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【第6章】60フィート6インチの彼方へ

 五球粘ったものの、四回表の先頭打者・彰子の打球はボテボテのセカンドゴロとなった。懸命のヘッドスライディングもアウト。ユニフォームの前面は泥一色の彰子がベンチへ帰ってくるが、その雰囲気は淀んでいた。

 三回裏、一点返され4-1となったものの、ソフト部三番梶菜桜子はファーストゴロで抑え、最少失点で切り抜けた。未だ点差は三。悲観する展開ではない。

 しかし、茶々の状態がおかしいのは誰の目にも明らかだった。

 今彼女は一塁ベースコーチャーに出ていて、三塁側ベンチから最も離れた場所にいる。遠目から見るにはいつもの不敵な表情にしか見えない。

「……ねえ、さっきの部長さ、もしかして――」

「分からない」

 話しかけてきたノノに、蓬は眼鏡を拭きながら答える。

「確かにコントロールは乱してた。でも最後は制球戻ってたし、ちょっとタイミングか何かが狂っただけで、もう修正して立ち直った……んだと思いたいけど――」

 蓬はマウンドへ行った時に見た茶々の姿を思い出す。

 異常な量の脂汗を滴らせ、目も合わせずに蓬を追い返した茶々。

 尋常ではないのは明白だ。

「美鶴」

 眼鏡を掛け直し、少し離れて座る美鶴に声を掛けた。しかし彼女はグラウンドの方を見つめたまま反応が無い。

「ちょっと美鶴? どしたの?」

「……ん? ああ、すまない。なんでもないよ。どうしたのかな」

「この先、緊急登板することになるかもしれないから、覚悟だけはしておいて」

 そこそこ速いストレートを捕手が捕れる範囲へ収めるのがやっとという状態の美鶴だが、茶々がダメならば、他に選択肢はない。

「――分かった」

 美鶴は首肯し、視線をグラウンドに戻す。既に八番の中は見逃し三振に倒れていた。

『九番、ファースト、鵜飼さん』

 二アウト走者無しで、みまへ打席が回る。ネクストから「ふしゅる~……!」と唾液まみれの口から荒い息を漏らしてボックスへ向かう彼女を見て、ノノが慌ててネクストへ。

 同時にサードベースコーチャーを彰子と交代したエリスがベンチへ戻ってきた。

「Uh……この打席、ミマはダメそうデス」

「え、なんでですか?」

 蓬が尋ねると、エリスは苦笑した。

「今、打席に入る前から妄想で発情してマシタ。ああなると……」

 静佳が一球目を投げる。みまのバットでカットされた打球はやはり彼女の左の太ももを直撃。

「んバひぃいいいいいいいッ!」

 腰砕けになりその場にへたりこむ。腰をヒクヒク痙攣させ、バットを杖に立ち上がる。あひあひ言いながらなんとか構えるも、明らかに前打席よりもふらふらしている。

「……あの状態でバット振れるんですか?」

「振れるわけないじゃないデスカ。ミマは興奮しすぎてもダメなんデス」

 エリスの言う通り、二球目は見逃しで二ストライク。三球目には手を出したが、へろへろのスイングには掠りもせず、三振。三アウトでチェンジとなった。

「なんなんだろうあの人はホント……」

「ミマはもう、ああいう生態だと諦めるしかありマセン……さ、守備デスヨ」

 エリスはグラブを嵌めながら、蓬に微笑みかけた。

「ワタシ達で、チャチャを支えマショウ!」

 蓬は「はい」と笑顔で返すが、不安は拭えなかった。

『四回裏、ソフト部の攻撃は、四番、ピッチャー、野上さん』


■□   □■


 マウンド上の茶々は、まるでヤマアラシの棘のように鬼気迫る殺気を放っている。

(あれが単純な闘志の現れなら良いんだけど……)

「ピッチャー替えないの?」

「え……?」

 蓬は驚いて見上げた。打席に立った静佳が、前を見たまま話しかけてきたのだ。

「茶々ちゃん、多分もう限界だよ」

「……こっちにはこっちの戦略がありますから」

「そう……」

 静佳は構える。蓬の眉間に汗が一筋。

(惑わされるな。勝ちたいのはどっちも同じ。今のが本音とは限らない)

 蓬は舞神(シンカー)のサインを出し、茶々が頷く。

(こっちが慎重になって外角に逃げるよう仕向けてる可能性もある。なら――)

 蓬は内角低めにミットを構えた。

 そこを目掛け投げ込んだ茶々の第一球は、しかしずっと高く浮き――

「――ッ!」

 ボールは仰け反った静佳の頭上スレスレへ。蓬は咄嗟に腰を浮かせて腕を伸ばしたが、ミットを掠めたボールはバックネット際へ転々とした。

 ソフト部ベンチ、及びファンから野次が飛ぶ。しかし茶々は帽子を取るどころか、投げ終わった体勢からピクリとも動けず、茫然としたまま立ち尽くしていた。

「だから言ったじゃん」

 静佳は危険球を気にもしていない様子で、独り言のように呟いた。

「クッ……タイムお願いします」

 蓬は球審にそう告げ、マウンドへ向かう。続いて内野陣も集まってきた。

「……なんだ。何か用か」

 茶々は目を伏せて、力なく言った。蓬はボールを茶々のグラブに押し込んだ。

「どうせ『大丈夫だ』って言うんでしょう? ならその言葉に責任持ってください」

「……ああ、分かっている」

 茶々はふっと息を吐いた。

「打たせていくぞ。後ろは頼む」

 内野陣全員が「はい!」と答え、守備位置へ散っていった。蓬もホームへ戻る。

(そりゃピッチャー替えたいけど……『美鶴が突如覚醒して最後まで抑える』か、『部長が立ち直ってくれる』か、公算があるのは圧倒的に後者。まだ賭けに出る点差じゃない)

 試合再開。蓬のサインは穿月(ストレート)。ミットは外角。白球が茶々の手から放たれる。コースは概ねミットの通り。

(すっかり逃げ腰リード――こんな茶々ちゃん、見てられないよ)

 しかし、それこそが静佳の狙い球。

(だから、もう終わらせよう)

 思い切り左足を踏み込み、バットを振り抜いた。

 キインと鋭い音と共に、打球は夕映えを切り裂きレフト線を襲う。左翼手の中は左中間の大部分をセンターのノノに任せっきりでかなりライン際に寄っていたが、速いゴロを簡単に後逸。ボールはフェンスまで転がり、先に辿り着いたノノが拾って中継のエリスへ送球したときには、静佳はサードを陥れていた。

 さらに次の高牧菜花も四球で歩かせ、ノーアウト一・三塁の大ピンチ。

『六番、ライト、島田さん』

(制球はマシになってきたけど、置きにいってるだけで全然腕が振れてない。キレも無いし変化球も曲がらなくなってる。緩急でなんとか……)

 蓬は磨珠(カーブ)のサインと、落ち着いて低めを心掛けよと体で指示を出す。

 頷いた茶々の第一球は、打者の手前でワンバウンド。なんとか体でボールを止めた蓬は、サードランナーを目で制してから、大げさに頷いて返球。

「全部止めます! ワンバンしてもいいからしっかり振ってきましょう!」

 蓬の言葉に、茶々は不敵に口を歪めた。

(さて、ここでカーブ続けたらあからさますぎるかなー。でもここは続けちゃう)

 もう一度磨珠(カーブ)のサイン。茶々は頷き、振り被る。

(頼む、決まれ!)

 ボールは緩く変化しながら落ちてくる。ストライクの軌道からボールゾーンへと。

 島田佳奈美は打ちにいったが、タイミングが合わずバットは空を切り、白球は蓬のミットに吸い込まれるように収まった。

「――ッシ!」

 蓬の口から思わず声が漏れた。一ボール一ストライク。

(よーしカーブは大丈夫。問題は次か)

 第三球。サインは穿月(ストレート)

(内角はまだマズイか……)

 ミットを外角低めに構える。ゾーンの一角を掠めて外へ逃げるクロスファイア狙い。

 しかし茶々のボールはこれより内に入った。

(コースが甘い! それに球威も――)

 佳奈美のバットはこの甘い球をしっかり捉えた。

 茶々の右脇を抜けるセンター返し。

 打球音と同時にスタートしていた三塁ランナーは悠々とホームへ向かう。

 悲鳴と歓声が上がるグラウンドで、彼女は既に駆け出している。

(チャチャは一度倒れそうになりながら、立ち続けようと踏ん張っている)

 立ち塞がるは金色の鬼。

(それを支えるのが、今のワタシの役目)

 打球へ猛然と駆けるその僅かな瞬間に、エリスは脳内でシミュレーションを組み上げる。

(ボールはセカンドベースのすぐこちら側を通る。全力で走り抜けるかスライディングすれば捕れるけど、ランナーどっちも足遅くないから、確実にゲッツー取るにはグラブトスでもしないとキツイ。でもアキラコは肩強くないし、ワタシとのコンビネーションはまだ完全に息が合っているとは言い難い。となると最も有効な方法は――)

 エリスは打球から目を離さず、左足から二塁ベースへスライディング。ほぼ同時にベース横を抜けようとしていた打球をグラブでもぎ取り、セカンドで一つ目のアウトを取る。さらにベースを支点にダッシュのベクトルを上方へ転換し身体を起き上がらせ、ボールを右手に持ち替えファーストへ砲弾のような送球。

「んボっほぁああぁああぁぁああッ!」ウトッ!」

 みまの咆哮のような喘ぎ声にコールがかき消されたが一塁もアウト。

 6-6-3のダブルプレー成立。

 三塁ランナーは生還し4-2となったが、ビッグプレーはムードを一変させる。

『うおおおおおおおおおおおおおおおお!?』

 球場全体がエリスのスーパープレーにドッと沸いた。

「素晴らしいです先輩! わたくしこんなに近くで見て感動してしまいました……!」

「Yeah! 上手くいって良かったデス!」

 彰子とエリスがタッチを交わす。

「すっげ……なんだ今の。YOUTUBEのメジャーリーガースーパープレー集かよ」

 苦笑しながら呟いた蓬はマウンド上の茶々を見た。

 彼女は腕を組み、ホームに背を向けている。その肩が小刻みに震えていた。

「フフッ……フハハハッ……フゥーッハッハッハッハッハ!! ヒーッ! ヒーッ!」

 笑っていた。それはもう大仰に。腹の底から笑っていた。

 ひとしきり笑い終わるとフゥと一息ついて、右手の人差指をピッとエリスに向けた。

 ――お前は最高だ。

 そう言っているようだった。対するエリスもにこっと微笑み、、パチンとウインク。

 ――次はアナタの番デス。

 確かに、そう言っているようだった。

『七番、キャッチャー、小波さん』

 興奮冷めやらぬグラウンド。小波あかりが打席に立った。

(ランナー無くなったし、これで多少は気楽にいけるかな)

 蓬は磨珠(カーブ)のサインを出した。しかし茶々は首を横に振った。

 ならばと断龍(スライダー)のサイン。しかしこれも首を振る。

 穿月(ストレート)舞神(シンカー)も同じく。

(……じゃあこれしかないよね?)

 絶鸞(シュート)。首肯。

(……だったらこうしますよ?)

