バードの日常
――――月面 アームスロトング宇宙港 都市部
月面特別市 ポートアームストロング
地球標準時間 3月3日 1100
前夜遅くに月面入りした太一は海兵隊情報部によるブリーフィングと身分説明を受けた。翌朝を待ってアームストロング基地および港湾部分のみという条件付きで自由行動を許されたのだが、渡されたのは海兵隊の予算から捻出された滞在時における小遣い程度の米ドル紙幣少々と、そして緊急時には基地保安へ直通となる携帯電話だった。
念入りに釘を刺されたのは、迂闊に地球へ連絡を入れない事。トールハンマー作戦に関して絶対に口外しないこと。少なくとも今現在の時点では公式情報として先遣突入隊の生存者は無しで、宇宙軍は関与していない事になっている。つまり、どんな手段を使って太一が宇宙へ来たのかを探られると、色々困る人間が居るという事だった。
「では、Mr,タカナシ 月面を楽しんでいってください」
あまり抑揚の無い声で送り出された太一は、宿舎に指定されたホテルを先ず目指した。宇宙港の民間ポートに程近いアストロノーツ達が使う船乗り宿だった。近くには繁華街があり、食事にも買い物にも不自由しない場所だ。そして、二十四時間体制で監視下におけるというのが重要だった。
「さて……」
海兵隊の事業用車に乗り込んだ太一は街中の一角で車から降ろされ、そこから街を歩いた。様々な人種が普通に歩いている場所。街だった。看板を見回しながら月面の都市を行く太一は、不意に尾行に気が付いた。
それなりに場数を踏んだ人間故、そう言う部分では勘が効くし辺りを確かめる余裕もあった。だが、一番言えるのは尾行がまるっきり素人と言う事だ。軍や警察と言った法執行機関在籍の人間ならば、こんなブザマな事はしないだろう。
――――まいた方が良いな
何の根拠も無くそう思った太一は、すぐ近くにあった小さなコンビニの客となった。手にしていたドル紙幣を幾枚か取りだし、適当に飲み物とスナックを用意して店を出る。尾行が最大限接近したタイミングを見計らってだ。
店を出る時に全部承知で尾行者の顔を確かめるべくガン見してやる。この時、向こうが顔を背ければ素人だし、素知らぬ顔で太一をチラ見すればプロだ。特殊作戦軍に所属する太一ならば、諜報関係者対策の訓練も当然のように受けていた。
「あっ」
尾行者は無様に声を出した。太一はその男に微笑みを返し、店を出てから全速力で走った。ここまで素人はそう居るまい。つまり、法執行機関などの『公務員』である可能性はかなり低い。民間の何らかの調査会社か、またはマスコミ関係者だ。何の根拠も無かったのだが、太一はそう結論づけた。
細い路地を走り、知識にあった月面繁華街の中を駆け抜ける。観光客や月面在住者の脇をすり抜けて、全部承知で細い路地を曲がり、低重力を生かして階段を飛び降り、都市内地下鉄のホームへと飛び出る。都市構造を支える支柱に張られた鏡に尾行者が映っていた。
ちょうどやって来た地下鉄に飛び乗り尾行者を確かめる。二両程度離れた車両へ向こうが飛び込んだのを確認し、ドアが閉まる直前に太一は車両から飛び降りた。発車していく列車の車内で尾行者が呆然と太一を見送っていた。
薄笑いを浮かべ素人丸出しの尾行者をまいた太一は、反対方向の列車に飛び乗ってやっと飲み物を口にした。ミントのフレーバーが広がるジャスミンティーだった。ラベルを見ずにTEAのスペルだけで買ったのを後悔した。鼻に抜ける独特の香りに少し気分を悪くしながら適当な駅で降りて、半分以上残っていたボトルをゴミ箱へと投げ捨てる。
「くそっ……」
悪態をつきつつポケットに突っ込んでおいたスナックを囓り、周辺を警戒しつつ地下鉄の駅を出て再び繁華街へ出た。そこは恐ろしく人口密度の高い雑踏だった。
――――スゲ―な
街の一角にあるドーナツショップでドーナツを買い、もそもそと囓りながら街を歩く。左右には様々な言語で書かれた看板が林立していた。比較的天井の低いエリアらしく、手を伸ばせば天井を触れそうな程だ。月面の繁華街というより新宿か渋谷辺りの地下街を歩いている気分になってくる。大柄な人種などはうつむき加減で歩く程に断面の小さいエリアだった。
――――ん?
