VKテスト(前編)
――――金星周回軌道 高度700キロ 強襲降下揚陸艦ハンフリー艦内
暫定金星標準時間 6月7日 1000
シリウスが放った幻の勝利宣言から一週間。
外太陽系へ津波のように押し寄せた国連軍の宇宙軍艦艇は各攻略拠点を全て徹底的に破壊し、金星周回軌道へ結集し始めていた。外太陽系の各拠点は地球とシリウスの間にあって中立的立場を取っていたが、シリウスの影響を受けなくなった時点で地球側へと帰属を宣言。外太陽系に残っていたシリウス軍はごく僅かで、その大半が到達する保証の無いシリウスへの帰還航海に出るか、もしくは地球側との最終決戦に及び、そして、宇宙への虚無へと溶けていった。
それと時を同じくして、外太陽系から金星へと押し寄せていたおよそ40万に及ぶシリウス軍は金星の地上攻防戦で大きく兵力を消耗し、残存兵力が20万少々となっていて、もはや脱出の見込み無く、また、補給も増援もあり得ない絶望的状況下の中、国連軍を待ち構え、一人でも多く道連れにしてやろうと槍衾の陣を張っているのだった。誰もが無駄な抵抗だと思うのだが、一度は覚悟した信念を途中で曲げる事など出来はしない相談なのだった。
「ホントにやんのかね?」
「やるだろうなぁ なんせ確実に勝てる戦だからな」
ハンフリーの艦内にあるシェルハンガーではジョンソンとドリーの二人がアラート任務で待機していた。外太陽系へ進出した国連軍艦艇が金星軌道へと結集した結果、主力戦列艦35隻を筆頭に強力な対地攻撃兵器を持つ砲艦だけでも100隻以上がグルグルと金星を周回しており、それだけで無く、シリウスまで100日で飛べる超光速巡洋艦や大気圏外空母などの艦艇を含め、総勢400隻の大艦隊を形成しているのだった。そしてその中にはハンフリーも加わっているのだが、宇宙軍航空隊の手に余るシリウス側シェルの登場に備え、ふたりはジッと待機しているのだった。
「しかし、これだけいると食糧とか消耗品補給も洒落になってねぇな」
「まぁ、食糧生産船も来てるし、問題ねぇだろ」
ほんの一週間ほど前。不運にもスペースデブリの直撃を受けてしまった強襲降下揚陸艦ハンフリーは、座乗していたフレネル上級大将の事務室を大破させていた。不運には不運が重なるもので、たまたま室内で開催されていた作戦会議へと出席していた国連軍の参謀が20名程度犠牲になったらしい。
作戦中であるという事で氏名などの公表は無かったのだが、サイボーグ故に難を逃れた上級大将と同席していた少将は、不幸な事故を逃れた強運の持ち主として兵らから歓迎されていた。何時死んでもおかしくない戦場と言う環境にいる兵士にしてみれば、強運の持ち主と一緒にいるという事は、変えがたい自信となるのだった。
「退屈だなぁ」
「文句言うなって」
「だな」
第三作戦グループに配されたハンフリーは、ネルソン級戦闘指揮艦の三番艦トウゴウヘイハチロウ麾下へと入り、地上降下チームの一角を占めていた。地球サイドからは降伏勧告の類がいっさい出されず、ただただ静かに金星を周回しているのだった。
「どーすんだろうな」
「さぁな。ボスは黙って待ってろしかいわねぇし」
「天王星からの艦隊は合流したよな」
「あぁ、昨日合流している」
端末を弄ったジョンソンは流れている文字を読んだ。
「過去最大級じゃなくて、ギネス級、または人類史上最大だ」
これだけ規模の大きな作戦は過去経験がなく、中国での作戦を終え様々な問題点を洗い出した三軍統合参謀本部は作戦の円滑な進行に腐心していた。全軍へと配られた遂行計画は画像情報や動画によるフローチャート表示をふんだんに使われていて、ネットワークトラフィックの大半を使い潰すペダ級の情報量になっていた。
