契り
この日もINABAは賑わっていた。
雑踏の中で立ち尽くしたバードは逡巡していた。
それは、これから戦いに挑む戦士の様な緊張感。
そして、花も恥じらう乙女の純粋な願望と妄想。
なにより、拒否されたらどうしようという恐れが渦巻いている。
何気なく手を突っ込んだポケットの中にはクォーターダラーが一枚あった。何気なくそれを手に取り、コイントスして運を計る。親指で弾いたコインはクルクルと回って空中を舞った。その間、バードは心の中で呟く。
――表だったら電話しよう……
――表だったら電話しよう…………
――表だったら電話しよう………………
――表だったら電話しよう……………………
――表だったら電話しよう…………………………
――表だったら電話しよう………………………………
サブコンがクロックアップしているのに気が付いてバードは苦笑いした。
ぽとりと左手の背に落ちたコインを右手で隠し、いざどけようとして逡巡する。
高性能な視覚情報カメラは、ハイレートで回転するコインを追っていた。
確実に表だという確信があった。でも……
――裏だったらどうしよう……
相変わらず弱気の虫が顔を出す。
電話するんだと自分の中で回答が出ている事にも気が付かない。
バードはほうと息を吐いて右手をどけた。
25セント硬貨の数字がチラリと見え、右手をグッと握る。
そして、壁に掛かっている年代物の公衆電話にコインを投げ込んだ。
RRRRRRRRRRR…………
「……誰かと思ったぜ」
いたずら書きで汚れたモニターの向こうにロックが姿を現す。
上半身裸でモニターカメラの前にいるロックは笑っていた。
「電話なんてどうしたんだよバード」
「あのね……」
「……ん?」
「ホーリーに振られて一人で飲んでるんだけど、間が持たないから……」
――来て……
そう言いかけて、それ以上の言葉が出なかった。お願いだから察してと祈った。
朴念仁とも唐変木とも言われ、こと他人の事となれば頓痴気なロックだ。
バードは自分の舌足らずさを棚に上げて祈るしか無かった。
「……どこの店だ?」
――やった!
密かにガッツポーズしたバードは、吐き気を覚えるほど緊張していた。
「……INABAの例の店なの」
「ちょっと待っててくれ。すぐ行くから」
プツリと画面が消え、バードはモジモジしながら自分の座っていたカウンターに腰を下ろした。ホーリーから貰った小さな機材が、上着の内ポケットで、出番を待っていた。
――――――――月面都市「INABA」
地球標準時間 2299年 7月24日 0時
キャンプアームストロングのリビングゾーンから移動するとして、INABAは決して近い所では無い。だが、ソワソワとして落ち着かないバードの肩をロックが叩くまで15分と掛からなかった。
「わりぃ 待たせたな」
「そっ…… そんな事無い……よ」
不自然に緊張したバードは、少し吃音気味の言葉を吐いた。
その姿にロックはただならぬ空気を感じて居て、僅かに眉根を寄せた。
「なんかあったのか?」
馴染みのバーテンは氷の入ったグラスと共に、ロックがキープしてあったウィスキーボトルを差し出した。そのグラスにウィスキーを注ぐやいなや、一気にグラスを呷ったロック。その飲みっぷりにバードは頬をほころばせる。
「相変わらず……」
「隊長仕込みだからな」
新任時代に何度も問題行動を起こし、その都度に目の前でこうやって酒を呷ってから説教したテッドの姿をロックは昨日の事の様に思い出す。いつもいつも溜息から始まるテッドの説教だったが、その眼は優しかったとロックは思う。
「……そう言えば隊長と飲んだ事って無いなぁ」
「隊長なりに気を使ってんだろうさ」
軽い調子で会話のラリーを始めたロックとバード。
どうでも良い話をしばらく続け、そろそろロックが痺れを切らし始めた。
「なぁ、どうしたんだ?いったい。 今夜は変だぜ?」
「……そう?」