 蓬はミットを内に構えた。打者の内角を抉るようなシュート。先程までの茶々ならば、絶対に投げられなかったコース。

 茶々は唇をぺろりと舐めた。

(情けないな……まだまだ未熟だ)

 シュートの握りを確認し、モーションに入る。

(皆を支えるばかりか、支えられてばかりだ。柱が聞いて呆れる。だが……きっとそれが野球という競技の醍醐味なのだろう)

 打撃、投球、守備、走塁……様々な全く異なる要素が合わさったスポーツ・野球。

 それぞれに得意不得意ある者が集まってチームを組み、お互いの短所を長所でカバーし、誰かが倒れたら別の誰かが補い、勝利という一つの目標を目指す。

 一人で勝つ必要は無い。

 みんなで勝てば、みんなの勝ち。

 それが野球だ。

(なんて……幸せなんだ)

 右腕を振り抜いた。白球は打者の手前で鋭く内角へ曲がりこむ。蓬のミットは一切動かなかった。懐を抉られたあかりが仰け反る。判定はボールだったが、バッテリーは揃って満足げに口を歪めた。

 第二球。インローへ穿月(ストレート)。あかりは手が出せず見逃し。一ボール一ストライク。

 第三球。真ん中から低めへスッと消える舞神(シンカー)。あかり、全く合わず空振り。

 そして第四球――

(ノってる今こそがカードの切り時ね)

「小波先輩」

 サインを出す前に、蓬が囁いた。

「…………」

 明らかなささやき戦術に対し、あかりは無視を決め込もうとした。

 しかし、続く蓬の言葉を耳にした途端に顔色が青白く変色。舞神(シンカー)にあっさり空振り。

 四回は4-2で終了。野球部のリードは二点となって、試合は終盤へと雪崩れ込む。


■□   □■


 五回表、ナイター用のライトに明るく照らし出されたマウンド上で、ロージンバッグを手にした静佳は胸の高鳴りを抑えられずにいた。

(限界だなんて言ったの悪かったな~。野球への想いは沙良々ちゃんより上だったもんね。さすがだよ茶々ちゃん、あそこから持ち直すだなんて……そんなの見せられたら私、全力で、全力以上で――捻じ伏せたくて仕方なくなっちゃうよ~!)

『五回表、野球部の攻撃は、一番、センター、紋白さん』

 ここまで二安打のノノが打席に入った。

 本格的に野球に取り組んだのはここ二週間が初めてなのに、打撃に守備に存在感を発揮している彼女。この先も練習を積めば、一体どれほどの選手になるのか。

 ワインドアップしながら、静佳の口角が自然に上がる。

 強敵だ。素晴らしい。輝いてるその才能が、欲しい。欲しい。欲しい。

 よこせ。

(ソフト部に、お~いでッ!)

 静佳は真ん中高めへ全力の速球を投げ込んだ。

 ノノは目を見開くだけで、バットは動かなかった。ストライク。

(……今の球、さっきまでと違う。尻上がりに調子上がってくるタイプ……?)

 構え直すノノの額を、汗が一筋流れ落ちていく。静佳の口角がさらに上がる。

(駄目だよ~、動揺をすぐ顔に出しちゃ。そういう正直なところも可愛いね~。ますますウチで鍛え直してあげたくなっちゃうな~)

 雑誌のページに折り目を付ける女子のように爛々と瞳を輝かせながら、静佳は両腕を振りかぶった。


■□   □■


 ノノは速球からのスライダーに空振り三振。

 蓬はなんとかバットに当てるも、ファーストへのファウルフライ。

 続くエリスは迷わず敬遠。

 四番・美鶴のバットは静佳の速球に対して空を切り、三振。三アウト。

 パーンとグラブを叩いて意気揚々とベンチへ戻る静佳。

 それを入れ替わりに、茶々はいつも通り泰然とマウンドへ登った。

(野上の奴め、ここにきて調子を上げてきたか。相変わらずの気分屋め。だが、まあ――)

 ソフト部の八番、小柄な新條純が打席に立った。

(応えぬわけには、いかぬよな……!)

 ポーカーフェイスから覗く茶々の双眸が、ギラリと覇気を纏った。

 純には穿月(ストレート)で押して、外角へのクロスファイアで見逃し三振。

 九番・興津貴峰に対しては断龍(スライダー)絶鸞(シュート)のコンビネーションでショートゴロ。

 一番、左の吉野真由には舞神(シンカー)を連投。引っ掛けさせてセカンドゴロに仕留めた。

 静佳に、ソフト部に見せつけるような華麗な投球術で三者凡退。五回を終えた。

 当然と言わんばかりに悠々とベンチへ引き上げてきた茶々の背中の背番号1を、守備から戻ってきた野手陣がバシバシ叩いていく。

「ナイスピー部長!」

「な、ないすぴー……!」

「完全復活ですね! さすが!」

「私は信じてましたよ、もちろん」

「茶々様の背を叩くなんて畏れ多い……むしろ茶々様がボクを!」

 茶々は愉快そうに微笑みながら、みまの尻をグラブで叩いた。

「先程の打席での、あの体たらくは何だ鵜飼」

「んぁふっ! しゅ、しゅみましぇんぁっひぅ! 相手の球がぁっはぁ! ひゅごく良くて思わじゅ興奮ししゅぎちゃぁっへぇ!」

「ほう、もう我の折檻は不要か? ならば貴様だけソフト部に移って野上に(かしず)くがいい」

「嫌れひゅうううう! ボクの御主人ひゃまは茶々ひゃまらけれひゅううう! 茶々ひゃまが一番れひゅううう!」

 みまは素早く跪き、茶々のスパイクを持ち上げて裏の尖っているところをベロベロン。

 茶々は黙ってみまの額を軽く蹴ってから、彼女の肩甲骨を踏みつけた。顔面をグラウンドに押し付けられたみまは、しかし「うぶぶぶぶ~ぅ!」と歓喜の声を上げている。

「イヤ~、いつも通りの光景で和みマス♪」

「……同じこと考えてた私も毒されてるなぁ……」

 蓬はポツリと独り言ちた。

『六回表、野球部の攻撃は、五番、ピッチャー、藤原さん』

「む、我からか」

 茶々がみまの背から足を退けると、みまは素早く茶々のバッティング用具を持って主人の許へ馳せ参じた。茶々は準備をしつつ、皆に声を掛ける。

「残すところあと二回だ。点差は二。逃げ切ろうなどとは考えるなよ。攻めを忘れた瞬間、死神は我らの肩を叩くのだ。追い縋る敵に矢を放ち、ぶら下がる手を踏みつけ突き落せ。まずは我が打って出る。続け」

 バットを担いで、茶々は打席に向かう。真っ直ぐ静佳を見据えながら。

 互いの視線が絡み合った瞬間、静佳は笑った。その牙を敵へ誇示する肉食獣のような、挑発的な笑み。茶々は踊る心を抑えきれないと言いたげに口の端を歪め、右打席に立つ。

「おいそこの捕手」

「なんですか」

 茶々は足場を均しながら、あかりに尋ねる。

「野上はこの回限りだろう。違うか?」

「……お答えすることは無いです」

「そうか、やはりこの回で終わりか」

「…………」

 五回表終了直後、静佳はソフト部の監督から降板を告げられていた。

「自分は野球は専門外だから口を出さない」と前もって公言していた監督だが、静佳の球数は七〇球に迫っており、この試合に勝つにしろ負けるにしろ、本業でない試合で無理はさせられないという判断だった。

 しかし静佳は頑として譲らず続投を進言したのである。

 監督はその熱意に折れ、あと一回のみ続投を許したのであった。

「ならば、存分に楽しませてもらおうか」

 グリップを胸の辺りで構え、クローズドスタンスをとる茶々。

 静佳は第一球を投げ込む。真ん中低めのチェンジアップ。

 茶々はやや前のめりになりながらバットを振り抜いた。

 打球は三塁線を転がったが、切れてファウル。

「その球はもう見切っているぞ、野上よ」

 思わず口に出す茶々。それを聞いたあかりがサインを出すが、静佳は首を振る。

 そして投げた球は、ストレート。

 茶々は果敢に打ちにいく。ノビのある球は、バットに擦れてバックネットへ跳ねた。

「良い直球だ。我が部で貴様が投げるのが見たい」

 茶々が誰にともなく言う。

 静佳はあかりのサインに二度首を振った。

 そして投げた球は、再びのストレート。

 内角を抉るように投じられた一球に、茶々のバットは止まる。判定はボール。

「ストレート勝負か。分かりやすいのは好みだ」

(だが、野上よ……貴様のソフトボールに懸ける想いは――そんなものではあるまいな)

 第四球、静佳はサインに一回で頷いた。

(勝負を楽しみつつも、勝利を掴む為に全精力を以て相手を叩き潰す――)

 しなる腕から放たれた白球。

 静佳の選んだ勝負球は――外角低めのスライダー。

(――私も、貴様も!)

 左足を踏み込み、右膝を曲げて腰を落とし、アウトローへ逃げる球を掬うように捉えた。手首を返し、右腕で押し返す。狙うはバッティングの基本中の基本、センター返し。

(勝つのは……我々だッ――)

 会心の打球だった。

 野球という競技そのものを愛する彼女は打撃も当然好きで、日々研鑽を積んでいる。

 最高潮に達したボルテージは、この場面で彼女に微笑んだ。

 まさに「体が勝手に動いた」というやつだった。

 地道な練習によって染みついたスタイルを、完全に自分のものとして意識せずとも操ることができた瞬間。

 あらゆるプレーヤーが目指すその快感。


 完璧なライナーは、真正面に立つ静佳の顔面を襲った。


 マウンドへ崩れ落ちる静佳。

 何度も引き千切れそうになりながら、仲間に支えられ、己を奮い立たせ、辛うじて繋いできた茶々の心の命綱は――あっさりと、完全に、切れた。


■□   □■


 一瞬グラウンドは騒然となるも、静佳がグラブを嵌めた左腕をスッと掲げたことで安堵の溜息へと変わる。グラブの中には白球がしっかりと掴まれていた。倒れながらもしっかりと捕球していたのだ。

 次打者のしほりが豪太夫(バット)を抱きしめて打席へ向かい、その場で立ち竦んだままの茶々の背を指でちょんちょんと突いた。

「えっと……う、運が悪かったですよ。その……私頑張りますから。こ、今度こそ豪太夫がボールに当たってくれる気が――ぶ、部長……?」

「……ああ、そうだな。次こそはかっ飛ばせるさ」

「えっと……だ、大丈夫、ですか……?」

「何がだ? お前の言う通り、運が悪かっただけだ。完璧なセンター返しだったのだがな」

「え、あ、はあ……」

 茶々は普通だった。マウンド上で孤軍奮闘していた時よりも、ずっと平静に見えた。

 ベンチへ帰る彼女を見送り、しほりは違和感を抱いたまま打席に立つ。

(でも部長……私と全く目を合わせてくれなかった……)

「ねえ」

「は、はいっ!?」

 不意にあかりから囁かれたしほりは、ビクンと飛び上がった。

「な、なんでしょうか……?」

「いや、別に……あの、君さ」

「な、何か……」

「大丈夫! 別に悪いとこがあるわけじゃないから! 落ち着いて! リラックスリラックス! ほらバットしっかり握って! 絶対離さないように! 絶対ね! 絶対よ!」

 必死の形相で訴えるあかり。

 野球部ベンチはやはり全員、防弾性能に優れた高分子アラミド繊維製の軍用バリスティックシールドを携えて声援を送っている。

「信じていいのよね? もう絶対バットを発射したりしないのよね? 大丈夫なのよね?」

「が、頑張ります」

「うん頑張って! 切実に! 応援してるから! お願い!」

 敵に応援されながら、しほりは砂煙の立つ豪快なフルスイングで三球三振に終わった。

 彰子はスライダーを引っ掛けてサードゴロだったが、サード高牧の送球が高く浮き、ヘッドスライディングで滑り込んだ彰子が勝って出塁。

 しかし中があっさり三振して、六回表は終了。

 そして、試合は激動の六回裏を迎える。


■□   □■


 頭の中でけたたましく響く沢山の人の悲鳴。

『大丈夫かっ!? ああ……これは――』

『駄目だ……担架! 早く! あと救急車も! 急げ!』

『うわぁ……目が――』

『聞こえる!? 返事してよ! ねぇ!』

『こら! 動かさないの! 頭固定して!』

 仰向けに倒れ、左目から血を流して動かない幼馴染。

 何なんだ、この光景は。

 私は、最強のライバルと、最高の勝負の真っ最中じゃなかったのか。

『救急車来ました!』

『グラウンドに直接入ってくるように言ってくれ!』

 幼馴染の周りを慌ただしく囲む救急隊員。

 彼女は慎重にストレッチャーに載せられ、ベルトで体を固定されている。

 どこへ連れていくんだ。

 まだ私との勝負はついていないぞ。

 待ってよ。

 ねえ、私は――

 何を、してしまったの?