「ところでバーディーの情報は……」
「そっちも変化無しだ」
「さすがに歯痒いな」
「まったくだな。ロックも辛いだろう」
口が悪くて無神経で、相手の苛つくことをサラッと言い切るブリテン人なジョンソンだが、その実は非常に思慮深く、そして、注意深い部分がある。
諧謔味溢れる言い回しや皮肉と風刺の効いた物言いは、何よりも頭の回転と物事の見方の深さに左右されると言って良い。その意味でジョンソンは絵に描いたようなブリテン紳士であった。もっとも、周囲の理解にも大いに助けられているのだが。
「お、動きがありそうだ」
「なんか見つけたのか?」
「広域戦闘情報見てみろって」
ジョンソンの言葉に促されモニターを確認したドリー。そこにか各戦列艦の配置表が表示されていて、総力艦砲射撃の準備が着々と進んでいる事を示していた。それだけで無く、全ODSTと海兵隊に対し敵前降下上陸の準備指示が出た。A・B両チーム共に出撃待機が発令され、テッド隊長を筆頭にガンルームで待機していた面々がシェルへと乗り込みはじめている。
「こりゃ大戦だな」
「全くだ」
「要するにシリウス侵攻計画の予行演習だろうな」
「そうだな。参謀本部はもう勝った気で居やがる」
鈍い笑い声を漏らしたドリーとジョンソン。同じタイミングで眩い光が金星へと降り注いだ。全軍が同じ行動を取っていると思ったのだが、実際には統制の取れたローテーション砲撃だ。
金星を周回する軌道から地上最後の基地となっていたアフロディーテ高原の基地を避け、非常にゆっくりとした金星の自転の間もなく日の出となるエリアを集中的に狙った艦砲射撃だ。シリウス軍の張った遮光幕を破壊するべく行われる砲撃により、遮光幕は散々に破壊され続けている。そのおこぼれが地上へと降り注いでいて、金星の地上各所ではドライアイスの昇華が始まっていた。
「こりゃすげぇや!」
「えぐいなぁ…… この攻撃は陰湿だぜ!」
ドリーが弾んだ声をあげ、ジョンソンはそのやり方に感嘆した。凄まじい勢いで遮光幕が破壊されている関係で強烈な太陽光線が金星の地上へと降り注ぎ始めた。ドライアイスの雪原が眩く光るのだが、日の出の境目ギリギリを狙った砲撃により地上に残っていたドライアイスは続々と昇華していく。そして、かつて見せていた金星の大地を再び露わになり始めていた。
「前は気を使って遮光幕を壊したからな」
「今回は遠慮しねぇって意思表示だろうな」
「しかしまぁ…… 遠回しだがジワジワと精神に来るぜ、この手は」
降り注ぐ砲弾は金星の昼夜の境目付近を焼き払い、大地を直接照らす太陽の熱がドライアイスの海を昇華させ始める。すると、当然のように激しい気流が金星の地上を吹き荒れ始めた。かつて遮光幕建設前の金星地表は摂氏500度近くへ達し、最大で90気圧にもなっていた極限環境だったのだ。
つまり、国連軍艦隊の攻撃は、こうやってジワジワとアフロディーテ基地をなぶり殺しにする方針だ。そして、その事実をシリウス側にも理解させるのが目的なのだろう。今すぐならまだ間に合うが、1週間もしないうちに金星の地上は外部に脱出する事すら難しい状況になる事が予想できた。茹で蛙状態となり、また飛べるウチに脱出しろ。そんな所だろう。だが……
「ここからどうすると思う?」
「投降してきた連中の眼前に強襲降下だな」
「見せしめに皆殺しだろうな」
「得にレプリをな。生かして帰すと後が面倒だ」