言葉に出来ない違和感を太一は覚えた。理屈では無く直感だった。
――――尾行されている……
――――こっちは……プロだ
後ろを振り返らず太一は歩いた。宛など無かったが目的は簡単だ。宛がわれた宿を目指し投宿する。この気配なら間違いなく海兵隊関係者かNSA関係者だろう。そんな読みだった。
いくつか通りを抜け階段を駆け上がり複雑な構造の地下街を通り過ぎる。尾行はつかず離れず付いてくる。特に危害を加える様な気配は無い。さて、どうしたモンかと思いつつ、殺す気ならとっくに手を出しているだろうと割り切った。少なくとも、死んだはずの妹が目の前に現れて、はっきりと『殺すつもりだった』などと言われたのだ。少なからぬ衝撃があったのは事実なのだから。
通路を抜け天井の高いドーム状のエリアに出た。強靱なクリアドームに覆われた開放型月面都市だった。太陽方向にのみ減光用のスクリーンが掛けられ、街中へ届く熱波は随分と緩和されているようだった。
エアコンの効いたそのドームにはコーヒーの香りが漂っていた。思わず生唾を飲み込んだ太一は、街角のオープンカフェへと入っていき、椅子を引いて腰を下ろした。通りを行く人々が一望出来る場所だった。
「ブレンドをホットで」
店員にオーダーを出して通りを見回す太一。街を行く人々は太一を気にも止めず通過していく。尾行者は通り過ぎてから振り返るはずだ。そんな読みだったのだけど……
通りに注意を向けていた太一の背中側。椅子が僅かに動いて客が姿勢を変えたようだ。背中にも注意を向けたその時、背中に小さな接触感があった。どうやら背中当たったらしい。
「Oh Excuse……」
咄嗟に口を突いてお詫びの言葉が出るのは日本人の特徴だ。
国際色豊かな場所で国籍を誤魔化すには気をつけろと教育されていたのだが。
「振り返らなくても私たちは監視出来るのよ?」
太一の背中側に座っていた女性客がいきなり日本語で声を掛けてきた。
聞き覚えのある声に驚いた太一だが、無様に振り返るほど愚かでも無い。
「バーディ? 俺がここに来るのがわかっていたのか?」
「いいえ。たまたまね」
太一の背側にはバードが普段着で座っていた。二十代の女の子がオシャレするような姿だったからか、太一は全く警戒していなかったようだ。
振り返る事無く店内のガラスに映ったバードへ注意を向ける。バードの向かいにはロック少尉が同じようにコーヒーを飲みながら、週刊雑誌のページを捲っていた。ただ、その内容は全く読んではいないのがバレバレだ。
「尾けてるのは誰だ?」
「少なくともブレードランナーでは無いわね。私は聞いてないもの」
「今は?」
「基地に入り込んだレプリをハントしてるところ。手伝わなくて良いから邪魔しないでね。ただ、その前にそっちの尾行を何とかしようか」
「何者だか判ってるのか?」
「基地のデータベースに因ればアストロマイニング社の域外調査員。まぁ要するにシリウス側の工作員よ。多分兄さんを誘拐するつもりだったんでしょ」
「え? なぜ?」
「情報を得る為」
「なんの?」
「そんなの何でも良いのよ。身柄さえ押さえちゃえば交渉の材料にもなるしね」
フフフと笑ってコーヒーを飲んでいるバード。
余りに変わり果てた姿の妹に衝撃を受けつつ、太一は精一杯ポーカーフェイスを気取った。
「トイレに立ってくれる? ここのカフェのトイレは個室だから手を出すには最適なのよ。これ幸いで動いてくれるわ」
携帯をいじりながらニヤニヤ笑っているバード。
端末の画面は最近流行のドラマを映しているが、携帯のカメラは通りを監視していたのだった。