 ストレッチャーに載せられて、救急車に運び込まれる一瞬、彼女と目が合った。

 無事な右目を大きく見開き、私のことをじっと見ていた。

 彼女は何も言わず、ただ私の目を見ていた。

 モノクロに褪せた世界で、彼女の右目だけが鮮烈な色彩を保っていた。

 あの、何の感情も読み取れない一つの瞳を、私は今でも夢に見る。


■□   □■


(――じゃあ、これも夢か。それとも現実なのか)

 投じられたボールはゾーンから大きく外れて、蓬が伸び上ってなんとか捕球。

 梶菜桜子はバットを置いて走っていく。

(四球か。誰だ、こんな糞ボールを投げているのは)

 茶々が視線を右下に落とすと、そこにぶら下がっているのは自分の右腕だった。

 首を捻って背後を見る。セカンドベースには、隣のクラスの霧ヶ峰がいた。

(……私は先頭から二人続けて四球を与えているわけか)

 ノーアウト、一・二塁。

 肩を叩かれた。振り返ると、蓬がマウンドに来て何かを言っている。

 内野も集まってきて、口をパクパクさせている。

(……何を言っているんだ? 声を出してくれないと何も分からないぞ?)

 茶々はとりあえず頷いて「分かった」と言っておいた。

 皆はまだ何か言いたげだったが、球審に促されて持ち場へ戻っていった。

(さて、次の打者は誰だ?)

『四番、ピッチャー、野上さん』

(そうか野上、お前か。怪我は無かったようだな。僥倖、僥倖……なんだよ、その目は。それは憐れみの目か? それとも同情か?)

 息が苦しい。呼吸が落ち着かない。


 茶々の視界に白黒のノイズが奔り、静佳の右目から一筋の赤い雫が垂れ下がった。


 帽子を取り、顔の汗を拭う。

(何を馬鹿な。よく見ろ、野上は無傷だ。日に焼けた綺麗な顔をしているじゃないか)

 蓬のサインは穿月(ストレート)を外角いっぱい。

(さっき打たれたところを敢えて攻めていくというのか。嫌いじゃない)

 茶々は頷き、セットポジションに入る。

(……なんだこれ。脚もおかしいな。誰の足だこれは)

 骨がすべて柔らかいゴムにでも入れ替わったかのようだった。ぐにゃぐにゃして据わりが悪い。今にもぐんにゃりと崩れ落ちてしまいそうだ。

 茶々は誰かの脚を踏み出し、誰かの腕でボールを投げた。

 中途半端な直球がミットのかなり上へ浮いた。良い感じに打ちごろなアウトハイ。

 静佳はバッセンの打席にでも立っているかのように簡単に流し打ち。打球は彰子の頭を越えてライト前へ。しほりが慌てて前進してくるが、突っ込みすぎてバウンドに合わせられず、ボールを後ろに逸らしてしまった。後ろへカバーに走り込んでいたノノが拾い、中継の彰子へボールが帰ってきたときには、静佳はサードベースへ滑り込んでいた。

 ランナー二人は当然生還。4-4の同点。

 三塁上から静佳の視線を感じたが、茶々は目を背けた。

(なぁに、まだ同点だ。ここで抑えて、次の回勝ち越して七回裏を抑えれば勝ちだ。何の問題も無い)

 ――だから怖くなんてないんだ。

 ――立て。立ち続けろ。

 いつの間にか打席には五番の高牧菜花が立っていた。

(――鹿菅井、ミットをしっかり構えてくれ。そんなにゆらゆら動かされたら分からんよ)

 茶々は最早、自分の身体を支えられなくなっていることすら気づけなくなっていた。

 どの球種を投じたかも分からない一球目は、菜花の背中の後ろを通過した。

 静佳があっという間にホームを陥れ、4-5。

(逆転されたのか。良かったな野上、貴様の勝利が近づいたじゃないか)

 目の前の出来事が現実なのかどうかも分からない。

(私を見ないでくれよ野上。もう、ほっといてよ――)

 柱は、完全に折れていた。


■□   □■


 コンクリートにぶつける音が止んだ。

 キャンデローロは二人を乗せたまま勇壮に新緑の土手を駆け降り、歩みを止める。

 行ってこい、とローランに眼で促され、琢磨は白馬の背から不恰好に飛び降りた。

 鉄橋の下に小さな影がぽつんと立っていた。

 気まずそうな彼女の左手には、古ぼけたピッチャー用グラブが嵌められている。

 そして鉄橋の支柱の壁のようなコンクリートには、穿ったような穴が無数に開いていた。

 まるで長い間、硬球を何万球と受け止め続けたかのように。

「……つまんないだろ、一人でずっと壁当てするの」

 川風に揺れる草原を挟んで、琢磨はみなもと対峙した。

「野球、嫌いなんじゃなかったのか」

「なんで分かったの?」

 被せ気味に尋ねてきたみなもの声には責めるような響きがあった。

「私が、ここに居るって」

「――尻だ」

「………………えっ」

「おしりだよ。痴漢騒ぎの時に、この顔全体でしかと堪能したお前のケツだよ!」

「ちょ、え、待って待って待ってそこ蒸し返すの……?」

 一気に顔を真っ赤にしてたじろぐみなも。琢磨は構わず続ける。

「あの心地よいハリと弾力。均整の取れた惚れ惚れするフォルム。理想的な筋肉と色気肉のバランス――あれは間違いなく、日常的に下半身を使う運動をしている人間のおしりだった。例えば、野球のピッチングのような」

「そんなことまで分かるの……? クマちゃん怖いよ……尻ソムリエだよぉ……」

「あとは、やっぱり信じたかったんだよ。みなもがまだ野球を諦めてないって」

「……………………」

 どんな表情を作ればいいのか分からなくなり俯くみなも。

「この場所に来たのは、正直賭けだった。外れたら、もう諦めるしかなかった。でもみなもがもしまだボールを手放していないなら、きっとここに居ると信じてたんだ」

「――ここは、私のすべてが始まった場所だから。私には野球以外何もなかったから」

 強い風が走り抜け、二人の髪を激しくかき回した。

 一瞬みなもの瞳を覆っていた憂いが晴れ、澄んだ輝きを覗かせる。

 琢磨は一歩、その距離を詰めた。

「やっぱり、野球が嫌いになったなんて嘘なんだろ……? その下半身見れば分かるよ。この五年間、ずっと休まず投げ続けてきたんだろ?」

 みなもはコクリと頷いた。

「一日だって、休んだ日は無かったよ」

「なら俺達と一緒に――」

「でも野球が嫌いになったのは嘘じゃない」

 再び彼女の瞳を、暗い憂いが満たした。

「私は野球が嫌い。野球が好きだったせいで、クマちゃんから野球を奪った昔の私が大嫌い。このグラブを見るだけで、死にたくなる」

 左手に嵌めた小さなグラブ。色褪せてはいたが、相変わらず手入れが行き届いていて、大切にされているのが分かる。しかし落書きは消えることなく黒々と残っている。

「もう野球なんかしたくない。ボールなんか投げたくない。でも気が付くとここに居るの。ボールを投げないと気が狂いそうになるの。きっと私は、野球をしないと死ぬんだよ。野球無しでは存在できない、そういう人間になっちゃったんだよ」

「……分かるよ、とっても」

 ――野球とは麻薬だ。

 彼女もまた、それに侵された一人だった。

「死ねば楽になれるのかなって思ったこともあったけど、そんな勇気無いし、私だけが楽になっちゃズルいと思ったし……ボールを投げ込むごとに衝動は収まるけど、クマちゃんのことが頭を何度も過ぎって潰れそうになるし、こんな気持ちでボール投げなきゃいけないことに絶望しそうになって、なんで……なんでこんなことに、なったのかなって……」

 夕日の中で酷く小さく惨めに映る彼女は、声を詰まらせながら涙を流していた。

 みなもは、心の底では野球が好きなままだった。

 それが棘となって、彼女を中から苦しめている。

 琢磨への罪悪感と自分への失望に苛まれながら、自棄になって投げ出すことも出来ず、ただただ止まった時間の中、大好きなもので自分を痛めつけ続けることしか出来なかった。

 五年もの間、一日だって休まずに。

 琢磨は一歩踏み出す。また一歩。もう一歩。草を踏みしめ、みなもの傍へ。

 五年という空白を埋めるように、その前に立つ。

「俺は、お前を許さないよ」

 ビクッと体を震わせ、下を向くみなも。琢磨は間髪入れずに続けた。

「だってお前は悪くないんだから。許すも許さないもないんだよ」

「それでも私は――」

「だいたいお前! 勝手に俺の可能性を潰してんじゃねぇよこの馬鹿ピッチャーが!」

「――ふぇ……?」

「お前が俺から野球を奪ったって? 思い上がんじゃねぇよ! 見ろこれを!」

 琢磨はバッグから引っ張り出した物をみなもに示す。

「それって……ミット?」

 美鶴やノノと買い物に行ったときに買った、新しいキャッチャーミット。

「俺は野球を諦めない! これからリハビリだってするし、絶対にキャッチャーとしても復帰してやる! 野球はいつだって、どこでだって、誰とだってできるんだから!」

 琢磨はまたバッグに左手を突っ込んだ。

「でもさ――やっぱり俺は、みなもの球を受けたい」

 取り出した物をみなもの胸に押し付ける。

「今日を、その一歩目にしたいんだ」

「――これ……!」

「俺は使わないからさ、やるよ」

 新品のピッチャー用グラブ。しっかり型付けも済んでいる。

 ミットを買った店で同じく購入したものである。ミットと合わせた出費は琢磨の小遣いを吹っ飛ばしたが、分の悪い賭けへの投資としては悪くない買い物だった。

「女房役の俺に見合うような、凄い投手になってくれよ」

「――わっ……私、は……でも……っ」

 グラブを受け取れずにおどおどするみなも。零れる涙が革に水滴を作る。

「……前に教えてやっただろ? 右利きなんだから、左手に嵌めるんだよ」

「――そんな……そんなこと、分かってるもん!」

 みなもはグラブをひったくった。左手の落書きだらけの古いグラブを睨むと、腕を振るって後ろへポーンと放り投げ、空いた手に新品のグラブを嵌めた。

「つまんないんだよ! もうやだやだ! 壁なんかに投げてもなんにも面白くない! 捕ってくれないし、投げ返してくれないし、マウンドに来て褒めてくれないし!」

 顔をぐしゃぐしゃにして、子供のようにしゃくり上げながら、掠れた声で――しかし熱い感情の籠った声でみなもは吐露する。ずっと胸の内に閉じ込めてきたものを。

「クマちゃんが座ってなきゃやだぁ! また一緒に野球やりたいのぉ!」

「おし! じゃあやろう!」

 琢磨は左手にミットを嵌め、みなもが古いグラブを投げたときに一緒に飛んだボールを拾いに行き、グラブトスでみなもに投げ渡した。

「暴投はこれで最後にしとけよ」

「うんんー!」

 みなもは涙と鼻水を拭いながら頷く。

 琢磨は彼女の立つ位置から、大股でおおよそ二十歩離れた。

 マウンドからホームまでの距離――六〇・六インチ。約一八・四四メートル。

 振り返ると、みなもは呆けたように新しいグラブを開いたり閉じたりしている。

 五年前まで毎日眺めていた、一八・四四メートル先の立ち姿。

(やっぱり、これが俺達の距離なんだ。やっとここまで戻ってこれた)

 その場にしゃがむ。みなもはいそいそと足場を整えた。

 あの頃と変わらない、グラブを胸で構えたポーズで立つみなもに、琢磨はあの頃と変わらないサインを送った。

 ――直球。力一杯。ど真ん中。

 みなもは真っ赤な目で頷き、左足を少し下げ、グラブをすっと高く頭上に掲げる。

 あの頃と変わらない、素直なワインドアップ。

 そこからくるっと半身になり、高く左脚を上げ、一本立ちになった軸足から思い切り体重を前へ移しながら、左脚を振り出し、体の軸はやや一塁側へ傾き、腕がほぼ体の真上から出てくるのではないかという、あの頃と変わらないダイナミックなオーバースロー。

