プロローグ
その少女がここへやって来たのは、もう三年も前の事だった。
地球のラグランジュポイントにある巨大病院コロニーの回転軸中心付近。
特定感染症など重篤な症状の病人を収容する高度医療センターの病室は、二十四時間灯りを消す事が無い。
いつ何時に容体の急変を起こすかわからぬ患者ばかりのセンターだ。
スタッフの側も警戒を厳にせざるを得ない。
ただそれでも。
夜間には患者の眠りを妨げないよう明かりを半分程度へ落とす。
薄明かりの中、壁はかえって白みを増し、冷たく凍えた印象を振りまく。
日和見感染を警戒した風も流れぬ完全隔離環境な病室は、センター本体から一部屋ずつ独立したブロックになっている。
それは、最悪の状態へと陥った場合にそのまま地球へ落下させ、完全焼却する仕組みだった。
完全火葬機能付きな部屋の中、少女は作り物の花をジッと眺めていた。
永久に枯れぬその花に、自分の運命を重ねるように。
――――ラクランジュポイントL1 スペースコロニー先進高度医療センター
西暦2298年10月15日 地球標準時間0600
「おはよう! 昨日は眠れた?」
部屋の照明が照度を上げると同時、部屋に明るい声でナースが入って来た。
苦しげな表情を浮かべながら少女は笑みを返した。とうに声は失われていた。
「身体の向きを変えようね。こっち見続けるのも飽きたでしょ」
ナースはまるでティッシュペーパーでも裏返す様にして少女の向きを変えた。
ほぼ完全な無重力環境下、彼女は重力の無い世界にふわふわと漂っていた。
原因や病理の不明な遺伝子疾患と闘う彼女は、全身が石になっていく奇病に冒されていた。
進 行 性 繊 維 珪 質 化 変 異 症 候 群
全身のあらゆるタンパク質構成体が細胞内での代謝異常を起こしていて、定常的に圧迫を受ける部位は細胞分裂時に珪素へと変異してしまうのだ。
珪素転換は癌のように進行する為、珪素化した部分は削らねばならず、やがて生命を維持する限界を超えて珪素化が進行した時、少女は生きたまま物言わぬ石像へと変異していくのだろう。
「昨日のテロは酷かったわね。また沢山亡くなったそうよ」
「……………………」
「これから沢山搬送されてくると思うけど、この部屋は静かだから心配ないわ」
治療法は一切見つかっていない。
珪素化を遅らせるには、石化部分を削り続けるしか無い。
骨も筋肉も全て石になりつつある少女は、全身骨格の40%程度がすでにカルシウムではなく珪素化してしまっていて、骨髄などの機能も失われている。珪素化しないのは脂肪と一部の僅かな神経細胞などだけであった。
少女は地球上の病院であらゆる治療を試みた。
だが、無情にも病状の改善や治療の進展は見られなかった。
僅かでも病気の進行を遅らせる為、彼女は一人で宇宙へとやって来た。
そして事実上、死を待つだけの命。
無重力な環境下では、珪素化の進行が驚くほど遅くなった。
そして、彼女が得た死へのロスタイムは三年。
その間、人類が持つ知識と知恵の続く限りの治療が試みられた。
彼女の心と身体が受ける痛みの一切を無視して。
だが、限界は唐突にやって来た。
体温を維持する機能ですらも失われた半年前。
彼女は自分が限界であると知った。
主治医は言った。
――最後の手段です
――脳移植をしましょう
脳移植。
対症療法ではなく、抜本的に新しい体へと乗り換える究極的な原因療法。
最先端の科学が生み出す魔法のような技術により、身体を新たに建造するのだ。
本人の遺伝子から作り上げられた新しい身体ならば、拒絶反応は発生しない。理論的には本人そのものが、もう一つ作られるのだから。
しかし、彼女の場合は遺伝子そのものが原因だ。
同じ体を作ったところで、遅かれ早かれ、同じ病に苦しむ事になる。
だが悪い事に、遺伝子構造自体を作り変えての治療は法的に認められていない。
過去、何度も起きた遺伝子改変事件による規制の強化の結果だった。
この時点で彼女に残された選択肢は二つ。