太一は手にしていた鞄をテーブルにおいて席を立った。店の奥にあるトイレを目指し歩いて行く。それに釣られ、通りから中東系な顔立ちの男が店に入っていったのをロックが目で追っていた。
『ロック』
『OK。どうする?』
『出来れば生け捕りで。あと三分でデッカード達が到着するから』
『抵抗した場合は半殺しにするぜ?』
『死なない程度にね。色々ネタを吐いてもらわなきゃ』
ニヤリと笑って雑誌を無造作にテーブルに置いたロック。
店内を一度グルリと見回しトイレの位置を確認するようにして席を立った。
「ちょっとトイレ」
「ちゃんと手を洗ってね」
笑いながらトイレへと向かうロックは懐の中の警棒を確かめた。四段伸縮のロックを外していつでも使える体制にしてある。その状態でトイレの前に立ち順番待ちのフリだ。
サイボーグには尿意も便意も無いのだから、トイレの前に立つなんてこと自体が新鮮だった。そして、どこか懐かしいと感じている自分がおかしかった。やや薄ら笑いを浮かべ鏡に映る自分を見る。あまり血の気の無い顔だが不自然ではない。
若い男が身だしなみを気にして鏡を覗き込むフリをしていたら、太一を尾行して来た奴もトイレの前にやってきた。キツい眼差しでロックを一瞥し、順番を飛ばしたトイレに入ろうとした。
「おいアスホール。俺が先だぜ」
「すまないセニョール。切羽詰まってるんだ」
「奇遇だな。実は俺もだ」
同じタイミングでトイレから水を流す音が聞こえた。ドアが開き太一が姿を現した瞬間、尾行していた男はポケットからスタンガンを取り出し太一へ押し付けようとした。同時にロックは鋭く足を蹴り上げ、スタンガンが天井に突き刺さるほどの衝撃を与えた。鈍い蹴り応えがあり、尾行していた男の手首がポキリと折れた。
「言ってんじゃねーか。俺も切羽詰ってんだよ」
痛みを感じる前に驚いてロックを見た尾行の男。顔立ちからしたら中東系だが、言葉遣いは品の良い欧州系だった。ただ、それとこれとは関係ないとばかりに、最短の手順でロックはチンフックを決める。尾行の男はがっくりと膝を付いてトイレの前に蹲った。
「バーディーの兄貴だろ?」
「あぁ。覚えてますよ。ロック少尉」
「ロックで良い。それより、店を今すぐ出でて左手に進むんだ。仲間がサポートに付くはずだからな」
「なぜですか?」
ロックの目はまるで戦闘中のようだと太一は思った。
射抜くような鋭い眼差しだ。
「あんた、消されるかもしれないんだぜ?」
「情報管理の観点で言えばやむを得ませんね」
「あんたはそれで良いかもしれないが、バーディーが凹むのは困る」
ニヤリと笑ったロックは太一を尾行していた男をトイレに押し込み、持っていたタイラップを使って手足を縛った上で口の中に男の履いていた靴下を押し込んだ。勝手に自殺でもされたら面倒だと言わんばかりの処理だが、その手馴れた動きに太一は妹が所属するサイボーグ中隊のレベルの高さを垣間見た。
「モタモタしねぇで行動してくれ。バーディーもちゃっちゃ仕事を終わらせてデートしてぇってな空気だからよ」
「……ロック少尉は、あいつの…… バーディの恋人ですか?」
「はぁ?」
「要約が過ぎてて申し訳ありません」
「まぁ軍人なんかどこも一緒だし……」
ロックは太一の胸を拳で小突いて、そして笑うのを我慢できない風にニヤツいた。
「俺もバーディーもマシーンだ。人を殺すためだけに作られた戦闘マシーンだ。俺はそう割り切ってるし、バーディーも最近はだいぶ染まってきた。だけど……」