クククと篭った笑いを漏らしたふたりだが、その笑いも自然解消的に収まってしまう。その脳裏に横切ったのは言うまでも無い。レプリ狩りをするのに一番必要なスタッフがここに居ないのだから。
「なぁジョン……」
「あぁ。わかってるよ」
「バーディーはまだ生きてると思うか?」
ドリーの声には僅かでは無い苛立ちが込められていた。少なくとも地上には100人近いODSTや海兵隊と共にバードが残っている。その状態で参謀本部は砲撃を開始したのだ。
作戦の経過として救出するのは言うまでも無い事だろう。だが、それは難しい作業で失敗すれば捕虜の命は無い。つまり、事実上参謀本部は地上の兵士を見捨てたと言って良い……
「さぁな。そもそも俺たちは生きてるかどうかすら怪しいもんだぜ」
「そりゃそうだが、少なくとも脳が自立的に動いているなら」
「あぁ。生きていると言っても差し支えないとは思うが」
小さく溜息をこぼしたジョンソンはモニターに映る戦域情報を調整しつつ、金星の地上にある最後のシリウス拠点を観察していた。アフロディーテ高原にある地下基地とその周辺は溢れかえるほどのシリウス軍で埋め尽くされている。
「なんでバードはあんなに目の敵にされるんだろうな」
「どうせマスコミどもの差し金だろうさ」
「マスコミ??」
「そうさ。国連軍の参謀本部。目先の勝利が欲しいが為にサイボーグの美人女性士官を見殺しにってネタが欲しいんだろうな」
「……あいつらならやりかねないな」
「あぁ。ジャーナリズムは政権監視と批判が仕事と言うが、現状は単に感情論でギャーギャー喚いてるだけだ」
吐き捨てるように漏らしたジョンソンの声が無線の中に溶けていく。域内無線情報は全てを情報局が監視している。つまり、盗み聞きしているのは周知の事実なのだ。表立って参謀本部を批判してしまえばテッド隊長や直接の上司であるエディ少将にも迷惑が掛かる。将来の高級将校候補はそういう部分へも配慮しなければならない。
「いずれにせよ」
「あぁ。いるんだか居ないんだかわからねぇけどな」
「神に祈るしかないんだな」
ドリーの言葉は祈りの声となって宇宙へ溶けていった。
――生きていてくれよ バード
そんな願いはチームだけでなく501大隊全体の祈りだった。
「全員準備良いか?」
唐突にチーム無線の中へテッド隊長の声が流れた。バード以外全員の返事を確かめ、テッド隊長はメインエンジンの安全装置を切った。
「今回のミッションは地上突入するODSTと海兵隊の支援だ。だが、エディに許可はもらっている。俺たちは俺たちのミッションを同時進行で行う。中身は言わなくても分かるだろう」
遠回しな物言いに忍び笑いがアチコチから漏れ出ていた。
「面倒は多いがお偉方もしっかり見ている。全員抜かるなよ。得にロック! お前だ! 今回しくじったら俺が太陽に突き落としてやる」
珍しい隊長のジョークに無線の中が明るい笑い声で埋め尽くされた。
「よし、気合い入れて行くぞ!」
Bチームのシェルが一斉に動き始めた。激しい対地砲撃が続く中、国連宇宙軍航空隊の全域戦闘機に混じり、AB両チームのシェルがカタパルトから続々と撃ち出されていくのだった。
同じ頃
――――金星 アフロディーテ高地付近
朦朧とする意識をどうする事も出来ず、バードはボンヤリと上下左右の鏡を見ていた。論理だった思考をすっかり失い、脳内にあるのは抽象的なイメージだけ。そんな状態のバードは鏡全てに映る自分に向かい、同じ問いを延々と繰り返していた。何百万回と繰り返したその問いに対し、出てくる結論はたった一つだ。
――あなたは誰?