一つは、完全に機械で作られた身体。サイボーグになる事。
生身の体とは違い、耐久性や汎用性といった部分で人間離れした職業に就ける。
ただ、日頃のメンテナンスにはそれなりに費用が掛かる。
その為、サイボーグ人は企業や組織に所属し、面倒を見てもらう事が多い。
軍隊や警察など、危険な現場を任される公務員。
感染性細菌や有毒物を扱うバイオ企業。
リアクターなどを扱う核関連企業。
深海や大気の無い惑星など、限界領域へ挑む冒険企業など。
この手の業界ではサイボーグが引く手数多にされている。
日頃のメンテナンスや手厚い福利厚生など、人生を預けるには楽な企業が多い。
更にもう一つ。
人類の創世記からある産業にもサイボーグは便利な存在だ。
徹底的にデザインされた美しい身体を使っての性風俗産業もまた主戦場。
人工性器を取り外し殺菌消毒を行うと、性病など感染系の病気とは無縁だ。
その為か、莫大な借金の果てに夜の闇へ沈んで行く女性はあまりに多い。
まともな業界も、まともではない業界も、どっちにしても修羅の道。
「どうしたの?」
「………………」
そして、サイボーグではないもう一つの選択肢。
それは完全人造人間の身体への脳移植だ。
レプリカント
それは遺伝子操作とマインドコントロールにより自我を弱め、特定の目的のために使役される奴隷生物の総称だ。
軍隊やテラフォーミングなど、死と隣り合わせの現場や産業などへ、消耗品扱いで投入されてきた存在だった。そして、その寿命は最長でも僅か8年。
彼らは普通の人間よりも遥かに丈夫で強靭な肉体を持ち、様々な感染性細菌などに対する抗体も初めから備えている、人類の生み出した、人類の上位互換生物。
だが、現在では地球文明圏の場合では殆んど見る事が無い。
実は、レプリカントはその存在に厳しい制約を受けるからだ。
「早く完成すると良いね。新しいレプリのからだ」
かつて行われたシリウス系殖民惑星の開発で、レプリは大量に投入されていた。
百年を掛けて進められた惑星改造の末期、シリウスの人々ははたと気がついた。
まるで自分達が奴隷のようにこき使われ、地球から来た管理者は貴族の様だと。
遠い昔の地球がそうで有ったように、シリウスにも独立運動の嵐が吹き荒れた。
「あと三ヵ月くらいだそうよ。頑張らなくちゃね。ここまで頑張ったんだから」
その中で、人と同じ外見を持ち、人より遥かに強靭で、そして、死を恐れない。
面倒が三つ揃った厄介な存在が、シリウス各地で激しいテロ活動を行った。
やがてシリウス自治組織は、様々な手段で地球へレプリを送り込み始めた。
理屈や理念などではなく、シリウスの存在が気に入らないと印象付ける作戦。
わずか二~三年のうちに、地球文明圏での犠牲者は数百万を数えた。
普通の方法では対処しきれない存在。警察の武力では対抗しきれない敵。
地球人類に恐怖と絶望を振りまく存在となったレプリカントたち。
しかし、人類はそれを克服するべく、あらゆる努力を惜しまなかった。
国連の内部に、レプリを探し出し処分する機関が組織された。
『ブレードランナー』
彼らはレプリを見つけ次第に射殺する権限を持っていた。
シリウス星系組織の『物』と判断すれば、即破壊する為だ。
地球文明圏にいたレプリカントは、問答無用で片っ端から処分された。
一切の矛盾無く、レプリカントは存在を許されなかったのだ。
「今日は手が冷たいね。寒いのかな? この辺りもだいぶ削っちゃたからね」
一度はシリウス派レプリが一掃され、様々な事情で存在する事になったレプリボディユーザーには厳しい条件と義務が課せられた。
無闇に人前に出ては成らない。
人前に出るときは、一目でレプリと判る服装をしなければならない。
専任の身元管理官を用意し、警察機構と管理者の指示には絶対服従する事。
どれ程の危険が迫っても、加えられる危害に抵抗してはならない。
そもそもが、少々の怪我や損傷では死ぬ筈も無い人造人間だ。