 そこから放たれたのは、糸を引くような美しい軌道を描く、惚れ惚れするような――


 あの頃よりも五年分進化した最高の直球(フォーシーム)だった。


 ミットの乾いた音が川面を響き渡っていく。手の中に納まった白球をしっかりと握りしめた琢磨の視界は、ドッと溢れ出した涙で曇っていた。噛み締めるように目を閉じる。

(みなもが帰ってきた。やっと……やっと、俺のエースが――)

「クマちゃん、何やってるの」

 目を開くとみなもが立っていた。あの頃と変わらない笑顔を湛えて。

「野球、いこっ!」

「ぅん……! うん……っ!」

 今度は琢磨が鼻水を擦りながら立ち上がる。

 時間が無いのだ。

 そのまま二人連れだってローランとキャンデローロのところへ走りかけたが、みなもが「ちょっと待って」と立ち止まった。

「これ、バッグに入れといて」

 彼女が差し出したのは、落書きだらけの古いグラブだった。

「……いいのか?」

「うん、もう平気」

 みなもの笑顔が、過去を乗り越えた何よりの証拠だった。

 琢磨は古いグラブと自分のミットをしまう。みなもは新しいグラブを嵌めたままだ。

「いやーお二人さん、いいもん見させてもらったよ。ごちそうさま」

 馬のところへ戻ると、ローランが二人を迎えた。

 みなもはキャンデローロを近くで見て、その大きさに驚いている。

「クマちゃん……それにしてもなんで馬なの……?」

「まあ色々あって……」

「もしかして、二人で乗ってきたの? 二ケツ?」

「そうだけど……」

「ほーぅ……男同士で……騎乗で……密着……ふひひ」

 みなもの笑顔が粘着質な不純物が混ざったものに変わった。

(そういえばこいつ倉と仲良いんだったな……)

「……そんなことよりローラン、これ三人って乗れるの?」

「無理に決まってるだろう」

「え、じゃあ帰りはどうすんだ?」

「そんなの、決まってるじゃあないか」

 ローランはキャンデローロの前から身を引き、パチっとウインク。

「さ、馬上へどうぞお二人さん」

「えぇっ!? ローラン乗んないの!? じゃあ誰が手綱握るんだよ!」

「琢磨しかいないだろ往生際が悪いな。大丈夫だって、曲がる方に引くだけだ。あとはキャンデローロがなんとかしてくれる。こいつ僕に似て利口だからね」

 慌てふためく琢磨を馬上へ押しやるローラン。

 仕方なく腹を括った琢磨は右手首に手綱を巻き付けた。

「ローラン、ホントにありがとな」

「当然さ、僕は全ての女子と、君の味方だからね。さ、マドモアゼルは紳士がエスコートしてやんなきゃ。あ、言い忘れていたけど後ろの方が揺れるから、マドモアゼルが前ね」

「お前……俺には何も言わず後ろに乗せたくせに……」

「うるさいなあ、ほら時間無いんだろう?」

「あ、ああ……みなも、手を」

「う、うん」

 琢磨が差し出した左手を、みなもがおずおずと取る。せーの、で馬上へ引っ張り上げた。琢磨の懐にすっぽりと収まる小柄な体。

「さあマドモアゼル、振り落とされないようにしっかり掴まって。そのまま琢磨に寄りかかってると楽だよ」

「……し、失礼します」

 みなもはそっと体重を琢磨の身体に預ける。彼女はだいぶ着古したシャツを着ており、琢磨が彼女の肩口から見下ろすと、緩くなった襟元から汗ばんだ白い胸がちらりと見えた。

(――意外と……あるッ!?)

 琢磨は今更ながら五年という月日の長さを再認識した。

「僕は後から、馬糞(おとしもの)拾いながらのんびり追いかけるさ! 前見て走れよ! さあキャンデローロ、初々しい二人をエスコートしてさしあげろ!」

 ローランがキャンデローロの尻をぺしっと叩くと、白馬は一声嘶き、夕暮れが近づく河川敷を猛然と駆け始めた。

「クマちゃん!」

 しかし、みなもの声は明るい。

「楽しみだね!」

「そうだな!」

 激しい向かい風は、追い風へと変わっていた。


■□   □■


 もう限界だ――蓬は歯噛みした。

 マウンド上に内野陣が集まるも、チームの柱であるエースは、もう何も見えてはいない。

 ちらりと美鶴に眼をやる。一切口を開かず、陰鬱な顔で下を向いている。

 彼女はここまでノーヒットだ。とはいえ初心者に毛の生えたような者にもかかわらず、無難に守備をこなし、相手のエラーで初出塁も遂げているのだ。十分と言える。

 しかし皆に期待され、エリスの後を打つ四番を任されておきながら、そしてそのエリスが敬遠され打席を回されながら、何の成果も成しえていない。

 背負った期待がそのままプレッシャーとなり、両肩に重くのしかかっている。

 この状態の美鶴をマウンドに上げて、ソフト部の猛攻を抑えられるか――

(でも、他に道は無いか……)

 蓬が投手交代を提案しようと口を開きかけた瞬間、彰子がぽつりと呟いた。

「何か、聞こえませんか……?」

「何かって?」

 みまが尋ねると、彰子は両手を耳に添えて目を閉じた。

「何かが近づいて……足音? これは人ではなく――」

 その頃には、グラウンドに全員の耳にもその音は届いていた。

 力強く大地を蹴り、だんだん大きくなる四足の地響き。

「――馬?」

 そう誰かが呟いたと同時に、大きな影が宙を舞い、グラウンドへ躍り出た。高らかに嘶き、鬣を靡かせて駆け足を緩めていく。どれだけの距離を駆けてきたのか、激しく息を荒げる度に上下するその逞しい馬体は純白。

 背に乗っているのは野球部唯一の男子部員・石山琢磨。

 そしてその前でなんとか鞍にしがみついているのは、玉響みなもである。

「石山ァ!?」

 全員があっけにとられる中、蓬が素っ頓狂な声を上げた。

 マウンドへ歩みを進めるキャンデローロの背で、琢磨は左手を挙げた。

「よー、お待たせ。斬新なリリーフカーだろ?」

「アホかお前」

 さらに馬を見物に、ノノとしほりが外野から駆け付けた。中は寝そべって休んでいる。

「おっほ~! なになに!? なんで馬!? すっごい!」

「あれっ、みなもちゃん!? なんでそんなド派手な登場を!?」

「私もわかんない……」

 みなもはまだくらくらして目の焦点が合っていない。

「こらこらちょっと君ィ!」

 審判が我に返り、琢磨達の許へやって来た。

「なんだこれは!? 一体その……なんだこれは!?」

「いやーすいません。一人遅刻してたメンバーを送ってきたんですよー。公式試合じゃないですし大目に見てやってください」

「いや遅刻とかよりもその馬がね――」

「タクマ! ということはその子が……!」

 球審の言葉を遮ったエリス。琢磨は笑顔で大きく頷いた。

「連れてきましたよ、俺のエースを!」

「――頑張ったんデスネ。Good job...! 審判サン、Pitcher交代デス!」

「ちょっ!?」

 突然メンバーチェンジを要求したエリスに蓬が異を唱える。

「いきなり素性も知れない子に投げさせるんですか!? 無茶もいいとこですよ!」

「ヨモギも分かっているはずデス。ワタシ達にはもう彼女が最後の希望デス」

「だからって――部長はそれでいいんですか!?」

 茶々は未だプレートに足を掛けたまま無言だった。表情を変えず、ずっとホームの方を見ていた彼女は、穏やかな口調で語りだした。

「……皆、本当にすまなかった。我はエース失格だ」

「そんな……っ!」

 みまが否定しようとするのを手で遮り、茶々は続ける。

「石山が投手を連れてきたと耳にして我は……安心してしまった。これでマウンドから降りられると安堵してしまった。もう我には、このマウンドに立つ資格など無い……」

 茶々は、どこか縋るような目で、馬上の二人を見上げた。

「石山、信じていいんだな」

「――勿論です」

「よし――玉響といったな」

「は、はい!」

「部室にユニフォームが用意してある。すぐに着替えてマウンドに上がれ」

 茶々は、プレートから足を外した。

「――後は、頼む」

 帽子を目深に被り、マウンドに背を向けた茶々。

 背番号1が、嘗てない程に小さく見えた。


■□   □■


『野球部、選手の交代をお知らせいたします。レフト、夕霧さんに代わりまして、八番に玉響さんが入り、ピッチャー。ピッチャーの藤原さんが、サード。サードの伊藤我さんが、ライト。ライトの倉さんが、レフト。四番、ライト、伊藤我さん。五番、サード、藤原さん。六番、レフト、倉さん。八番、ピッチャー、玉響さん。以上に代わります』

 少々ややこしいアナウンスが響き、観客からざわざわと動揺が聞こえてくる。

 正直お荷物でしかない中を下げ、しほりをレフトに。

 肩の強い美鶴をライトへ移し、降板した茶々は本職ではないがサードへ。

 そしてマウンドには、背番号10をつけたみなもが立っている。

 琢磨は蓬と共に、みなもと輪を作っていた。

「――とまあ、みなもの特徴はこんな感じだ。あとはもぎもぎに任せた」

「何から何までお前ホント、試合終わったら覚えてろよ」

「うーんなんだっけごめん忘れた。さてどうだみなも、久しぶりの試合のマウンドは。緊張してる?」

「早く投げたい!」

 瞳をギラギラ光らせたみなもは鼻息荒く拳を握っている。

「よーし、それでこそみなもだ。もう十分肩は温まってるだろ。投球練習は要らないな。いきなりぶちかましてやれ」

「うん!」

「おい! 勝手に決めんな! もうベンチ帰れ!」

 蓬にケツを蹴り出され、琢磨は力尽きた中の死体が転がるベンチへ引き上げ、立ったままグラウンドを見つめた。

 陽も陰り、ナイター設備に照らし出されたマウンドは、スポットライトの当たる檜舞台。

 そこに、みなもが立っている。

 輝く笑顔を振りまき、野球を楽しもうとしている。

 ずっと琢磨が夢見てきた光景だ。

 ――でも、やっぱり……

「お前が羨ましいよ、鹿菅井――」


■□   □■


 改めて高牧菜花が打席に入る。全く情報の無い投手が出てきたのだから、ソフト部打線は様子を見たい。しかしみなもの情報が無いのは蓬の方も同じである。

(ったく無茶振りしやがって……)

 蓬はマスクの下で舌打ち。よだれを垂らして餌を待つ犬のようにこちらを見ているみなもを眺めながら、配球を考えていた。

 琢磨曰く、みなもの持ち球は三種類。

(――ま、分かんないんだから仕方ない)

 蓬はサインを出し、みなもがニッコリ頷くのを確認して、ミットをど真ん中に構えた。

(言われた通り、ぶちかましてこい!)