不自然に語尾の上がったバードは、ごまかすように笑っていた。
ただ、その笑みが余りに不自然な作り笑いで、ロックは僅かに首をかしげた。
「あぁ、明らかに変だ」
「……じゃぁ、河岸を変えようよ」
馴染みのバーテンにチェックを入れさせ、バードは店を出た。
ロックと腕を組んで歩くINABAの市街地は、深夜の時間帯だというのに人の波が途切れていない。そんな雑踏を歩くロックとバードは、会話らしい会話が無かった。ロックはバードが何を迷っているのかを理解し切れていなかった。
「バード」
ズバッと声を掛けたロックの声に、バードはびくりと身体を震わせて反応した。
だが、ゆっくりとバードを見たロックの目は、相変わらず優しかった。
「あのね……」
静かに切り出したバードは、ロックの顔を見る事が出来ず俯いてしまった。なにか相当辛い事があるんだと思ったロックは、出来る限りバードを優しく抱き締めた。ただ、今のバードにしてみれば、そんなロックの腕の中は文字通りの天獄だ。
海兵隊士官の矜持として、自らの希望は自らの口から言わねばならない。結果の善し悪しや、その結果が望むモノであるか否かは関係ない。
――全ての責任は自分で背負う
その精神は全くブレる事が無い。
しかし、逡巡するのは仕方が無い。
バードだって人間なのだから。
「……羨ましいの」
「え?」
少し抜けた声で驚いたロック。
バードはロックの顔を見上げ、そして、顔を横へと向けた。
INABAの街中にあるブティックホテルの入り口へ、若いカップルが吸い込まれていった。その後ろ姿を見送ったバードはもう一度ロックを見上げた。ロックはまだホテルの入り口を見ていた。
「私にはアレが出来ない」
「……バード」
「したいって思っても、欲しいと思っても私には出来ないの」
バードは泣き顔の様な笑みでロックを見上げた。
心の丈を精一杯込めた言葉だった。女の心の一番深い所にある欲望や情念だ。
朴念仁なロックでも、バードの本音は痛いほど理解出来た。
「そりゃぁ…… 俺もだよ」
「……ロック」
「抱き締めるって事は出来てもさ……」
ロックはギュッとバードを抱き寄せ、その頭に頬を寄せた。
頭をグッと締め付ける様に抱き締めたロックは、バードの髪にキスをした。
「バードを失うのが怖い。呆れられるのが怖い。嫌われるのが怖い」
「……そんなこと無いよ」
「俺は俺が気が付かないうちに、バードに嫌われる人間になってるんじゃないかって思う時があって、それが本気で怖い」
ロックが本音を吐露した。
意地とメンツと強がりの塊な戦闘狂の男が……だ。
その事実にバードの心が震えた。誰にも言わない本音が出たのだ。
チームで一番の偏屈といえばジョンソンだが、あのブリテン人とは違う角度でロックは偏屈だ。いまどきじゃ時代遅れな漢の矜持と言うモノに、病的なほどこだわっている男が『怖い』と口にしたのだ。それはまちがいなく本音を漏らしたのだとバードは思った。
「連れて行ってくれる?」
バードの眼差しに迷いはなかった。
ここが戦の天王山よとロックは奥歯をグッと噛んだ。
「どんなに後悔したって後戻り出来ねぇ道だぜ?」
「そんなの人間辞めた時からもう百万回は踏み越えてるよ」
ロックに抱き付くバードの力がグッと強くなった。
――良いのか?
――本当に良いのか?
ロックもまた逡巡した。
だが、気が付けばバードの肩を抱いたまま、歩き出していた。
「おれさ……」
ボソッと漏らしたロックの言葉にバードが顔を向けた。
「こういうとこ、入った事無いんだ」
「私もないよ」
「バードも?」
「まだ女の子だもの」
そこに込められたバードの忸怩たる思いをロックは感じ取った。
何故なら、まったく同じ思いをロックも持っていたからだ。
――恐れ迷うなかれ
――逃げ惑うなかれ
――立ち向かえ!
ロックの耳に父親の声が蘇った。
――気合入れろよ…… 俺!
――今夜は勝負だぜ!