どれ程過酷であっても、自らが『安全なレプリ』である事を示す必要がある。
「お顔まで冷え切っちゃってるね。ちょっと温かくしようね」
弁護士の立会いの元。
様々な企業が彼女の元へやって来てスカウトを受けていた。
曰く『サイボーグの身体を手に入れて宇宙開発しよう!』だとか。
或いは『レプリになっても奴隷のような人生は嫌でしょ?』とか。
『病に苦しむ人の為に、ウィルス研究を一緒にやろう!』とか。
そして、一夜の夢を売る風俗産業からも熱心なオファーが有った。
「あれ? どうしたの?聞こえてる?」
彼女は気付いていた。
自分をスカウトするのではなく、機械の身体をスカウトしていると言う事に。
「こちら2018号室! 患者の様態が急変しています!」
結局彼女は全てのスカウトを断って、レプリの身体を選択した。
地球で生活する限り、サイボーグよりレプリの方がまともだと思ったから。
彼女の兄が国家公務員となったので、専任管理官の資格を得たのも大きい。
レプリの身体は基本的に生身の健康な人間と殆んど変わらない。
人間女性の脳を移植すれば、生理は来るし妊娠も出来る。
デザイン遺伝子ではあるが、自分の遺伝子を残す事も或いは可能である。
「自立呼吸停止! 心停止! 瞳孔反応減衰!」
寿命を迎える前に新しい身体を用意すれば、新しい体で寿命を繋ぐ事も出来る。
この事から、レプリとなって子を残す女性は割りと多いといって良い。
刹那的ともいえる限らせた寿命は妖艶なほどに輝く。
恋人の男性がレプリ管理官となって共に生きていく。
或いは、悲劇的な最期を遂げるなんてストーリーは掃いて捨てるほどあった。
「緊急切開が必要です! 誰か来て! 急いで!」
石化した部分を削り、僅かに残っていた肉体を守ってきた少女。
だがこの日、彼女の命を削った努力は遂に限界へと到達した。
自立反応が全て停止し、彼女に死の影が暗く落ち始めた。
「しっかりして! 死んじゃだめ!」
ナースの金切り声が部屋に響く。
スタッフたちが続々と部屋へやってきた。
だが、もはや手遅れである事を彼らナースらは知っていた。
表面的な珪素化は削れば良いが、内臓はそうはいかない。
定常的に圧迫を受ける内臓類もまたジンワリと珪素化が進行していた。
彼女は生きながらに石像へと変わっていく最終段階だった。
沢山のスタッフに呼びかけられながら、彼女は緊急措置室へと運び込まれた。
最後の手段まで何とか間に合わせようと、懸命の努力をする為に。
それらの全てが無駄である事など、火を見るより明らかであると言うのに。
彼女の目はボンヤリと全てを見ていた。
これで楽になると、諦観の色を帯びて……
■ ■ ■ ■ ■
それからどれ位経ったのだろうか。
ふと。彼女は意識を取り戻した。
真っ白な部屋。
真っ白な天井。
真っ白な世界。
自分自身の身に何が起きたのかを彼女は理解出来なかった。
何処かまだボーっとする中で、重力のある所にいる事だけは理解した。
天国とはこんな殺風景な所なのかと寂しくなった。
酷い耳鳴りと目の奥の疼痛と倦怠感。
そして、思うように動かない身体。
なにより、現状の不安に押しつぶされそうになって泣き出しそうだった。
そんな時、耳鳴りの向こうで、どこか安っぽいドアの音が聞こえた。
あまり上等ではないドアが開いて、誰かが入って来たと言う事だけは分かった。
――誰だろう?
部屋へやって来たのは、真っ白のつなぎを来た若い男性だった。
見慣れていた高度治療センターのナースたちとは違うユニフォーム。
溢れんばかりの笑顔だったけど、全く見覚えの無い人だ。
「おはよう!」
話しかけられているのは彼女も分かっている。
だけど、自分の意思で言葉も喋れない状態になって長かったせいだろうか。
彼女は自然に言葉を話すと言う事も忘れていた。
――どうしよう……
葛藤と逡巡の中で彼女は新たな一歩を歩み出す。
それがどれ程苛酷であったとしても、その新たな人生に、幸あれ……