 グラウンドの内外全ての視線の先、みなもはモーションを開始する。

 緊張も、不安も、そんなものは既に置いてきた。

 今、ここは彼女の時間。

 ゆっくりとした、堂々たるワインドアップが、彼女の一四六センチしかない体を何倍にも大きく見せる。大きく左脚を上げ、右脚一本になっても全くぶれない鍛え上げられた下半身。そこから生み出される、捻り、力が、右腕へ、そして指先と集約され、ダイナミックなオーバースローから、猛烈なスピンのかかった直球が放たれる。

 ストレートは実際に真っ直ぐな軌道を描くわけではない。

 地球の重力や空気抵抗などを受けてボールは減速し、落ちる。

 しかし、その影響を抑える方法は存在する。それが球にバックスピンをかけることだ。これによりボールの上下の気流の速度に差が生まれ、上向きの揚力を生み出す。重力に打ち勝てるほど大きな力ではないので実際に浮き上がることはないが、通常よりも落差は小さくなる。これは流体力学の分野でマグヌス効果と呼ばれる現象で、変化球が曲がる仕組みも同じだ。

 みなものストレートは一一〇キロ弱。大した速さではない。球速なら静佳の方が上だ。しかし天賦の物か、狂気とも思える努力の成果か、みなものストレートのスピン量は常人の遥か上をいく。しかもマグヌス効果は、球速が遅いほど顕著に働くのだ。

 みなもの直球は、その五年分の重みをもって唸った。

 乾いた捕球の音が響いた時、蓬のミットは上に大きくずれていた。判定はボール。

 しかし打者の菜花は、衝撃に打ち震えていた。

(なんや今の……!? 一瞬止まって……でも次の瞬間にはもうミットに入っとった……)

 普通のストレートを見慣れた打者ほど、その軌道に度胆を抜かれる。

 ましてや彼女らはソフトボール部。ソフトボールのストレートは野球とは逆回転、トップスピンをかけて落とすものだ。それに慣れた彼女には、その異常なノビを持つ球は、視界の一点を真っ直ぐ接近してくるように見える、まさに魔球だった。

 一方の蓬も、同じく目を見開いていた。

(よく捕った私。まさかここまでとは……でもコントロールが微妙ってのも本当みたいね)

 琢磨から聞かされたみなもの特長『キレは最高だけど荒れ球』。

 荒れ球は欠点でもあるが、打者にとっては狙い球が絞り辛く、ボールの質で勝負できるポテンシャルがあれば長所にもなる。

(これなら……いけるかも)

 続く二球目もサインは真ん中ストレート。みなもは破顔したまま頷いた。


■□   □■


「あかんですわ……あの球は打たれへん……。一瞬空中に止まって『アレッ?』ってなるんですけど、そう見えた瞬間には『ギュゥン!』ともう球行ってまうんです……」

 全球ストレートで空振り三振した菜花は、次打者の島田佳奈美に小声でみなもの球の特長を報告した。

(止まって見えるストレートねぇ……まあよく球が浮くみたいだし、高めのボール球に手を出さないように気を付けて甘いのを待つか)

 そう方針を決めて右打席に立った佳奈美。一球目が投げ込まれる。

「うおっ……!」

 思わず声が漏れた。本当にノビが凄すぎて止まって見えた。高めだったが、球審のストライクコールが耳に入る。予め聞いていなかったらこれだけで心が折れそうだ。

 気を取り直して構え直す。テンポよく二球目が投じられた。

(――お? なんかさっきより見えるぞ?)

 止まって見えるのは同じだが、目が慣れたのか、ボールの軌道がよく見えた。しめた、甘い――そう思ってバットを出す……が、いつまでたってもボールが来ない。

(あれ……? これ、マジでボール止まってない……?)

 思い切って振っていったバットは止まらず、空振り。ボールはさらに遅れてミットに納まった。完全にタイミングをずらされた。

 今の球はストレートではない。止まって見えたのは、単に球速がより遅かったのだ。

(チェンジアップかぁー……全然分んない……)

 優れた打者は、ボールの軌道を見て球種を判断しない。それでは間に合わないからだ。ではどこでするかというと、投手のフォームである。プロの一流ピッチャーでもない限り、投げる球種によってフォームに多少の違いは出るものだ。

 だがみなもはこれが無い。ストレートと変化球を寸分違わぬフォームで投げてくる。

 打者の判断は否応なしに一瞬遅れる。その一瞬の価値は、とてつもなく大きい。

 この地味だが驚愕の武器の生まれた発端が、上級生に脅され手を抜いた投球をするのを琢磨にばれないよう必死に取り繕う努力をした結果だということは、みなも本人含め誰にも知りえぬことだった。

(こうなったら絞っていくしかない。ストレートにヤマを張ろう)

 しかし三球目が投じられた瞬間、佳奈美は思わず溜息を漏らしてしまった。

 手から離れた瞬間に浮き上がり、頭上辺りの高さから、ストライクゾーンを掠めて山なりにストンと落ちてくる大きな縦のカーブ。所謂ドロップと呼ばれる球。

 ストレートとチェンジアップの二択しか頭になかった佳奈美にはお手上げだった。


■□   □■


 試運転は済んだとばかりに次の小波あかりを直球のみで三振に仕留め、みなもは小走りでマウンドを降りた。

「クマちゃーん! どう? 見てた?」

「おう、期待通りだったよ。ナイスピッチ!」

 琢磨が掲げた左手へ、みなもはぴょんと飛び跳ねてハイタッチ。

「やっぱりマウンドで投げるのは違うね! こう上からグァーッっていける感じがさ! それにバッターが居るともうカーッと、もうムラムラーッと――」

「感想は後で聞くから。今は、ほら、一緒に喜ぶべき人が俺以外にもいるだろ?」

 背後を振り向いたみなも。そこでは野手陣が彼女を取り囲んでいた。

「あ、えっと……」

「すごいよみなもちゃん! 野球出来たんだね!」

「あはは……黙っててごめんねしほりん」

「Fantastic! 野球部にようこそミナモ!」

「えっ、なんで私の名前……あ、ど、どうも……」

 エリスと握手を交わしたみなもの回りで、他の部員もやんややんやの大騒ぎ。みなもは終始アワアワしている。

 その光景を眺めながら独り頬を緩めていた琢磨に歩み寄る影が一つ。

「石山」

「え、あ……部長」

「ありがとう、よく頑張った」

 茶々は既に主将としての顔を取り戻していた。

「俺は自分の我儘を突き通しただけですよ。それに、背中を押してくれたのは先輩方です」

「御互い様というものだ。さて、あとは残すところ七回の攻防のみ。のんびりとベンチから声援を送っているがいい――」

『ソフトボール部、選手の交代をお知らせいたします』

 唐突に流れたアナウンスが会話を止めた。

『ライト、島田さんに代わりまして、六番に鈴木さんが入り、ピッチャー。ピッチャーの野上さんが、ライト。四番、ライト、野上さん。六番、ピッチャー、鈴木さん。以上に代わります』

 マウンド上では、一年生の鈴木あかねが投球練習を開始していた。

 左のオーバーハンド。中学まで野球をやっていたのだろう。

「やはり野上は降板か……さて貴様ら!」

 茶々が手を叩き、皆の視線を集めて腕を組んだ。

「言われずとも分かっているだろうが、このイニングで点を取らなければ我々に未来は無い。何としても勝ち取るぞ! さあ行ってこい鵜飼」

「はいぃご主人様! 絶対に出塁してきます!」

 みまが打席に向かい、紋白も「ぃよーし、やったるわ!」と威勢良くネクストへ。

 しかし次の瞬間――

「んぎょほぉおぉおぉぉおおぉおおおぉぉおぉおっ!」

 突如、獣の咆哮のようなものが空気を震わせた。

 バッターボックスでみまが地に附し、ビクビクと震えている。

 アンパイアがデッドボールを宣告していた。

 琢磨は一応マネージャーとして駆け付ける。

「だ、大丈夫ですか?」

「う、うん、らいじょぶ……ナプキンつけてるしぃ……ぃひぃんッ!」

「そ、そっすか……」

 琢磨はとりあえずボールの当たった左太ももにコールドスプレーをぶっかけて(「んぎゅぃいいいぃっひっ!」)一塁に送り出し、次打者のノノの許へ。

「ピッチャーは代わり端でコントロールが定まってない。甘い球だけ狙ってけ」

「あいよっ、このノノに任せといて!」

 打席へ立つノノ。皆ベンチから身を乗り出して声を張り上げる。

「アーイこっから追い上げマス!」

「ランニングホームランで逆転あるぞー!」

「球荒れてるよー! よく見てこー!」

 敗北がすぐ背後に迫る状況の中、全員勝利のみを見つめている。ムードは最高。

 そんな中、みなもが少し居づらそうに端っこでもぞもぞしていた。

「ほれみなも! お前もこっち来い!」

「みなもちゃん! 一緒に応援しよ!」

「う、うん!」

 琢磨としほりに手を引かれ最前列までやって来たみなも。

「が、がんばれー!」

 全員(寝ている中を除く)一丸となった声援に押され、ノノは甘めに入った球をセンター前へ弾き返し、ノーアウト一・二塁。

『二番、キャッチャー、鹿菅井さん』

 蓬はメガネを光らせ迷わずバントの構え。ここまで二犠打を決めている彼女には、プレッシャーなど無縁だった。初球の高めの速球を易々と三塁線に転がし、送りバントを成功させた。

 一アウト二・三塁。ノノの足を考えれば、外野まで転がれば逆転の大チャンス。

「ウェ~イ! バント職人ウェ~イ!」

 出迎えに来た琢磨に、蓬はがら空きになったボディへブローを見舞った。

「ブフォッ……なぜ……」

「これがアンタへのグータッチだ。はしゃいでんじゃないの。正念場はここからよ」

 エリスが左打席に立つが、相手捕手は腰を下ろさず敬遠。

『四番、ライト、伊藤我さん』

 満塁のチャンスで、相手のエラーでの出塁はあるものの、ここまで三打席ノーヒットの美鶴。ベンチでも明らかにいつもより口数が少なかった。その覇気は、普段琢磨のケツを付け狙うギラギラしたものからは、明らかに見劣りするものだった。


■□   □■


(『四番』という存在が、ただ『四番目の打者』というもの以上の意味を持つことくらい、私でも知っている)

 近年は四番以外に最高の打者を置く作戦も増え、事実野球部も三番のエリスが不動の中心打者である。

(しかしそれはつまり、エリス先輩との勝負を避けられた場合、四番である私の双肩に重責が回ってくるということだ)

 美鶴には自信があった。

 ノノほどではないが、どんな競技でも苦労したことはない程度の運動神経はあった。

 しほりほどではないが、パワーを生かしてガンガン鋭い打球をかっ飛ばせた。

 だからこそのこの打順だった。

(だというのに、この体たらくは何だ?)

「ストライーッ!」

 内角に食い込むシュートに腰が引け、バットが出ず見逃してしまう。追い込まれた。

(共に入部した紋白があれだけの活躍をしているというのに、私はどうだ?)

 四番がもっと存在感を発揮できていれば、エリスが歩かされることも減る。

 今の美鶴は、完全に安パイだと舐められている。

 美鶴は我慢ならなかった。だがそれを見返すにはバットしかない。

 投手の鈴木あかねが左腕をしならせ次の球を投げ込んでくる。

 左投手と対戦するのが初めてだとか、そんな言い訳をこねくり回す時間も権利も無い。

 ひたすら喰らいついていくしかない。

(高めのストレート! いける!)

 ガインっ。

 しかし美鶴のバットは、そんな気の抜けた音を吐き出した。

 力の無い打球がふらふらと上がる。

 がっくりと肩を落とし、歯を食いしばって走り出すが、一塁ランナーのエリスは進塁せずにベースに戻っていた。インフィールドフライが宣告されていた。打球はショートが危なげなくキャッチ。二アウト満塁と変わる。

「クソッ……!」

(この回で点を取れなければ全て終わりだというのにまた足を引っ張ってしまっている。打てない四番に存在価値などあるものか……!)

