と言い含められたような気がして、一瞬太一は怯んだ。だが、腹を決めて聞くのも必要な事だ。太一は覚悟を決め頷く。
「要するに、素質が違うんだ素質が。あいつは。バーディーは一言で言えば猟犬なんだよ。それも飛びきり勘の良い猟犬だ。狙った獲物は確実に仕留めるし、土壇場での割り切りとか切り替えとか、そう言う部分でスパッと切り替えられるんだ。男だと出来ない部分だな。ウチの基地の戦術教範長なんかバーディーの才能に惚れこンでるぜ。女にしておくのが惜しいってな。だけど、あの割り切りは女じゃ無きゃ出来ないって最近思うよ」
褒めてるのか嘆いてるのか判断に付かない言葉を並べてロックは感心している。だが、それを聞かされる太一には紙ヤスリで全身を擦られるような痛みを覚え、身をよじって悶えるしか出来ない。
危険を押して出撃するのは兵士ならば仕方が無いにしたって、飛びっきり危険な場所へ文字通り飛んで降りるエアボーンの場合は危険のレベルが段違いだ。
「妹は……役に立ってますか?」
「勿論だ。役に立ってるどころか何度も命を救われてる。まぁ、時々ポカをやらかすが、それはウチのメンバー全員そうだしな」
外連味無く言い切ったロックに驚いて太一は目を丸くしていた。
だが、恥ずかしそうに背を丸め、ロックは肩を揺すって笑いを噛み殺す。
「戦闘中にさ、ついつい面白くなる時があるんだよ。命のやりとりだ。変な話さ、その最中だけは『生きてる』って実感するんだよ。わかる? 自分の胸の中に心臓が無いって感覚。だけど、ひりつくような殺気を肌で感じながら剣を交わしてると、不意に思うんだ。斬られて死んだら嬉しいって。だって死ぬって事は生きてるって事だろ?」
理解の範疇を超えた言葉に太一は驚いた。
だがそれ以上に驚いた言葉がどこからともなく飛んできた。
「また馬鹿な事言ってる」
ロックは太一と顔を見合わせた。
「やれやれ。気を使ったはずが運命の再会だぜ」
振り返ったロックが手招きした先、バードがホーリーと並んで立っていた。
驚いて言葉を飲み込んだ太一は一瞬ロックを見た。
「あらら、いい男が二人揃って良いじゃ無い」
「じゃぁお持ち帰りする?」
「左側はバーディーの唾付きだから右側だね」
「……そう言う事言う?」
「え? 違うの?」
アハハと笑ってバードの背を叩いたホーリー。
だけどバードは怪訝な顔だった。
「どうしたの?」
バードは自分のこめかみをトントンと指で叩いた。赤外を飛ばすと言うジェスチャーだ。無線通信だとセキュリティパスが隊によって違うのでオープンパスでやり取りする必要がある。つまり、ネコにもネズミにも聞かれる無防備な状態ということだ。左目を閉じ、右目だけでホーリーを見るバード。はたから見たら女同士が片目で見つめあう構図だ。妙な妄想をするものも居るだろうが、短時間であれば目撃者も少なかろうとバードは思っていた。
【ホーリー。セキュリティクリアランス(指定機密レベル)αだからね】
【え? なに?】
【右側に座ってる日本人。私の実の兄貴なの】
驚いてバードの横顔を見たホーリーは、もう一度、じっくりと太一の顔を見てバードと見比べた。
【東洋人の顔立ちは判断付きにくいけど、確かに似てる。目元がそっくりだ】
【でしょ。だからちょっと。秘密の部分が多いから気をつけてね】
【うん。判った】
ロック達に程近いテーブル席へ陣取ったバードとホーリー。その席へロックと太一が移動してきた。
「それ飲んで良い?」
ホーリーがロックのボトルを指差した。まだ半分以上入っているが、四人で飲めばあっと言う間に無くなるだろう。だがロックは黙ってボトルを差し出した。少しばかり辛そうなバードの表情を感じ取っていた。
「ロックの相方さん、どなた?」
「あぁ。申し送れました。太一と呼んで下さい」
いきなりホーリーは日本語で話掛けた。その言葉が余りにネイティブだからか、太一は驚き慌てた。だが、苗字を名乗らず名を名乗った太一の慧眼にホーリーは驚いた。
バードの事情を十分飲み込んでいて、その部分で気を使っている。それだけでなく、仕事上の同僚たちにも余計な気遣いをさせぬよう振舞って、そして、自らとバードの関係を極力隠そうとしているのが手に取るようにわかる。
「ところで、日本語お上手ですね」
「注意しないと危ないよ。ホーリーの日本語は関西系だからね」
アハハと笑って太一の反応を見ているバード。ホーリーもしてやったりの表情だった。同じようにロックも驚いていたのだが、顔には出さずに済んだようだった。
「ウチな、実を言うと神戸育ちです」
「神戸ですか」
「そうです。両親の仕事の都合で一年の半分は神戸にいたんです。まぁ、今は全然思い出せませんが」