ロックはトイレのドアを閉め、手持ちのペンで『故障中』と紙に書き、ドアへと貼り付けた。様子を見に来た店員に自分の身分証明書を見せ『五分か十分後に警察が来るから引き渡すまで押し込めておく』と事情説明を行う。店側の人間もなれた様子で了解し引き上げて行った。月面基地の日常を太一は思い知った。
「鮮やかな手並みですね」
「慣れてるからな。それより、先に行動してくれ。あまり時間が無いんだ」
「わかりました」
歩み去ろうとした太一の肩をロックの手が止める。
「あいつはブレードランナーだ。あいつのおかげで俺たちB中隊は何度もピンチを脱している。そんじょそこらの馬鹿じゃ勤まらないポジションで必死にやってるんだよ。だからあんまり邪魔しないでやってくれ。俺たちはいつ死んでもおかしくないところに居るから。まぁ、一度は死んでるんだけどな」
驚く太一の目をジッと見ているロック。
「あいつに惚れてるのは俺だけじゃねぇ。B中隊はみんなあいつに惚れてる。隊長は実の娘並に扱ってるし、基地のお偉方はみなバーディーを大切にしてる。そこは心配しないでくれ。ただまぁ」
もう一度太一の胸をロックが小突いた。
「太一さんって言ったっけ?」
「そうです」
「本音としちゃ、あんたを兄貴と呼べるようになったら嬉しいな」
ニヤッと笑ったロックの手が太一をトイレの前から押し出した。行けという指示だと思った太一は振り返らず店を出た。出際にちらりと見たバードは雑誌を読んでいたが、目だけ太一を見て左目をウィンクさせた。
店を出て左手に進むと、繁華街の中を通り抜けて大きな通りにぶつかった。信号に足を止められ横断歩道の前で待つのだが、ふと後ろから突き飛ばされる危険を感じ振り返って数歩進んだ。するとどうだ。目の前には日本語がペラペラだったビルが立っていた。
「やぁ! エンドウさん! ご無沙汰です 覚えてますかビリンガムです」
「あぁ! どなたかと思えば! 大変ご無沙汰しています」
偶然の再会を装ってやってきたビルは太一と握手した。
全部承知で偽名を使ったビル。それを理解して笑顔を浮かべた太一。
こいつは中々やる男だと安心してビルは適当に話を切り出す。
「いつこちらに」
「最近ですよ」
「そうですか! とりあえず行きましょう」
並んで横断歩道を歩き始めた太一とビル。
向かいからサングラスを掛けた男が歩いてきて太一は一瞬身構えた。
「アレは仲間です。後ろの尾行者を始末します。止まらないで」
小声で話をしたビルはサングラスを掛けたペイトンとすれ違った。
『ターゲットを把握してるか?』
『問題ねぇ。サクッと死んでもらうさ』
物騒な事を無線で呟いたペイトンは太一の尾行に狙いを定めた。
随分背の低い東南アジア系の顔立ちをした男だった。
「さて。あっちはあっちに任せましょう。基地司令の話しですがあなたの身柄を狙ってこの基地に潜入している工作員が一斉に動いています。良い機会なのでまとめて釣り上げる事にしました。申し訳ありませんが協力してください」
「了解しました。月面で使う小遣いを貰った身分です。給料分位は喜んで働きますよ。お安い御用です」
横断歩道を渡りきり、再び地下街のような狭い通路へと入った。先ほどの通路と違ってここは割りと断面の広い場所だった。そして、ところどころに防火扉状になったエアロックが用意されていた。気密抜けを起こした場合はここで食い止める。そんな仕組みだと気が付く。
「宇宙で暮らすのは大変ですね」
「ですが、逆に言えば最高の環境です」
「働くにも集中できそうだ。良い経験をつめそうだし」
