【第5章】エースナンバー
濃密な時間はあっという間に過ぎ去り、ソフト部との試合は明日に迫っていた。
「次! サード!」
茶々の打球はグラウンドを跳ねながら美鶴の正面へ。
「オーライ!」
美鶴はボールを迎え入れるように丁寧に捕球し、ステップしてファーストへ送球。強烈なボールがみまのグラブへ収まる。
「んぁあんっ! イイ……!」
「動作が遅い! 肩の強さに甘えるな! あの程度の当たりなら前進してボールを迎えに行け! 次! レフト!」
次はレフトへ浅いフライを打ち上げる。
「え……あ~……あぁぁー……」
左翼手の中はふらふらと前進。なんとか落下点付近までたどり着き手を伸ばすも、突っ込みすぎて捕りそこない、足元でバウンドした硬球が顎を直撃。そのまま口から泡、鼻から鼻汁を噴出して死んだ。
「まったく……紋白、部室に放り込んでおけ」
センターのノノが、惨状にドン引きしつつも死体を引きずって行った。
琢磨は溜息を吐き、しほりの方へ向き直る。
「どうよ倉、少しはバットに慣れてきた?」
「う、うん……怖くは、なくなったかな……」
しほりは金属バットを質感を確かめるように抱きしめた。
彼女の緊張を取り除くために琢磨が提案した解決法は、練習時間以外も、起きているときも寝ているときも、一日二十四時間ずっとバットを握って過ごすというものである。見て持って触って撫でて握って、扱いに慣れることで恐怖心を無くそうという狙いである。
「い、石山くんに言われた通り、お風呂に一緒に入って洗ってあげたり、寝る時も抱っこして一緒に寝たりしてみたら、な、なんか可愛く思えてきて……」
頬を桃色に染めながらバットを優しく撫でるしほり。登校中も授業中も休み時間もバットを手放さないので、影で『死神に金棒』などと言われていることを彼女は知らない。
「よし、じゃあ構えてみて」
「え……あ、うん……ごめんね豪太夫……」
豪太夫と名付けられたバットに申し訳なさそうに声を掛けてから、しほりは幾分か落ち着いた態度でバッティングの構えをとった。
「うん、少し硬いけど良い感じ。さあ振ってみよう」
琢磨はその場に掘った塹壕に身を隠す。
しほりはふう、と息を吐くと、豪太夫を振りかぶり、思い切り腰を捻った。太い一本三つ編みが宙に踊り、遅れてバットが振り下ろされる。
「おお……!」
轟ッ、と空気を切り裂く音が響く。振り抜かれたバットは、しほりの身体の軸を中心に綺麗に回転。しかししほり自身がその勢いを制御出来ず、フォロースルーで右手が離れてしまう。だが左手は離さない。豪太夫の遠心力に振り回され、尻もちをついてしまっても、バットは彼女の左手に最後までしっかりとグリップされていた。
「やった! 飛ばなかった!」
塹壕を飛び出してしほりの下へ。彼女は恥ずかしそうに顔を伏せ、豪太夫を抱きしめた。
「ご、豪太夫を投げたりしたら可哀想だから……」
「そうだな。転びはしたけど、スイングも良かったぞ」
「う、うん……! その、バットを振るのは怖かったけど、何か練習出来ないかと思って、ずっとプロのバッティングフォームを模写してたんだ。ほら――」
しほりは一冊のスケッチブックを取り出した。中には白いページにびっしりと様々な野球選手の連続写真のようなスケッチが描かれている。同人作家のしほりらしいイメージトレーニングだ。
「へー、それにしても上手いもんだ……」
ぺらぺら捲っていた琢磨だったが、ふと、あるページに目が留まる。
「ねえ、この全裸で息を荒げてる切なげな表情の男さ、なんかローランに似てない? そしてそいつに後ろから抱かれてる、やっぱり全裸で息を荒げてる切なげな表情の男は、どことなく俺っぽいような――」
「ああああああああああっ!!」
しほりはスケッチブックをひったくった。
「ダメっ! これは見せられない!」
「いやでもその濃厚な絡みをしていた二人は間違いなく俺とローラン……」
「ま、まだネームだから! 本が出来たら一冊あげるから待ってて!」
「本!? 売る気なのかそれ!?」
「で、でも、ルフェーブルくんはOK出してくれたよ……?」
「う、嘘だろ……!? そして何故ローランには許可を取って俺には取らない!?」
「しかも今度の即売会でコスプレして売り子もやってくれるって……」
「どんだけノリノリなんだよあいつ……!」
(そんなんだから俺達のゲイ疑惑が払拭できないんだよ!)