――私はバード
――私は恵
――私は小鳥遊恵
――私は…… オリジナル……
鏡を見てニヤリと笑うバード。
だが、それ以上の思考が進む事は無い。脳を動かすブドウ糖それ自体が欠乏しているのだ。身体の方は恵の接続した電源ケーブルにより問題なく動く事が出来る。しかし、生体部品である脳はブドウ糖と酸素を必要とし続けている。バードの視界に写るのは、サブコンが発するブドウ糖欠乏警告の赤い文字と、非常用固形ブドウ糖のストックが切れる警告だった。
――そうね。これで死ぬなら問題ない……
――でも、機体どうしよう……
もはや自分の身体が機械である事に抵抗など無く、あの監獄のような病院の中で、思うように動かない身体を疎ましくも思いながら、『早く死にたい』と願っていた頃を思い出していた。
用が無いなら眠っていれば良い。そうすれば不要なブドウ糖の消費を抑えられるし、面倒な事を考えて気に病む事も無い。私はオリジナルなんだから……と、そんな意識だけで自分を支えていた。連日の尋問で脳を働かせれば、結局はブドウ糖を消費する事になる。脳のハンガーノックにより意識レベルを低下させ、正常な判断を失わせた上で何かをさせるのだろう。
――電源切れでならともかく、栄養失調で死ぬのは恥かしいわ……
『うーん……』と弱気な声を漏らしていたバード。そんな時、唐突に部屋のドアが開いた。今日も時間になったかとウンザリ気味にドアの方を見てみれば、そこには小鳥遊恵と共に、あの女性少佐の姿があった。
「自分が誰だか解った?」
「……………………」
バードの前に姿を現した恵は、両膝を畳んで勝ち誇った様に見ている。この10日間、一日三回ずつ同じ問いをする為に、恵はバードの前に現れていた。最初は混乱していたバードもやがて平静を取り戻したのだが、その平静もそろそろ限界だった。
「あら、バッテリー切れかしら?」
バードのバッテリーケーブルを確かめた恵は僅かに首を傾げている。問題なく接続されたケーブルを不思議そうに見た恵。バードは無表情になって床に転がっていた。
「死んだふりでもしてるの? レプリの脳がそんなに早くくたばる訳無いし」
バードの頬をペチペチと叩いて自立反応を見ている恵。だが、その反応も芳しいモノでは無い。
「捕虜を殺したの?」
「まさか! ちゃんと電源は補給してますし、レプリの脳だから30日は問題ない筈です。ただ、精神的に不安定な部分を攻める為に『現状では死にかけてますね』
冷たく言い放った女性少佐は強い力でバードを抱え起こすと、口を開けて喉の奥へゼリー状になったブドウ糖ペーストをチューブ一本分遠慮無く押し込んだ。生理反応的に飲み込む事の無いサイボーグでも、喉の奥への異物挿入は障害物除去と言う自動反応を起こし飲み込んでしまう。
生身の身体であれば重症のハンガーノックを起こした場合、経口補給で栄養を取っても身体が吸収出来ない状態となる故に、点滴などで直接補給する事になるのだが、サイボーグの場合は身体は電気で動くのだから問題は無い筈だ。
「経口補給型の生体機能維持システムが脳殻へ栄養を送るまで30分掛かります」
床の上にそっとバードを寝かしつけた少佐はきつい眼差しで恵を睨み付けた。
「捕虜は遊び道具じゃ無くてよ?」
「……勿論です。ですが『あなたの言い訳を聞く時間ではありません』
ピシャッと話しを切った女性少佐はバードから見える位置へ小さなモニターを置いた。そこにはシリウス軍の勝利宣言放送が映っていた。朦朧とした意識の中、その放送をジッと眺めているバードは纏まらない思考の中でボンヤリと考えていた。
『見よ! 地球軍は続々と金星を撤退していく!』
シリウス軍の猛攻に晒された金星地上投入部隊は次々と金星の地上を離れつつあった。地上に展開していたODSTと一般海兵隊は、AチームとBチームに分散支援され降下艇に乗り込んでいる。そのシーンには自分自身が映っていて、何ともこそばゆい気分になっている。だが……