 俯いてベンチに戻りかけながら、美鶴の口から勝手に言葉が漏れだした。

「こんな……こんなことなら――」

「野球なんてするんじゃなかった、などと口にしたら赦さんぞ」

 美鶴が顔を上げると、そこには茶々が腕を組んで立っていた。

「部長……でも私は――」

「五月蠅い。野球始めて二週間のペーペーが生意気な口を利くな」

 茶々はバットで美鶴の頭をヘルメット越しにコツンと小突いた。

「そんなことを言われたら、自滅して途中降板した我の立つ瀬が無いだろうが。第一――」

 茶々はバッターボックスへと向かう。その背中、背番号1越しに、彼女は続ける。

「――三回裏のバント処理、良かったぞ。あれで我は一度救われた。貴様は十分にチームに貢献している。あとは先輩に頼っていれば良いのだ、一年坊め」

「……っ!」

 個人競技しか経験のない美鶴には、茶々の背中がどんな巨漢選手よりも大きく見えた。

(これが、チームを背負ってきた人間の背中か。私も、いつか――)


■□   □■


 一打出れば同点、あるいは逆転。

 しかし凡退すれば敗北。

 この瀬戸際で、茶々は平然とボールを見逃した。

「ボール」

 球審の手は上がらない。固唾を飲んで注目していた観客からため息が漏れる。

 これで二ボール二ストライク。追い込まれても、茶々は平然としている。

 マウンド上での動揺は、降板してサードに就くとあっさり元通りになってしまった。ただし再びマウンドへ上がれば同じことが起こるのだろう。イップスとはそういうものだ。

(私の役割はチームを勝利へ導くこと。マウンドでも、サードでも、バッターボックスでも、どこに居ようが変わらない)

 相手左腕の鈴木あかねを真っ直ぐ見据えながら、息を一つ吐いてバットを構え直す。

 彼女は一年生だが堂々たるマウンド捌きだ。中学の頃から実戦経験は豊富なのだろう。

(いい球を放るな。是非欲しい人材だ。だが――)

 あかねが第五球を投げ込む。外角、際どいコースの直球。

(――野上ほどではない!)

 左足を内側に踏み込み腕を伸ばして喰らいつく。

 快音が響いた瞬間、ランナーが一斉にスタートを切る。

 打球は鋭く一・二塁間を抜ける。

 みまがホームを駆け抜け、5-5の同点。

 さらに逆転せんとセカンドランナーのノノが三塁ベースを回り――

「ストップストップ! ダメダメ止まってストップだって!」

 サードベースコーチに入っていた蓬がノノを止めた。

 ホームへ突っ込む気だったノノが慌ててサードへ戻るのと同時に、ライトからの矢のような返球がホーム上のあかりのミットへ突き刺さっていた。

「んー、行けると思ったのに……」

 サードベース上で口を尖らすノノを蓬がなだめる。

「外野かなり前進してたから。それにライトはあの人だし……」

 ライトに入っていたのは、降板した静佳。

 女子野球は基本的に男子よりもランナーの足が遅いので、ライトに強肩選手を置き前進守備をさせ、ライト前に打球が飛んだら積極的にファーストでのライトゴロを狙うのが一つの定石なのである。

「ふーん。まあ、そんなことより同点よ同点! このまま一気に逆転しちゃうわよ! さてノノをホームに還してくれる次のバッターは――」

『六番、レフト、倉さん』

「あ……これ延長ね……」

「――そうとも限らないわよ?」

「え? どゆこと?」

 ポカンとしているノノをよそに、メガネの奥で不敵な笑みを浮かべた蓬は審判にタイムを要求。しほりの許へ走っていった。


■□   □■


 同点に追いつかれたが、そんなこととは無関係に捕手の小波あかりは震えていた。

 原因は四回裏の打席で、蓬に囁かれた言葉。

『一応謝っておかなきゃなって――倉しほりのことで』

『入部前だったとはいえ、保健室送りにしちゃって本当に申し訳ないです』

『安心してください。もうバットを投げることはほとんど無いと思います』

『でも怖いですよね、キャッチャーやってると。あのスイングは』

『たまにあるじゃないですか。スイングした後のバットが後頭部に当たること』

『私も、この二週間のうちに五回くらい――ヘルメットも何個も駄目にしちゃって』

『危うく脳挫傷で死ぬところでしたよ。はっはっは――』

 もちろんこれらは全て蓬の口から出たデマカセである。

 だがそうとは知らぬあかりは、打席に向かってくるしほりを見て手の震えが治まらない。

 彼女のバットミサイルを顔面に受けたときのことは今でも夢に見る。

 あまりに恐怖でうなされるので眠るのが怖くて不眠症になり、睡眠薬が手放せず、保健室でカウンセリングを受ける日々が続いている。

 野球部ベンチは再びシールドを構えて応援。

 ファーストとサードのランナーコーチはその場に塹壕を掘って身を隠している。

「あば……あばばば……!」

 ガチガチと合わない歯の根を鳴らしていると、しほりのところへ蓬が駆けていく。彼女がしほりに何かを告げると、しほりは少し驚いたような顔をして頷いた。

(おい……何か面倒な作戦仕掛けてくるんじゃないだろうな……やめろ! こんな緊張する場面で余計なプレッシャー与えたら何が起こるか分からないだろ! 何も考えず降らせてやれ! 楽にさせてやれよ楽に! こっちは命かかってんだぞ!)

 しかしあかりの祈りは届かず、しほりはとても緊張したような硬い面持ちで打席へ――

「あっ……」

 カラン、とバットを落としてしまった。

(ああああああああこれめっちゃ緊張してるううううううう……!!)

「ごっ、ごめんね豪大夫!」

 慌ててバットを拾い上げて打席に入るしほり。

「おっ、おっ、おおちおちおおちついてね! だだだいだいじょぶだから! らくにいきましょらららくらくに! しっかりにぎって、ね! ね!?」

「あ、ありがとうございます!」

 あかりの命乞いにも似た懇願に、しほりはぺこりと会釈してバットを構えた。

 もう逆転のピンチということはあかりの頭から吹っ飛び、なんとか生きて帰るという一心になっていた。

 第一球、外角に外れたストレートを要求。投手のあかねはその通り投げ込んでくるが、しほりは構わず全力フルスイングで空振り。風圧があかりの顔に吹き付け、勢い余ったフォロースルーが地面を抉ってクレーターを作る。

「はあ……っ、はあ……っ!」

(そうだ……大丈夫、この子は全部振ってくれる。絶対に掠りもしないとこに投げてれば、三球三振で終わる。生きて、家に帰れる……!)

 それでも直球を要求するのは恐ろしく、二球目は低めのスライダーで同じく空振り。

 このまま三球で仕留めようと、同じサインを送る。

(――でも、もし万が一のことがあったら……)

 しかし、どんなときもリスクを考える有能な捕手としてのマイナス思考が、彼女についつい悪い仮定を植え付けていく。

(回ったバットが後ろから、後頭部に当たる……レンガに穴開けるくらいだし、ヘルメットなんて簡単に突き破る……頭蓋骨だって……そのまま頭に抉りこんで、脳ミソをぐちゃぐちゃにかき回されて……スイカ割りのスイカみたいに、脳漿が撒き散らされて、脳ミソがぼろぼろ零れ落ちて……今度こそ……死――)

「あかりッ!」

 どこかから静佳の鋭い声がして、あかりがおぞましい妄想から現実に引き戻された時、既に第三球が放られていた。スライダーが指にかかり過ぎたのか、ホームの前でワンバウンド。あらぬ方向へと跳ねていこうとしていた。

(え……あ……マズイ――オサエナ、キャ――)

 慌てて体で止めにいこうとするあかり。

 しかしその瞬間、しほりのスイングが目に映る。

「ヒッ!」

 恐怖に冒されたあかりは、そちらに気を取られてボールから目線を切ってしまった。

 しほりは大きく空振り。バットがあかりを襲うことはなかった。

 しかしボールはあかりの横を抜けていく。

「走れ!!」

 蓬の大声を聞き、しほりが慌てて一塁へ駆け出した。

 二死なので一塁ランナーが居ても振り逃げが成立する局面だ。

 さらにノノがサードから猛然とホームへ突入してくる。

 あかりはやっと事態に気づき、慌ててボールを探す。

「小波先輩ボールそこ!」

 本塁のカバーに駆けてきたあかねが指し示す方向に転がった白球を見つけ拾い上げる。

 振り返ると既にノノが本塁へ滑り込んでいる。

「ファーストだ!!」と声が掛かる。

 バッテリーミスではなく振り逃げなので、バッターランナーを一塁でアウトにしてスリーアウトに出来れば得点は認められない。

 しほりは必死に走っているが未だベースに到達していない。

「んぁあああああッ!!」

 情けないやら悔しいやら、あかりは声を上げてファーストへ送球。

 しほりは思い切って決死のヘッドスライディングを敢行。彼女が土を撒き散らしながら雪崩れ込むのと、ボールがファーストのミットに吸い込まれたのはほぼ同時。

「うう……」

 顔まで泥だらけになったしほりは、一塁ベースを抱きしめながら審判を見上げた。

 彼女が目にしたのは、両手を大きく水平に広げた塁審の姿。

「や……やったぁあああぁ……!」

 6-5。七回表二死の土壇場から、野球部、起死回生の再逆転。


■□   □■


「おい」

「うん」

 交わす言葉はそれだけで十分。二人は立ち上がってグラブとミットを嵌める。

 ベンチの前、みなものキャッチボールの相手は琢磨だ。

 一球一球、彼女の球を受ける度、アルバムを一ページずつ捲るように、かつての情景が甦ってくる。

 みなもの笑顔は輝いていた。

「絶好調だな」

「もちろん!」

 そのうちに、七番の彰子が三振に倒れイニングが終了。

 塁上から引き上げてきたしほりが皆に手荒い祝福を受けるのを眺め、琢磨は蓬に尋ねた。

「タイム取った時、倉に何言ったの?」

「『打席に入る前にバットを落とせ』って」

「はぁー……いやらしい奴だなお前ホント……」

「勝ちゃあいいのよ」

「あ、あの、石山くん」

 そこへしほりがおずおずやって来た。

「あ、ありがとう……石山くんが付きっ切りでスイング見てくれたおかげだと思う……」

「いや、倉が諦めずにフルスイングを貫いたのが良かったんだよ」

「う、うん! これからもよろしくね!」

 琢磨はとりあえず生命保険のパンフを取り寄せることを決心した。

「傾注ッ!」

 逆転に浮かれたムードのベンチ。二塁から帰った部長が一喝。

「徒然草第百九段より、高名の木登り曰く『あやまちは、安き所に成りて、必ず仕る事に候ふ』――ピンチの後にチャンスありと言うが、また逆も然り。逆転に成功し、勝利が目の前にぶら下がった今こそ集中して事に臨め。以上、散ッ!」

 グラブを嵌めてグラウンドへ散っていく野手陣。

 茶々はみなもの許へ歩み寄ると肩に手を置いた。

「任せたぞ。最後までマウンドに君臨してこい」

「もちろんです!」

 みなもの元気な返事に安心したように頷くと、彼女もサードの守備位置へとツインテを揺らしていく。

 みなもは琢磨にだけ聞こえる小声で呟いた。

「……良いチームだね。ここで野球出来たらとっても楽しそう」

「ホントにな」

「クマちゃん、絶対勝つよ。クマちゃんと一緒だった三年間と、クマちゃんが居なかった五年間――その全部をぶつけて勝ってくるよ。だから――」

 みなもはグラウンドへの一歩を踏み出し、惚れ惚れするような笑顔で振り返る。

「――これからもずっと、一緒に野球しようね!」


■□   □■


 対するソフト部ベンチ――

「ああ……逆転されちゃった……」

「スマン……ウチがあの時エラーしてなければ……」

「そんな! 私だってチャンスで打てなくて……」

「違う。一番悪いのは、あの子のスイングにビビってパスボールした私……」

「うう、このままじゃ負けたらメンバーが野球部に取られちゃうよ……」

「――ワレワレ、シタ、ムク、ハヤイ。マケ、カンガエル、オワッタ、アト」

「デドさん……?」

「アイテ、センシ、ホンモノ。マケ、カンガエル、シナイ。カンガエル、メノマエ、タタカイ、カツ、ソレダケ。ワレワレ、マダ、ナル、ホンモノ、センシ、デキル……!」

「デドさん……!」

「シズカ、イル! ワタシ、イル! ギャクテン、デキル! ゼッタイ、カツ! ワレワレ、メザス、ニッポン、イチバン! ココ、タチドマル、ハヤイ!」

「そうだ、デドさんの言う通りだ!」

「デドさんに言われたら、いける気がしてきたよ!」

「さっすがデドさん! コンゴの至宝!」

「へへっ! デドさんにゃ敵わねぇや!」

「あはは、言おうとしてたこと、みんなアジっちゃんに言われちゃったね」

「部長!」

「アジっちゃんの言う通り、まだまだ勝敗は分からないよ! 頑張ろう!」

『おーう!!』


■□   □■


 七回裏、ソフト部は先頭の八番・新條純に代えて、篠森ひろ子を代打に送った。

 大柄な体格に似合わず、彼女はクサいボールをカットで粘り、甘いボールを狙うのが上手なタイプの打者だった。

 気合い十分でマウンドへ登ったみなもだったが、コントロールがアバウトなタイプの彼女には、ひろ子のような打者は非常に面倒な相手だった。

「ボール!」

 八球目に投げ込んだ速球は僅かに外に外れた。ついにフルカウント。

(面倒な奴だ……ここで先頭は出したくないし……)