驚きの表情を隠せない太一だが、ロックもまた驚いていた。
「ホーリーは南部アメリカンだとおもってたよ」
「なんで?」
「言葉がゆっくりだしアクセントの位置がちょっとちがう」
「じゃあ、無意識に訛ってたかな」
再びアハハと笑って太一とロックを見たホーリーは、ロックのボトルのウィスキーをショットグラスへ注いでグイと一口飲んだ。その飲みっぷりが実に堂に入っていて、思わず惚れ惚れとするような振る舞いだった。
黒人系人種特優の細くて長い腕としなやかな指に太一は見惚れた。つぶらな瞳と小ぶりだが肉の厚い、見るからに柔らかそうな唇には、明るい色のルージュが引かれている。
ややもすればエキゾチックな姿なので、日本国内からあまり外へ出ない太一にしてみれば、ホーリーは文字通りの『ガイコクジン』だった。そしてその隣に居るバードを見た太一は、我が妹という部分を差し引いても酷い姿に思えた。ろくに化粧もしていないし、髪は乱雑にまとめられているだけだった。そのややもすればヤツレタ様な姿に、太一は妹『恵』が。いや、バードが置かれた環境の過酷さを想った。
「ところでいつ降りるん?」
「降りるとは?」
遠慮なく関西弁モードになり始めたホーリーは、酒が入るとおしゃべりが止まらない系の話上戸で、南部出身者にありがちなスロートークとは正反対な関西系特有のマシンガントークが始まる。
「あれですよ。宇宙をそらって言うやん。ここ月面も宇宙扱いです。ですから、地球に帰るんは降りるってゆーんです」
いわゆる関西弁にもいくつかの系統がある。ベタベタの大阪弁というのは、それこそ南と称される大阪南部の下町言葉であって、京都や神戸といった地域では微妙かつ絶妙に風味の異なる言語体系が厳然と存在している。その辺りを十把一絡げに捕らえてしまうと、関西弁に限らず相手の真意を見抜く事は難しい。言葉は様々にも解釈できるのだから、慎重に相手の腹を探る事も重要な会話能力のひとつであり、ネイティブスピーカーと技術としての他言語使いとの間に存在する大きく深い川でもあった。
「あぁ、そう言う事ですか……」
ホーリーは遠まわしに『早く帰れ』と言っている。太一はそう理解した。冷えたチェイサーで喉を湿らせながら、太一はチラリとバードを見た。何を食べても身体が受け付けず、見る見るうちに痩せ衰えていった妹の姿を思い出した。ベッドシーツよりも白くなった肌は空の青さも飾られた花の色をも映してカラフルに染まっていて、時折喀血してはタオルへ血を吐いていた。
肺の中で石化した部分が剥がれ落ち、血と一緒に体外へ排出されるのですと医者は言った。何とかそれを止める方法は無いかと医者も研究者も頭をひねり、最終的に出された結論は『重力を振り切る』それしかないと。自らの重量で圧迫を受け石化。珪素化するのだから、重力の影響を無くすしかないと。多くの研究者はそう結論付け、そしてバードはたった一人で宇宙へ旅立ったのだった。事実上、モルモットになる運命を受け入れて……
「ここに居る俺たち|はいろんな理由で死に掛けた奴ばかりなんだよ。もっと言うと、一度は死んだ人間だ。普通の方法じゃ治らない、回復しない、そんな病気や怪我や事故や事件や、そう言うもんで人生が終わった奴ばかりなんだ。つまり……」
唐突に切り出したロックはウィスキーの入ったグラスを揺らしながら呟いた。
漂う香りに目を細め、口へと運んで味を確かめる。
「世の中的には死んでる存在。あの時、その時、最期の瞬間を迎えて死んだ人間ばかりなのね。つまり、いまさら『生きていました!』とか言う方が面倒が多いって訳なの。死んでるほうが都合良いしね」
同じようにバードもウィスキーを呷った。空っぽになったグラスを差し出されたロックは、苦笑いでウィスキーをグラスへ注いだ。琥珀色の液体がなみなみと注がれたグラスを同じように一気に呷ったバードは、悲しそうに見ていた太一の目をジッと覗き込んで僅かに笑った。
「サイボーグでも酔いは回るの。脳殻内へカロリーを運ぶ回路にアルコールが混じるのよ。だけど、脳殻液の循環濾過を行えば10分か15分で脳殻部のアルコールは除去され酔いは醒めてしまう。それに――
チェイサーを流し込んだバードは寂しそうに笑った
――今飲んでいるこの味を舌が正確に理解している保証なんて何処にも無い。いま見ているモノが本物かどうかですら確証が無い。この目は高性能センサーの固まりで赤外でもモノを見る事が出来るし、レーザー測量の応用で距離も正確に分かるの……だけどね」
グラスに残っていたチェイサーを一気に飲み干したバードは、水滴のたっぷりと付いたグラスを眺めた。月面都市は弱い重力を補正する補償装置のおかげで1Gに近い環境になっている。その重力に引きずられ、水滴がテーブルへポタリポタリと垂れてシミを作っている。太一はその滴がバードの涙に思えた。