『いま現在金星を周回する地球の船は無い! 我々は勝ったのだ! 不撓不屈の信念が岩をも割ったのだ! 我々は勝利するのだ! 我々は……』
画面に映るシーンは、大きく回頭し金星周回軌道を離れて行くハンフリーの姿だった。そのシーンを見ていたバードは、言葉に出来ない安堵を覚えていた。
――それで良い…… これで良いのよ……
自分のために余計な戦力を割き、無駄に人的犠牲を出して欲しくない。それに、こうやって振舞ってくれれば自分は安心して自爆できる。この機体が機密の塊である事などもはや関係ない。金星の地上で死んだ仲間たちの仇を取る為に、一人でも多く道ずれにして吹飛ぶのが良い。
まるで新生児微笑の様に緩く笑むバードは、内心でホッとしてた。自分でも何故ここでホッとしたのかを理解する事が出来ない。だが、ゆっくりと脳の思考に掛かった霞が晴れていくような、そんな気分になっている。
バードの脳殻へ栄養が回るのを待っていた女性少佐は、1時間近く両腕を組んだまま辛抱強くジッとバードの自立反応が明瞭になるのを待っていた。
「そろそろ良いかしら?」
「……何故私を助けたのですか? 少佐殿」
「そうね。大した理由じゃ無いけど、まぁ要するに」
ニヤリと笑った少佐はチラリと恵を見た。
その視線の先に居る恵は居たたまれない様子で肩を竦めていた。
「自分の部下が非道を働けば、夢見がちょっと悪いって所かしらね」
ウフフと笑って質問を煙に巻いた女性少佐は、ジッとバードの反応を確かめて居た。ブドウ糖補給により明瞭さを取り戻しつつあるバードだが、それでもまだまだ反応は重く鈍い。
一番怖れたのは栄養失調による脳細胞の損傷だ。脳の細胞は失われた場合には再生しないと言われている。つまり、栄養失調の本当の恐ろしさは、脳機能不全を引き起こす事だからだ。
「私からどんな情報を引きしたいのでしょうか?」
「……はっきり言ってしまえば、引き出したい情報なんて無いわよ」
「でも……」
「あなたの名前と所属から全体像は掴んでいます。シリウスの諜報網はあなたが思っている以上に優秀なのよ?」
どこか勝ち誇っている女性少佐の言葉と同時進行で、金星周回軌道上から国連軍艦艇の反応が消えていた。黄色く光る点が一つ一つ消えていき、ふと気が付けば金星を周回する艦艇はシリウス軍ばかりになっていた。
僅かに残る国連軍艦艇は重装甲で強力な火器を持つ戦列艦ばかり。シリウス側とて迂闊に手出しすれば手痛い反撃は免れないハリネズミのような艦船ばかりだ。
「我々の持つ目と手は長く深い。あなたの。バード少尉の上司はテッド少佐。501大隊のBチームを率いる元連邦軍エースパイロット。軍籍番号から出身地がニューホライズンで有る事まで全部お見通しよ」
淡々と涼やかな声で語っていた女性だが、バードの目が驚きの余り点になっていた。そして、パクパクと動いていた口が音を取り戻す。
「テッ…… テッド少佐がシリウス出身って…… どういう事ですか!」
「あら、我が軍は部下も知らない上司の秘密を掴んでいたのね」
「ウソです…… そんなの……」
「あらあら。これ位で取り乱しちゃ士官失格よ?」
勝ち誇った様に笑う姿は、それでもどこか気品を感じさせる物だとバードは感じた。
「きっと後ろめたい部分があるんでしょうね。内緒にしておくんだから」
楽しそうにウフフと笑った女性少佐は恵に何事かの指示を出した。
ややあって恵が何かを持ってきて、女性少佐にそれを渡した。
「さて、もう一本飲んでおきなさい。サイボーグだってブドウ糖が無いと脳が拙いでしょう? レプリカントと違って生身の人間はブドウ糖補給無しだと平均して10日で死んでしまいますからね」