「ワーカーホリックは寿命を縮めますよ? このまままっすぐ行ってください。どうかお気をつけて。仲間に引き継ぎます」
しばらく並んで歩いたビルは手を振って別れて行った。太一はそのまま進んで行くのだが、今度は丸顔で黒人の男がやって来て、いきなり英語で話しかけられた。
「あなた。ミスタータカナシ?」
「イエス」
「オーケー 一緒に行こう」
「あの、あなたは」
「私の名前はドリー。バードの上官に当たります。B中隊の副長です」
「……お世話になっています」
「それは違います。バードのおかげで我々は何度も全滅やトラップの危機を乗り越えているんですよ」
ニコリと人懐こい笑みで太一を見たドリーは、そのまま通りを進んでいった。
時折周辺を警戒するものの、その振る舞いは実に鷹揚としたものだった。
「なるべく壁際を歩いてください。ドームの中は仲間のスナイパーが監視についてましたが、ここでは自力防護だ」
「えぇっと…… ジャクソン中尉ですね」
「良く覚えていますね。その通りです」
通りからは段々と人が消えていく。繁華街を抜け港湾地区へと入ってきたようだと太一は辺りを見回して思う。構わず歩いていくとドリーは不意に話を切り出した。
「ところでミスター。宇宙空間の経験はありますか?」
「いえ、それが恥ずかしながら、月へ来たのも初めてでして」
「そうですか。それはちょっと困った事態だ」
「と、いいますと?」
足を止めたドリーは困ったような顔で太一を見た。
その眼差しには明らかな困惑の表情があった。
「ちょっと面倒な事態がですね」
「お手間をおかけしました」
「いえ、これから起きるんです」
「はい?」
驚いてドリーを見た太一。
だが、次の瞬間通路の奥の方にあった扉がいきなり開き、白い髪の女が飛び出してきた。通路に出て左右を確認し、太一の方へ向かって走り出した。瞳の芯は燃え盛る炎のように紅かった。
「やれやれ」
ドリーはポケットからグローブを取り出して右手へとはめた。スタンナックルと呼ばれるスタンガンの仕込まれた拳闘グローブだ。右手を構えた直後、後方から野太い男の声がした。
「キャプテン! 避けて!」
驚いて振り返ったドリーと太一。視線の先には見た事の無いブレードランナーが立っていて、大口径の拳銃を構えていた。太一の見た事が無い拳銃だったが、そのシルエットから推測されるものは一つしかない。サイボーグ向けに作られる電磁加速型の小型レールガンだ。
「フリーズ!」
制止を命じる声にビクリと震えたその女は、慌てて走るのをやめ反対側へ走り出した。そのまま距離を稼ぎ、手近にあったドアを開け中に飛び込もうとした。地下通路の左右にある扉は全て通路側へ開く構造になっている。おそらく外側の方が気密抜けの公算が高いのだろう。
開いたドアの陰に入った逃げ込んだ女はブレードランナーの放った銃弾を全てドアで防いで無傷だったらしい。気密隔壁は少々の衝撃では壊れるはずも無い。だが、唐突に違う角度で銃声が鳴り響いて、その音に太一の耳は悲鳴を上げた。音速を超える物体が放つ微気圧波で耳をやられたのだった。
「え?」
素っ頓狂な声を出して太一が驚く。ドアの陰からヨロヨロと出てきた女は両手を前に突き出し、命乞いをするように手を合わせていた。だが、その胸の辺りからプツリプツリと白い血が飛び散り、女は口から白い血を吐いて後方へよろけ、やがて力なくその背を壁に預けてうずくまった。全身から力が抜けた。
「心情的には助けてあげたいところだけどね」