 サインを決めあぐねる蓬だったが、マウンド上のみなもが彼女を呼んでいるのに気が付いた。タイムを取って「どしたの」と駆け寄ると、みなもは口元をグラブで隠して言った。

「あのね、ちょっと試したいボールがあるんだけどね」

「――え? まだ投げてない球種があるの? 聞いてないわよ?」

「うん、クマちゃんは知らないの。だから実戦で投げたこともないんだけどね」

「そういうことは先に言いなさいよ。で、何? スライダー? シュート?」

 みなもの口から新たな球種の名を聞いた蓬は、呆れたように目を見開いた。

「はぁ? 本気……?」

「うん。やってみない?」

 蓬はしばらく唸ったが、みなものワクワクオーラに押される形で溜息交じりに頷いた。

 その様子をじっと観察していたのは打席のひろ子。

(ふーん、ピッチャーが押し通した雰囲気。投げたいボールで勝負ね。なんだろな、やっぱ速球かな。ゾーン内で仕掛けてくるよね。荒れ球だし甘いのだけ待って、めんどいのは全部カットよカット)

 バットを短く持ち、いち早く球種を見破る為にボールへとにかく集中する。その集中力と動体視力が、彼女の繊細なバットコントロールを可能にする武器だった。

 みなもが大きく振りかぶった時、その集中は最高に達する。

 そして九球目が投じられた瞬間――ボールは消えた。

「――え……?」

 暴投だと思った。ひろ子とみなもの間、ホームとマウンドの一八・四四メートルの空間をいくら見渡しても、白球が存在しない。

(え? あれ? どこ? ま、まさか――)

 ひろ子は視線を上に向けた。あった。

 ボールは高く高く、視点の数メートル上、夜の帳が下りてきた空にぽかりと浮かんだ。

 大きく山なりに投じられた、キャッチボールよりも遅いスピードのスローボール。

(なんであんなところに……!? それにおっそ! 縫い目まではっきり見えるし全然落ちてこない……!)

 ひろ子が感じていたのは、まるで時間が止まっているかのような静寂だった。

 彼女自慢の集中力と動体視力、そして直前までのノビのある速球とのギャップが、スローボールを更なるスーパースロー映像に見せていた。

(――ゆっくりとだけど、確実に……こっちに向かってきてる)

 しばらくぼーっと眺めていると、白球は紙風船のような速度で彼女の許へと落ちてきた。

 心なしかふわふわ揺れている。

(これキャッチャーまで届くの……? ゾーン入る? 審判これ取る? 分からない……分からないからこそ……カット、しなきゃ……バットを出して…………あれっ? 私、今ちゃんと構えてる……? えっと、こっから、どうやってバットを振れば……んんん? 私って……いつも……どんなふうに……バット振ってた……?)

 あんな高さのボールに、あんな遅いボールに、上を向きながらバットを当てる。

(なにそれ? 私、そんなの知らない……!)

 高く上がった球を見上げたため、通常のバッティングではあり得ないほど顎と視線を上げてしまったひろ子は、自分のフォームを見失っていた。

 混乱の末、ゆっくりと目の前を通過していくボールにバットを出すことが出来ない。

 パスっと気の抜けたミットの音がして、ひろ子の時間の流れが普通に戻る。

「……ボール!」

(は、外れてたか……良かった……)

 球審のコールに安堵の息を吐き、観衆のどよめきの中、ひろ子は一塁へ向かった。


■□   □■


「……な、なんじゃそりゃ……」

 開いた口が塞がらないとはこのことだった。

 琢磨はその球種の存在は知っているが、みなもがそれを投げるなんて知りもしない。

「イーファス……!?」

 別名・超遅球。野球マニアなら知る人ぞ知る魔球・イーファスピッチ。

 名前の通り、超遅い球。

 一見大したことなさそうだが、打者が通常体験しないような速度、軌道で投じられるイーファスは、上手に使えば打者の呼吸やタイミングを乱せる、一種の裏技となる。

 もちろんただの遅い球なので、使いどころを誤れば簡単に対応されるし、審判によってはゾーンに入っていてもストライクを取ってくれない。そもそもちゃんとコントロールして投げることが至難の業というデメリットも多い諸刃の剣である。

(あいつめ、この五年のうちにそんな隠し玉を……)

 なお琢磨は気が付いていないが、みなものイーファスは回転数が極度に少なく、空気抵抗を受けてふらふらと不規則に揺れるので、一層厄介な代物に仕上がっている。

(ま、そう多投できる球じゃないし、今考えるべきはランナーを出してからの投球だよな。まあでも今日のみなもの調子なら今まで通り投げてればそうそう還されることは――)

 そこで琢磨は重大な事実に気が付く。

(――あれっ……みなもの奴、ずっと投げ込みしかやってないんだよな……?)

 彼女は五年間、一度もランナーを背負って投げたことがないということに。


■□   □■


 篠森ひろ子は、次の塁を目指す意識には常に高いものがあった。

 九番打者の興津高峰が打席に入り、球審のプレイがかかると、やや大きめのリードをとってみなもの挙動をじっと観察。少しでも隙があれば二塁いってやるぞとプレッシャーをかけようとする……が、少し経って違和感に気づく。

 みなもがひろ子に全く視線を向けないのだ。

 普通はランナーを目で制す為に、右投手なら左肩越しに一塁へチラチラ視線をやるものだが、みなもはまるでひろ子など居ないかのように挙動が今までと変わらない。

(……なにこれ……いいの? いっちゃっていいの? いっちゃっていいやつ?)

 みなものあまりの無警戒っぷりにかえってひろ子が二の足を踏んでいるうちに、みなもがモーションに入った。

 いつもの悠然としたワインドアップで。

「いいのぉ!?」

 驚愕しながらもさすがにひろ子はスタート。全力で二塁へ駆ける。

 それを横目で察知したのはセカンドの彰子だった。

 タイミング的にはどうやってもセーフっぽかったが、それでも蓬はセカンドへ送球してくるかもしれない。それを受けてタッチにいくのは彰子の役目。すかさず二塁ベースへカバーに入らざるを得ない。

 彰子の堅実な守備もあり今まではなかなか抜けなかった一・二塁間が広く開く。

(あ、そこ開けてくれた?)

 バットを振り被った興津高峰は舌なめずり。

(そこ、狙うのは得意よ、私。あとはヤマはったストレートが来れ、ば!)

 そして来た初球は、ストレート。

(はーいちょっと通りますよっ!)

 球の勢いに逆らわずにバットをおっつける。

 打球はマウンド横で跳ね、そのまま狙い通りに一・二塁間を切り裂く速いゴロになる。

 ひろ子がスタートしていたので結果的にランエンドヒットとなった。

 さらにひろ子は、迷いなくセカンドを蹴りサードへ――


 ――『地面に叩きつける感覚で』


 鋭利な投げ槍を思わせる殺気が、彼女を刺し貫いていた。

 彼女がサードへ向かえば必ず刺し殺すと、その視線が雄弁に語っていた。

 その出所は、右翼手・伊藤我美鶴。

 定位置から大きく前進してゴロを捕球した彼女は、獲物をその射程に捉えた狩人のように、ひろ子へその射殺さんばかりの双眸を向けている。

 彼女の強肩は折り紙付き。

 それがソフト部を委縮させ、三塁ベースコーチにストップをかけさせた。

 しかし、視線を受けてニヤリと笑った者が一人。

「ファーストだ!!」

 三塁手の茶々だった。

 ひろ子がストップするのを察するや否や、一塁を指して大声で指示を送る。

 既にボールを右手に持ち直しサードへ投げかけていた美鶴は即座に体を捻じり、空中で回転するように無理やりファーストへ送球した。

「うそっ!?」

 サードへ送球されると油断し一塁ベースを前にスピードを緩めてしまっていた高峰が慌ててベースへ飛び込むが、美鶴の殺気の籠った剛球が先にみまのグラブを刺し貫いた。

「おボおおおっほぉおオおおオォぉおぉおぉオォォおおぉおヒィっ!!」

 みまの嬌声が轟き、シーンとなったグラウンドに、塁審のアウトコールが響き渡る。

 ライトゴロ、完成。一アウト、ランナー二塁。

 歓声と溜息でどよめくグラウンド。

 勢い余って地面に転がっていた美鶴は、彰子に手を引かれ体を起こした。

「さすがです美鶴様……わたくし痺れました!」

「ああ、ありがとう彰子――」

 美鶴はサードに目をやった。

 茶々が満足げに頷いてくれたのを見て、彼女は穏やかに微笑んだ。


■□   □■


「ざけんなアホ! ランナー居んのにのんびりワインドアップやるアホがいるか!」

 蓬はみなもの頭にチョップを喰らわせた。

「あぎゅ! いぁい……」

「まあ、ブランクあるあんたに確認してなかったこっちも悪いけどさ……」

「だったら叩かないでよぉ。仕方ないじゃん五年もやってないんだから! 五年って長いよ? 五年前に学校で習った勉強とか出来るっての!?」

「いや……小五の勉強内容とか普通に出来るでしょ……」

「えっ……?」

「あんた……はぁ、いいわ、もう。とにかく! クイックしろとは言わないから、次の打者からはセットで投げなさいよ! ランナーもちゃんと警戒して!」

「はぁい」

 どこまでも緊張感の無いみなもに辟易しながら、蓬はマスクを被った。

 しかしただでさえ荒れ球のみなもが、五年ぶりのセットポジションでコントロールが纏まるはずもない。

 次の一番・吉野真由にはストレートの四球。

 二番・霧ヶ峰薫は送りバントで二アウト二・三塁。

 ピンチは広がり、次の打者は――

『ソフトボール部、選手の交代をお知らせいたします。三番、梶さんに代わりまして、デドモンドデールさん。バッターはデドモンドデールさん』


■□   □■


 その存在感は、ネクストに現れたときから異彩を放っていた。

「なんだあの身体……本当に女……?」

 一七五センチという男並の体躯。

 雄々しく主張する盛り上がった筋肉。

 パワーという言葉を擬人化したような出で立ち。

 アジジ・デドモンドデールが左打席にそそり立つ。

「メンバー表確認した時から気になってたけど……」

 琢磨は冷や汗を流す。

「なんでこんなソフトボールアメリカ代表に居そうなとんでもない奴がベンチなんだよ」

 ソフト部ベンチが「いけー! コンゴの至宝!」などと声援を送っているので、どうやらコンゴの人らしいというのは分かった。

(コンゴ共和国かコンゴ民主共和国か知らないけど、ソフトボールをやりに日本へ来るなんて、きっとドキュメンタリー番組が一本作れるタイプの人だ。しかも両打ち。絶対ヤバい。大丈夫かなぁ。デッドボールなんか当てたら、みなも踏み潰されるんじゃないかなぁ)