「自分が何処へ行こうとしているのか。自分が何者なのかは判らないの。たった一つだけ確実な事があるとしたら、それはきっと凄くシンプルで簡単な結論よ。私はバード。もしかしたら私はあなたが知ってる誰かにとても似てるかも知れないけど、でも…… 私はバード。仲間からはバーディーと呼ばれる存在なの」
バードは甘く鋭い眼差しでロックを見た。その目つきがまるで戦闘中にも思えてロックは思わず首を竦めた。だが、バードの思惑は判るし、ロックはロックで嫌と言う程理解している事だった。
「アンタがここで見たモノは人の作り上げたモノだ。俺たちもそうだ。誰かの手で作り上げられた架空の存在。もしこっちのサイボーグがアンタの知ってる誰かに似ていたとしても、それは姿だけで中身は違うモンだ。だから、何処に行って誰と話をしたって良いんだろうけど、ひとつだけ忘れないでくれ。俺たちは明日無き命で今日を生きてるサイボーグだ。何時死んだっておかしくないし、三秒後に突然死ぬかも知れない。脳とサブ電脳を結ぶ結線部分が機能不全に陥ったら俺たちは十五秒で死ぬからな」
太一は言葉を失って俯いてしまった。バードとロックが言いたい事を理解したからこそ、顔を上げる事が出来なかった。
「知らない事を知っているフリは辛いけど、知っている事を知らないフリをするのはもっと辛い。だけど、これは胸の内で留めておくべきよ。どこかで心配している誰かじゃなくてもう諦めている誰かに変な期待を持たせると、返って辛いでしょ」
ホーリーの言葉を聞いた太一は、遂に涙をこぼした。バードが遠まわしに『自分が生きている事を親に言うな』と口止めしているのだと気が付いたからだ。そして、どれ程の覚悟で妹がここに居るのかを理解した。軍属である以上は逃げられない責務があって、それは自分だけじゃなく沢山の仲間や守るべき存在の命を背負っている。しかも、士官である以上は部下たちの命にも責任を持たねばならない。
「多分だけどね。次の定期メンテナンスで私はこの数日の間に経験した事から『ある特定の記憶部分』だけにプロテクトを掛けられる事になる。そうしたらもう、私はお父さんもお母さんも、そしていつも私を励ましてくれたお兄ちゃんの事も思い出せなくなるの。そしてそれに違和感を感じないように補正もされてしまう。思い出す事自体が無くなる様にマインドコントロールを受ける。でもそれは、私が背負った責任を果たす為に必要な事だし、私が逡巡して苦しまないようにする為に必要な事だもの。だからさ、」
バードはグラスを持ち上げた。いつの間にかロックがウィスキーを注いでいたのだった。ホーリーもロックもグラスを持ち上げた。そして三人は太一を見た。
「最後に乾杯しよ」
「……あぁ」
太一もグラスを持ち上げ、そして四人が乾杯した。
グラス同士がぶつかって音を出して、そしてバードは一気に飲み干した。
「さよならは言わないわよ。赤の他人なんだから。だから……」
立ち上がったバードは手を振った。
「生き残ってよかったですね。次は気をつけてください。地球までお気をつけて。じゃ」
一番最初にテーブルから歩み去ったバード。ホーリーもその後に続いて歩き、太一に向かってヒラヒラと手を振った。残された太一はロックと顔を見合わせた。
「くそっ! やられた!」
クックックと笑いを噛み殺しているロックを太一が見ていた。
「何をですか?」
「たかられたよ」
「……伝票?」
「そう」
苦笑いを浮かべたロックは伝票をヒラヒラさせている。飲みきったボトルの代わりが自動で追加され、余り安くは無い金額が伝票に踊っていた。
「アンタの分も俺が払っておくよ。今夜は大人しく宿に帰ってくれ」
「了解しました」
「……太一さんだっけ」
ロックは太一の顔をジッと見た。
太一もまたロックの顔を見ていた。
「あいつの事は。バーディーの事は心配しないで良い。俺が命に代えて護るから。俺は本気で惚れてんだ。俺だけじゃねぇ。うちのチームの奴はみんなバーディーに気があるだろう。仲間を越えた何かだ。ただ、それは恋人とかダーリンとか、そんなチャチなモンじゃねぇ。生きるか死ぬかの現場で背中を預けられる、純粋な信頼だよ。だけど、俺は本気であいつに惚れてる。でも、惚れた腫れたは御法度だ。何時死んでもおかしくネェからさ。だから地上へ帰っても、あいつの事は公言しないでくれ。いつか必ず、胸を張って顔を合わせられる時が来るから」
ニヤリと笑ったロックは太一の分も伝票を持って立ち上がった。
一人残された太一は溜息の味が混じったウィスキーを飲み干して、静かに宿へと帰っていった。