スタンスティックで身動きの取れないバードの口へブドウ糖ペーストを流し込んだ女性少佐は、椅子を用意してそこへ腰掛けた。
「あなたと違って私はレプリの身体だから、立ちっぱなしは疲れるのよ。その意味じゃサイボーグって羨ましいわ」
「……そうなんですか?」
「隣の芝生は綺麗に見えるって言うらしいわね。地球じゃ……
それに続き何事かを言おうとした時だった。部屋の中に男性の下士官が入ってきて、少佐に幾枚かのレポートを渡し退室していった。そのレポートに目を通した少佐は、途端に退屈そうな顔になっていた。
「あなた…… 捨てられたわね」
「え?」
「最後の国連軍艦艇が金星を離れたわ。これから戦列艦が砲撃するらしい」
どこか哀れみの浮かぶ表情になった少佐はジッとバードを見た。
「地上に友軍が残ってるのに……ねぇ」
溜息混じりに零した声は妙に艶っぽいものだった。それは大人の女性だけが身につけるものだ。僅かな立ち振る舞いや些細な仕草一つにも優雅さと気品を兼ね備える大人の雰囲気。だが、ふとバードは思った。
――この女性の雰囲気はテッド隊長にそっくり……
バードの脳裏に浮かんだのは戦闘装備を調えたテッド少佐では無く、普段着のラフな恰好でアームストロング宇宙港の市街地をぶらつく姿だった。そしてその隣には、この女性少佐がちょっとオシャレさんをして、楽しそうに笑いながらショッピングしている姿。
実にお似合いな二人だと思ったのだが、『相変わらず地球軍って薄情なのね』と愚痴めいた言葉を少佐が言い終わるか否かというタイミングで、アフロディーテ基地全体を激しい震動が襲った。間違い無く艦砲射撃だとバードも直感した。
だが、そこには全く怒りや悲しみと言った物が無い。自分に遠慮する事無く任務を遂行する事を選んだ参謀本部への安心と信頼が、心の中で大きな光を放っているのだった。
「軍は目的を果たす事だけが最優先です。多少の犠牲はやむを得ません」
「あらあら、ずいぶん立派だ事」
少佐は楽しそうにニコリと笑って椅子から立ち上がった。
その姿を見上げているバードを柔らかな眼差しで見下ろしている。
「テッド少佐も良い人間を育てているわね。羨ましいわ」
「……お世辞ですか?」
「半分以上は本音なのよ。ニンゲンを育てるって楽しいんだから」
ニコリと笑って部屋を出て行く少佐。その後ろ姿を見送ったバードの耳にドアの閉まる音が聞こえた時、まるで借りてきた猫のようだった恵の空気が豹変した。
「機械仕掛けのバードちゃんは自分を人間だと思っていますが……」
寝転がっていたバードの脇腹を恵が蹴り上げた。だが、サイボーグの強靱な身体にはダメージらしいダメージを与える事が出来ず、むしろ機械の塊を蹴ったような鈍い蹴り応えだけが残っていた。
「上手くいかなくて八つ当たりするのは良くないんじゃ無い?」
余裕風を吹かせたバードは薄笑いを浮かべている。その姿が気に入らなかったのか、恵はバードの顔目掛けブーツで踏みつけた。ただ寝かされていただけのバードは蹴られるがままに任せるしか無いが、この程度で壊れる頭蓋骨では無いのも知っている。
「これだけ踏んでも壊れないんだから、機械って便利ね」
バードの目が恵の手を捉えた。怒りを噛み殺すかのようにギュッと握り締められている。だが、その拳が僅かに震えているのを見て、それが何であるかを理解する前に、沢山の事象が一斉にフォルムを持ち始めた。
「余裕ぶって振舞うなら無様に震えるその拳を隠しなさいよ。みっともない」
この10日、バードは恵との対決に備え論理思考的な攻勢防壁を作り上げていたのだ。SERE訓練の中で繰り返された『精神的に弱い部分を突かれる』事に対する自己防衛とも言える物。
「バードちゃんの頭の中はAIでしょ?」
「あら、負けず嫌いはそっくりだわ。鏡に向かって話しかけるより余程有益ね」