ドアから姿を現したのはバードだった。手にしていた拳銃は太一の後方から発砲したブレードランナーの男が構えた拳銃と同じもので、そのシルエットを見れば大口径高初速のモノだと察しがつく。
「あなた、名前は?」
白い血を流すレプリカントは首を左右に振り、涙を流して命乞いをしている。だがバードは迷う事無く腹部にもう数発ほど射撃を加えている。同じように白い血が飛び散り、バードは憂いがましい笑みを交え詰問を繰り返した。
「あなたの名前を私が覚えておいてあげる。もう何人も処分しているから、あなただけ見逃すわけには行かないの。残念だけど、これが私の仕事だから」
銃を突きつけられたレプリカントは観念したように俯いて、そしてボソリと呟くようにして言った。
「……イブ」
「そう」
バードは腕まくりをして左腕のところにEveと書き込んだ。
その仕草を眺めていたイブは僅かに笑った。
「長い間ご苦労様。次は人に産まれてきなさい。ただ、私みたいに機械になっちゃダメよ。人を恨まず、次は人に……ね」
イブは僅かに頷いた。
その直後、イブと名乗ったレプリカントの頭蓋骨が音を立てて激しく粉砕され、白い血と脳漿液とグレーがかった脳の構成体を壁際に飛び散らせ、そして、死んだ。
「よぉバーディー! お疲れさん」
「お疲れ。ロイ。これで全部?」
「あぁ、さっき街場でデッカードとブライアンが4匹処分してる」
「じゃぁ、任務完了だね」
「そうだな」
懐に銃をしまったバードはロイの方へ歩み寄ってハイタッチを交わした。
全く逡巡する事無く任務をこなしている姿に太一は複雑な心境だった。
「全部って幾つ居たんだ?」
話に割り込んだドリーがバードに問いかける。するとバードは指を折って数を数えてロイを見る。
「全部で12かな?」
「そうだな。それくらいだ」
「で、そっちの方は?」
とぼけた顔でドリーに尋ねたバード。
太一は言葉を失った。
「あぁ、マルタイだ」
「そうなんだ」
やや遅れて姿を現した軍警関係者がレプリの死体を片付け始め、その隣でバードは書類にいくつかサインを入れ、そして軍警の担当者と打ち合わせを始める。そこへロイが加わり僅かなディスカッションをしているのだが……
「あそこに居るのは俺たちBチームじゃ無くてAチームのブレードランナーだ」
「じゃぁ、バード少尉は」
「アンタの為を思って他人のフリをしたのさ。悪く思わないでくれ」
僅かに手招きして現場を離れたドリーと太一。そのまま船員会館ホテルへと移動しつつ、ドリーは太一へ少しずつ語りかけた。何で機密保持に注意を払うのか。何で執拗に身分を隠すのか。何で海兵隊はこんなにも閉鎖的なのか。
話を聞きながら太一は理解した。そして、自分よりも遙かに苛酷な境遇に居るバードを。妹『恵』を思った。
「場合によってはバードにもう一度記憶操作のオペを施すかも知れない。もしアンタのコピーレプリが自爆テロをやらかしそうになった時、バードが撃てないと困るんだよ」
「そうですね」
「そして、場合によってはアンタにも記憶操作が施されるかも知れない。だが、出来ればそれはしたくない。だから、もし、地球や月やありとあらゆる場所で戦闘中であろうと無かろうと、バードと出会っても他人のフリをしてくれ」
ドリーは真剣な目で太一を見ながらそう言った。
「非道い事を言っているが、真剣なんだ」
「判りました。その様にいたします」
「すまない」
ホテルの前で太一と分かれたドリー。
太一はホテルのフロントでチェックインの手続きを始めた。
観光客としてやって来た月面だったのだが、そこで見た日常は余りに衝撃的なモノだった。