まるで降下直前のような貌になって建物に一歩吸い込まれたロックとバード。
初老に近い年齢の女性は、えらく事務的な受付だった。高給取りな二人にしてみればどうという事はなくとも、その料金は決して安くないモノだ。
ただ、案内された部屋の中が薄暗くてムーディーなライトに彩られている事に、ロックは妙な興奮を覚えた。
「……へぇ」
バードの肩を抱いていたロックは小さく呟いた。
今まで様々な場所へ行ったが、こんな雰囲気は初めてだった。
「……ドキドキしないのが悔しいって、今までで一番思う」
バードはニコリと笑ってロックを見た。
小さなソファーに荷物を置いて、二人並んで腰を下ろす。重量のあるサイボーグだが、しっかり支えてくれるソファーは頑丈だ。しっかりとした造りの理由は考えるまでもなく、ロックは隣に座るバードと見つめ合った。
「バード」
ボブの髪を掻き上げたロックの手がバードの素顔全てを露わにした。
されるに任せて目を閉じていたバードが、そっと眼を開いて真っ直ぐに見た。
「……ロック」
「愛してるよ」
そっと重ねた唇は冷たかった。
ただ、ロックはその唇に確かな熱を感じた。
「私も……」
ロックの手がバードの服に手を掛けた。
筍を剥く様に一枚ずつ脱がされるバードは、貪る様にロックの唇を求めた。
あらかた脱がされ裸に近いバードは、ロックのワイシャツに手を掛けた。
一つずつボタンを外していきながら、バードの唇をロックが蹂躙していた。
気が付けば二人とも裸になっていた。
思えば、バードの裸を見たのは初めてだとロックは思う。
何度も何度もギリギリの死線を潜り、どんな状況よりも人間の本性が現れる場面を越えてきた。安心して背中を預けられる二人が、静かに向き合っている。
「……もう一枚脱げれば良いのにね」
バードの一言にロックは言葉を言いよどんだ。
もう一枚と簡単に言うが、その一枚は機械その物だ。
バードの背中を抱いてベッドへ誘ったロック。
柔らかな寝床の上でバードを抱き締めた。
これ以上の事が出来ない事実と屈辱を、死ぬほど噛み締めた。
だが、バードは笑っていた。満足そうに笑っていた。
そして、バードは何かを取り出した。
「あのね……」
どこへ隠していたのかと驚くより他ないロック。
バードは何処からか、小さな機械を取り出していた。
――あぁ…… Yackのホルスターだ
サイボーグの腰に隠されたスペースは、バードがいつも拳銃を隠している所だった。ただ、その短いケーブルが二つ挿された機械は、ロックにとって拳銃と同じ意味を持っていた。
――なるほど……
ロックだってそれなりな人生経験を積み重ねた男だ。
その機械が何をするモノであるかは説明されずとも分かる。
――ロックもやるか?
そう軽口を叩かれてライアンが見せてくれたのも知っている。
男の性として、要望のはけ口が必要になるのは、どうしても仕方が無い事だ。
薄掛けを被った二人の視線が交差する。
バードの手がロックにケーブルのジャックを渡した。
他人の頸椎バスへ勝手に触るのは、サイボーグにとってマナー違反だ。
だが、バードは万全万感の信頼でロックを見つめていた。
「……挿れて ……お願い」
バードの首筋にゾクリとした感触が走った。
静電気が背骨を駆け抜け、表現出来ない感触が全身に走った。
「もう一本あるよ……」
ケーブルを持ったバードの手をロックの目の前に現れた。
その手を掴んだロックは、そのまま自分の頸椎バスへと突き刺させた。
ロックの視界にオンケーブルのピクトサインが浮かぶ。
「はい」
バードの見せた機械の本体には、ほんのりと赤い光りを灯すメインスイッチがあった。ロックにそのスイッチを押し込ませたバード。その瞬間、ロックとバードの視界には文字列が走り始める。
――状況認識まで3秒お待ちください……
その3秒を3時間にも感じたロックとバード。だが、それは言葉に出来ない満足感そのものだった。ふたりは全てが繋がったと思ったのだ。
そして、クロックアップしているのだと思ったその時間圧縮は、実際には人間の側の感覚が研ぎ澄まされているだけなのを知った。
――お二人とも当ホテルへようこそ
静かな声で再生されるウエルカムコメントにバードがニコリと笑った。
だが、その声が終わる頃には、ロックもバードも驚きを隠せなかった。
「……ドキドキする!」
「俺もだ」
――どうぞごゆっくりお寛ぎください
電子的な声がその表情を変えた。ただ、ロックを見つめるバードはそんな事に気が付く余裕など無く、全身に感じる静電気のような感触に身悶えていた。
「バード」
ニコリと笑ったバードはロックを見ていた。
「……恵」
バードの顔から笑みが消えた。
今にも泣き出しそうな、大笑いしそうな、感情を制御できない顔だった。
ただ、その唇をロックが再び奪った時、バードは、いや、恵は確かに、ほのかな熱を、体温を感じた。
「徹雄さん」
ロックではなく徹雄が笑った。
こんな顔をした事が無いと自分でもおかしいほどだった。
ただ、徹雄はこの日初めて自分の名前を好きになった。
本気で惚れた女が呼ぶ自分の名前を……だ。
「……好き」
ガバリと恵に覆いかぶさった徹雄は、もう一度唇を重ねた後で、本能に身を任せた。その全てをされるがままに受けた恵もまた、本能のままに振舞った。奇跡のような夜は、誰にも覗かれない環境の中で静かに更けて行った。
御互いの愛を確かめ合う崇高な時間が、実時間ではほんの一瞬に過ぎないシミュレーターモードの中だったのだが……