そしてそれは、レプリの中に入ったらしい『もう一人の自分』との戦いに備えていたバードの、いわば思慮の積層体だった。
「強がるのもAIの仕組みなの?」
「論理的思考の無限ループトラップって生物にも有効って事かしらね」
何処までも冷たい笑みを浮かべたバードは寝転がったまま恵を見ていた。辺り一面がガラスの鏡である部屋だ。ふと、自分が立ってて恵が寝転がっている錯覚ですらも覚える。
「私がもう一人の貴女なら、貴女はもう一人の私でもある。そう言う事でしょ?」
「あなたはバード。ただの機械。私は小鳥遊恵。人間よ?」
ニンゲンよ……
バードの耳に少佐の声がリフレインし、バードはあの女性少佐が言いたかった事をハッと悟る。だが、先ずはいま現状をなんとかするのが先決の筈。バードは改めて気を入れ直し頭を働かせる事にした。補給されたブドウ糖により、脳内は澄み渡っている。
「あなたは私の記憶をコピーしただけの、単なる物じゃない」
「それは人格としての問題? もし私も貴女も同じ記憶を持っているなら――
バードは楽しそうにニヤリと笑った
――コピーとオリジナルの違いは何?」
バードの鋭い言葉に恵は僅かながら表情を顰めた。
言い逃れ出来ない厳しい追及だ。
「……連綿と受け継ぐ記憶こそがオリジナルの証よ」
「もしかしたら本物の小鳥遊恵はすでに死んでいて、レプリの脳に写し取られたコピーの記憶を持ったレプリカントとサイボーグが言い争っている。そんな滑稽なシーンだったらドラマのネタとしては最高よね」
ウフフと笑い続けるバードの笑みは、段々と凶悪な色を帯び始めた。
動揺を見せ始めた恵はバードの目を見る事が出来なくなっていて、ソワソワと落ち着き無く辺りを見回している。だが、辺り一面の鏡に映るのは、二人のバードで恵だった。
「その記憶が本物である確証は何処にあるの? 全く同じモノを持っているとするなら、どちらかが本物を主張するのは哲学的パラドクスじゃなくて?」
「記憶が同じというならそうでしょうけど、私は貴女の脳殻の中にレプリの脳が収容されていくところを見ているのよ?
あくまで余裕を見せている恵だが、バードはその僅かな動きを見抜いていた。心理学における博士号持ちなビルに教えられていた戦場心理学は、こんな場合における心構えと『心のあり方』について、絶対的にぶれない芯をバードに植え付けていたのだった。
――自分を疑うな!
幾つもの苛酷な戦場を渡り歩いてきた者が自然に身につける者。それは、最後の最後で自分が頼るべきは自分しか居ないと言う絶対普遍の定理であり真理だ。自分以外の誰かに依存を始めた時、それは自分が敗北し壊れていく第一歩でしか無い。
「じゃぁ言い方を変えるわ。私がコピーされた記憶であると言うなら、同じ記憶を持っている貴女がコピーされたモノで無い保証はどこにあるの?」
悪魔の証明とも言えるバードの追求は、恵の心の弱いに突き刺さったらしい。目に見えて狼狽している姿は、あの酒場で自己矛盾に苦しんでいた自分自身のようですらあった。
「非対称な鏡写しでしかないなら、オリジナルを争う争点はなに?」
「…………………………」
「オリジナルはあの病院の中でとっくに死んでいて、建造途中だったレプリの身体に入っていた脳へ記憶転写しただけの貴女と私かもしれないのよ?」
言葉に詰まった恵は大きく目を見開いてバードを見ていた。
「私は脳だけを利用されサイボーグになって海兵隊へ。貴女は建造完了間近だった為にそのままカプセルアウトし、不都合な記憶を整理されてシリウス側の施設へ送り込まれた。火星でも中国でもシリウスの息の掛かったレプリカント建造施設を沢山見てきたわ。そこにいたカプセルアウト直後のレプリカントは、自分を人間だって信じて疑わなかったもの」