 ベンチで一人ハラハラする琢磨。

 しかし鹿菅井は冷静だった。

 スッと立ち上がり、みなもへ向かってミットを掲げる。敬遠だ。

 二塁ランナーが還ればサヨナラだ。ランナー二・三塁だろうが満塁だろうがリスクは変わらない。むしろどの塁でもフォースアウトを狙えるので野球部に有利になる。

 問題があるとすれば二つ。

 まず一つは、打者との勝負に拘るみなもは敬遠を嫌って、いつも駄々をこねること――

「フンッ!」

「ぐほっ!?」

 これは蓬がみなもの腹に掌底を一発喰らわせることで言うことを聞かせた。

 ということで唯一の問題は、ネクストでじっとみなもを観察している、彼女だ。


■□   □■


 アジジが悠々と一塁へ歩いていく。

 最終回、二点ビハインド。二アウト、満塁。

 こんな絶好の場面で、打席が彼女に回る。

 下校中に通りがかり加わった者達も含め、いつの間にか大量に詰めかけた観客のボルテージは否応無しに上昇していく。

 本日、スリーベース二本、二打点。

 強豪・金剛学院高校ソフトボール部、主将、兼エース、兼四番――野上静佳。

 野球部ナインはその存在感に息を飲む。

「今日ヒット二本……しかも第一打席はエリス先輩のファインプレーが無ければ普通にヒットだった。実質やられっぱなしね」

 マウンド上に集まった内野陣の中で、蓬は努めて冷静に言葉を紡ぐ。

「さて、どうしましょうかね」

「ねぇねぇ」みなもの緊張感の無い声。「もうワインドアップに戻していい?」

「構わんだろう」

 答えたのは茶々だった。

「ホームスチールを仕掛けてくるとは考え難い。我ならば野上に好きに打たせる方を採る」

「それに」エリスが後を受けた。「ミナモなら、変にRunnerを気にするより、好きなように思い切り投げ込んだ方が抑えられると思いマス。ねっ?」

 みなもは事も無げに、にへらと笑って、こくりと頷いた。

「簡単に言ってくれるわねーまったく」

「そうでなければ困るというものだ」

 皮肉めいた苦笑を浮かべる蓬。茶々は上機嫌で言った。

「此奴には我と共に全国の並み居る強打者を相手取ってもらわねばならんのだ。このようなところでソフトボール部などに苦戦しているようでは、これ足れりとはならんよ」

「それチャチャが言いマス?」

「我だから言えることさ。さて、あとはバッテリーに任せるとしよう。この戦に終止符を打ってこい。後ろのことは任せておけ」

 内野陣は散り散りになっていった。マウンドにはバッテリーの二人が残る。

 細かくプランを決め、いくつかサインの確認をして、蓬はホームへ戻っていく。

 マウンド上には、一人。

 チームの命運を託された、小さな背。

 背番号10が、笑顔で立っている。


■□   □■


 恐怖と興奮――静佳の中で、二つの衝動が渦巻いている。

 自分が打てなければチームが負け、特待生の話も消え、野球部への転部もありうる。

 この一打席の結果で、多くの人間の人生を歪めてしまうことへの――恐怖。

 突如現れ、目の前で不敵に微笑む玉響みなもという強敵と、この絶好の場面で全身全霊の真剣勝負が出来るという、一選手としての計り知れない幸運への――興奮。

 しかしそんな状況も、強豪チームの中心として全国の猛者と渡り合ってきた静佳にとっては慣れたものだった。

 興奮の奔流を恐怖で舵を切って進む。

 彼女には僅か程の震えも無い。

 球審のプレイがかかると、観客のざわつきは消え、祈るような沈黙が訪れる。

 しかし静佳の耳には、最初から雑音は入っていない。

(伸びてくるストレート、急ブレーキのかかるチェンジアップ、大きく落ちるカーブ、そしてイーファス――その全てを同じフォームで投げ込んでくる。いいよ~、最っ高! まずはどれを見せてくれるのかな~?)

 舌なめずりをして口を歪める静佳。

 その視線の向こう、マウンド上のみなもは微笑みを湛え、蓬のサインに頷く。

 そしてボールを持った両腕を大きく、ゆったりと高く掲げる。

(お~ワインドアップ。ホームスチールは無いと思った~? 正解~!)

 茶々の推測通り、ソフト部はこの試合の行方を静佳のバットに託していた。

 みなものダイナミックなフォームで放たれる白球。静佳は呼吸も止めて注視する。

 ボールはオーバースローのみなもの腕が最も高く伸びた瞬間、上空高く飛び上がった。

(いきなりかッ!)

 ふわりと宙を舞う超遅球――初球はイーファス。

(ま、でもまだまだだね。やっぱり流石にこの球だけは、放すのが他の球よりも早い)

 みなもといえど、この特殊球だけは全く同じフォームとはいかない。

(それに多分、今日の審判はこれ取らないよ。キャッチャーのメガネちゃんもそれは分かってるだろうし、十中八九これは見せ球……でも珍しいからよく見ちゃお~)

 静佳は少し体の力を緩めながら、ボールをのんびり観察した。

 ボールは重力に引かれ放物線を描いて落ちてくる――ふわふわと揺れながら。

(――あ、これ……)

 パスッという間の抜けたグラブ音がしたが、静佳の予想通り球審の手は上がらない。

(イーファスってスローカーブの極端なやつ投げる人が多いけど、あの子のは無回転に近いね。イーファスナックル……っていうのかな? う~む、よく分かんない)

「……見たいなら、もう一球いきましょうか」

「ふふっ、嘘つき」

 蓬との上っ面だけの会話を止め、静佳は足元を慣らして打席に戻る。

(きっともうイーファスは来ない。次は絶対――)

 みなもは二球目もゆったりとしたペースでボールを放つ。

 思い切り、身体の前で。

(ストレートッ!)

 静佳の予感は当たっていた。投じられたのは全力の速球。

 初球のイーファスは時速四〇キロ程度。

 そしてみなもの速球は時速一〇〇キロそこそこ。

 速度差、実に六〇キロ。この緩急は、莫大だ。

「ッ!?」

 静佳がバットを出そうとした瞬間、内角高めを切り裂いてボールがミットに突き刺さる。

「ストライーッ!」

 球審の力のこもったコールが響き、野球部側のベンチが盛り上がる。

(すごっ……ホントに一気に加速してるみたい……!)

 ソフトボールの軌道とはまるで違う。静佳のこめかみに汗が一筋。

(……ま、ストレートで押してくるのは予想通りかな。そういうの好きそうだし)

 しかしその表情は変わらず冷静だった。

(でも、真っ直ぐだけでいけると思ってるなら――舐めんじゃねえよ)

 三球目――真ん中高め、ストレート。静佳はバットを出しかけるも、途中で余裕を持って引く。球はやや高く浮き過ぎ、ボール。

 四球目――再び真ん中高めのストレート。今回は鋭いスイングを繰り出す静佳。キィンという高い音を残し、ボールはバックネット上部へ当たって落ちた。

 二ボール二ストライク。所謂平行カウント。投手がストライクを取りにくることが多いため、打者有利と言われる状況。

(う~ん、まだ下叩いてるか~。でもタイミングは掴んだかな~)

 そもそも速球の体感速度では、マウンドまでの距離が近いソフトボールの方が上。その異常な伸びにさえ慣れれば、十分みなもの速球に対応可能だろうと静佳は思っていた。

(問題は、変化球で攻められた場合か……)

 速球のタイミングに慣れれば慣れるほど、変化球で外されれば弱い。

(これでチェンジアップ投げてこられたらエグイな~……ん?)

 静佳はバットを構えながら眉を顰める。

 みなもが首を横に振った。

 ここまで彼女は蓬のサインに全て一発で頷いていたというのに。

 さらにもう一度、捕手のサインを拒否。

 彼女がやっと首肯したのは、三回目のサインを見てだった。

(――もしかして……まさか……?)

 そして投じられた五球目は――全力のストレート。

(マジ~!? 君ってやつぁ!)

 変化球に対応しようとしていた静佳は、外角の速球にやや振り遅れるもなんとかバットを当て、一塁線へのファウルで逃げる。

(チェンジアップとカーブ拒否からのストレートかな? 搦め手拒否のあくまで真っ向勝負かよ! 痺れるね~! そういうの大好き!)

 一度ヘルメットを外し、髪を掻き上げる。

 口元が勝手に笑みの形をとるのを収める。

 ここで心を興奮に支配されてはならない。

 静佳は一息ついて打席に立ち、ゆっくりと目を閉じた。

 そして、確かに聞いた。

 自分の右側、下方。

 蓬の『やれやれ』とでも言いたげな、短い、微かな――溜息。

 そしてみなもは、サインに一発で頷いた。

 誕生日に欲しかったプレゼントを与えられた子供のような微笑みで。

(――そ。来るんだ。最後まで真っ向から。なら、受けて立つのが礼儀だね)

 絞る――ストレート一本に。その軌道とタイミングは、既に掴んだ。

(――ゾーンに来たら……絶対に、決める)

 みなもがゆっくりと両腕を天に掲げる。

 軸足に体重を乗せ、左脚を高く上げ、振り下ろしながら滑らかに重心移動。

 ボールを握った右手を、弓を引き絞るように後ろに伸ばしながら、左脚を着地させ、遅れて腰を捻る。

 体重を左脚に全て移行させつつ、上体を傾け、右腕は天頂を指し示すかのように高く、高く振り下ろされる。

 小さな身体をフルに使った、呪いのように積み重ねられた五年間の重みを爆発させたような、いつも通りの躍動感溢れるフォーム。

 そこからぐっと前へと、押し込むように回転を掛けられた第六球目。

 野球部、ソフト部、そして学校側の思惑、全てに決着を付けるべく――

 その一球が、投じられた。

(来たッ! ど真ん中ァ!!)

 静佳はソフトボール選手独特の小さなテイクバックからスイングを始動。

 コンパクトに、しかし力強く。

 今までの競技人生で培ったものを総動員して立ち向かう。

 静佳にはしっかりと見えていた。みなものボールが、視界の一点を進んでくる。

 だんだんと、その影が大きく、はっきり見えてくる。

 そして、そこから一気に加速し伸びて――

(――な……っ)

 ――こなかった。


(チェンジ……アップ……ッ!?)


 静佳は大きな勘違いをしていた。

 玉響みなもは、決して速球派ピッチャーではない。

 彼女が執着しているのは、ストレートでの勝負ではない。

 ただ、三振を奪うことのみに飢えている。

 手段は問わない。真っ直ぐでも、変化球でも。

 五球目、蓬のサインはカーブでもチェンジアップでもなく――『首を振れ』が二回。

 六球目、蓬の溜息は、当然ブラフ。

 そして勿論、プラン通りのチェンジアップ。

 みなもの微笑みは、ただ静佳を三振に取る勝負球だったからに過ぎない。

(踊らされてた……掌の上で……私は――)

 バットは回る。もう何人(なんぴと)たりとも止められない。

 ボールが到達する前に空を切った。

 遅れて響くミットの音。試合の終了を告げる福音。

 歓喜の咆哮と、落胆の嘆息が、グラウンドに吹き荒れた。

 最終スコア、6-5。

 それぞれの居場所を賭けた戦いは、野球部の勝利で幕を閉じた。


■□   □■


 その瞬間、琢磨はただ歓声を聞いていた。

 目の前が曇ってよく見えない。

 マウンド上に皆が駆け付け、ひとかたまりになって騒いでいる。

 やがてその塊が、もぞもぞ動き出してこっちへ近づいてくる。

 一人は、駆け足で。

「なに泣いてるの、クマちゃん」

 彼女が目の前に立って、面白そうに言った。

 そこで初めて、琢磨は自分の両目から涙があふれ出していることに気が付いた。

「みっ……みだっ……」

 上手く言葉がでてこない。子供みたいで恥ずかしかった。

 右の袖で目元を拭い、クリアになった視界で目の前のみなもを見つめる。

 興奮して真っ赤に染まった、林檎のような頬。やっぱり、子供みたいだと思った。

(結局俺たちは、ずっとあの頃のままなんだな――)

 琢磨はみなもの頭を左手でがしゃがしゃ乱暴に撫でた。

「あぶぶ……んふふっ」

「ナイスピッチだったよ、ホント」

「でしょ~」

 二人は揃ってくしゃっと笑った。

「おかえり、みなも」

「ただいま!」

 帰りの遅い亭主を迎えるのも、女房役の役目なのだ。

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