鏡に囲まれた部屋はそれほど暗くない環境だが、恵の瞳孔は完全に開ききり、視線は落ち着き無く宙をさまよっていた。その姿を見ていたバードはレプリカントチェイサーであるブレードランナーの教育課程を思い出していた。
「完璧に作られた記憶を脳に書き込めるとするなら、貴女が見たそのシーンは」
バードの目が上目遣いに恵を捉えた。
カタカタと震えている恵を……だ。
「レプリの脳をサイボーグの身体に納められるシーンそのものが偽物で、架空の記憶を植え付けられたレプリカントが自分自身を、つまり、貴女自身をオリジナルであると疑わないように作られただけかも知れないじゃ無い。つまり……」
微塵も疑わぬ自信に溢れた物言いを続けるバード。その姿勢に僅かではない動揺を見せている恵。いつの間にか立場は入れ替わり、バードは有利なポジションに移っていた。
「つまり、貴女自身が擬似的な仮想人格……」
ニヤリと笑ったバードの笑みは、傲岸な勝利者のそれだった。
「まぁ、貴女がオリジナルであるならそれでも構わないわ。いまの私は単なる機械なんだし、今さらそれを拒否しようとも思わない。それより、自分自身のコピーにエサ位は与えなさいよ。貴女がダミーだって疑わないこの脳が栄養失調で死に始める所だったわよ。何かしら使い道があるから生かしていたんでしょ?」
甚だ不本意と言いたげな恵は不機嫌そうにしていてバードを見ていない。だが、開ききった瞳孔は小さくなる気配を全く見せず、せわしなく宙をさまよう視線には焦点が無かった。
「それともなに? そこらの男の粗末で小汚いモノでも銜えた方が良かったかしら? どうせ機械なんだから性病や感染症の心配はないし、オーラルセックスで咽頭ガン一直線って事も無いしね」
ぺろっと舌を出したバードは勝ち誇ったように恵を見ていた。
「どれほど誤魔化したって、サイボーグの生体パーツはセックス産業の賜物なんだから、この舌だって口だっていい仕事するわよ? なんなら貴女が試してみる? コピーの私がオリジナルの貴女に熱烈ご奉仕して差し上げます。ただ、タンパク質とかも欲しいから、最後には本当に噛み付いて……食べるけどね」
肉食獣のように歯を見せて笑ったバード。
その笑みに恐怖を感じたらしい恵が尻餅を付いた。
「だらしないわね。貴女本当に私のオリジナルなの? お父さんに言われた事を思い出しなさいよ。振る舞いの軽い女はだらしなく見られるって叱られたでしょ? お母さんだって心配したじゃ無い。居間の中で正座して叱られたのが懐かしいわ」
全く計算無く言ったバードの言葉だが、それを聞いた恵は青ざめてカタカタと震えながら顔を左右に振り始めた。両手を自分の頬へ添え、眼球がこぼれ落ちるほどに目を大きく見開き、焦点の定まらない視線は宙をさまよっていた。
――あれ? あ…… そうか!
バードは何かに気が付いた。
「……お母さんがまた泣いたら困るじゃ無い。オリジナルなんだからそれ位は言わなくても解るでしょ? 心配そうにお母さんを抱きかかえてたお父さんを思い浮かべてみなさいよ!」
レプリカントに植え付けられた記憶が擬似的な物であるのは論を待たない。流れとして持つ記憶はあるが、場面場面での印象深いシーンという物までを網羅するのは技術的に不可能な話しだ。
レプリカントであるかどうかをチェックするフォークトカンプフテストは、こうやって精神的に負荷を掛け一時的な精神退行を起させる事により、レプリカントの持つ特有の生理反応を発生させる圧迫面接そのものだ。
──VK検査効いた! よし! 勝った!
そう確信したバード。
だが、その時唐突に部屋の扉が開く音がした。
条件反射の様にその方向を見たバードは言葉を失った。
「ウソ…… でしょ……」
ほんの数分前の恵と同じく、バードもまた零れ落ちそうな程に目を見開いた。
見覚えのある男が扉の入り口に立っていたのだった。