「駄目だ……最早この大いなる流れには逆らってもどうにもならない気がする……」
「えっと……ど、どうしてもって言うならキャラデザ変えるけど……」
「いや、もういいよ……その代わり、俺の下半身のバットはやや大きめに……」
「う、うん! 任せておいて! そりゃもうエッグい大業物に仕上げるね!」
「ハハッ、モウドウニデモナレ……ところで――みなもからは何も連絡ないまま?」
「あ――うん……な、何度も連絡してるんだけど……」
状況は大して変わっていなかった。
相変わらずの不登校で音信不通。みなもは再び姿を消した。
「倉! お前も守備練習に参加しろ! ライトに入れ!」
「あ……は、はい! その……石山くん」
茶々に呼ばグラウンドへ駆け出しかけたしほりは、一度立ち止まって振り向いた。
「みなもちゃんのこと……多分、私じゃ駄目なんだよね。中学に入る前のこと、私なんにも知らないし……。お願い、みなもちゃんのこと、また笑顔にさせてあげて。私も、みなもちゃんの笑顔……大好きだから」
「――ああ、あいつのことは、俺が何とかする。絶対に」
「うん! 私は、私の頑張ることを頑張るから!」
しほり笑顔でフィールドへ駆けていった。
(……こんなに優しい女の子が『死神』なもんかよ)
琢磨は両頬をパチンと叩き気合いを入れた。
「うし! 俺も俺が頑張れることを頑張ろう!」
今は野球部の皆が良い練習が出来るよう手伝うこと。
そしてみなもの為には――
「――どこに行ったんだよ、お前は」
一つしかない本音をぶつけること。
「どこに行けば会えるんだ、お前に」
■□ □■
「壊れろ」
コンクリートにぶつける音が響く。
「壊れちゃえ」
コンクリートにぶつける音が響く。
「もういや」
コンクリートにぶつける音が響く。
「嫌い」
■□ □■
頬に当たる風が冷たい。日中はすっかり春の陽気だが、夜はまだまだ冷える。
今の琢磨には、冬の気配の残るその澄んだ冷たさが心地良かった。
なんとかみなもにコンタクトしようと、小学校の連絡網を引っ張り出して卒業以来会ったこともない同級生にあたってみたりと手を尽くしたが、みなもの現在の居所を知る者は居なかった。
(友達の少なさがここにきて弊害を生むとは……)
部屋で頭を抱えているのが嫌になったので、琢磨はランニングに出たのである。
住宅街を抜け、近所を流れる川の堤防の上へ。そのまま川沿いに、ペースも距離も考えず無心に走った。
一〇分ほど走った頃、向かいから誰かが走ってきた。黒いスパッツを穿き、フリルがゴテゴテ付いた黒いパーカーを着て、長く鋭い黒髪の二つ結びを靡かせていた。
「――む。石山ではないか」
足を止めた彼女に呼び止められ、琢磨もその場に立ち止まる。
「……部長」
「貴様もランニングか」
闇の中でも目立つ茶々の三白眼が、琢磨の目をのぞき込むように光る。
「ええ、まあ……」
「……折角だ。共に走ろう。着いてこい」
言うが早いか、琢磨が来た方向へさっさと走り出す茶々。有無を言わせぬ雰囲気に、とりあえず琢磨も彼女の尻を追って来た道を戻る。
■□ □■
「明日試合なのに……こんなに走って大丈夫なんですか……?」
「ふん、この程度で投球に影響が出るような、そんな軟な鍛え方をしてはおらん」
あれからハイペースで三〇分は走っただろうか。琢磨がへたり込んで乱れた息を整えている一方で、茶々は平然と汗を拭いている。やや赤みの差した頬に張り付く髪が艶っぽい。
「もし――」
しばし街の灯りを無言で眺めていた茶々が、ぽつりと呟いた。
「――もし万が一のことがあった場合、我等はまだしも、お前がソフト部に馴染むのは大変だろう。ちゃんと人間並みに扱ってもらえるよう、我からしっかり――」
「やめてくださいよ部長。勝てばいいことでしょう、明日」
「……ああ。その通りだ。我は何を弱気なことを――」
茶々はタオルを握りしめ、自らに言い聞かせるように低い声を絞り出す。
「そうだ。絶対に勝つ。勝たねばならんのだ、我々は」
一迅の向かい風が二人の髪を揺らす。茶々はまんじりともせず正面を凝視していた。
「部長、ちょっと変なこと訊いていいですか」
「構わん。何でも尋ねろ。それに答えるか否かは我が決める」
「部長は、なんで野球をやっているんですか?」
「……お兄ちゃ――兄が野球をしているのを見てだな」
「切っ掛けではなくて……なんで今でも野球を続けているのか、です」
「――ふむ」
幼馴染に失明寸前の大怪我を負わせ、イップスになった。
それでも彼女は野球を続けている。
笑いながら、必死で部を背負っていこうとしている。
「野球を続ける理由……そんなものは、まあ人それぞれだろうよ。単純に楽しいから。自分の能力に見合っているから。試合に勝つのが嬉しいから。試合に負けたのが悔しいから。プロ野球選手に憧れているから。友達がやっているから。買った道具がもったいないから。ただなんとなく――」
「じゃあ、部長は……?」
「我――我らは最早、野球が楽しいとか楽しくないとか、そのような次元には存在せん」
茶々の瞳が、一際鋭く光を増した。
「我らは、野球が無くなれば死ぬのだ」
「は……?」
「自分の生活の中の最上位に野球があるのが当然。野球をするために生きていると言ってもいい。野球こそが己のアイデンティティであり全て。心も体も、野球という甘美な熱に侵され、凌辱され尽くし、抵抗する意思も無く、ただ激流に身を任せるかのように、バットを振り、ボールを投げ、次の快楽、より大きな愉悦、更なる美酒を求め続ける――このような状態を人は『依存症』或いは『中毒』と呼ぶ。野球とはな、麻薬なんだよ石山」
「部長は――」
その問いは、琢磨の口から勝手にこぼれ出た。
「――野球が嫌いになったりしませんか?」
「それこそ愚問というやつだな、石山よ」
茶々はニヤリと笑った。
「我は貴様のことを同類だと思っていたが、違うか?」
「……そうですよね」
過去に色々あったが、今も野球にかかわっている。それが答えだった。
「一度あんなに好きになったものを、そう簡単に嫌いになんかなれませんよね」
「ジャンキーの気持ちはジャンキーにしか分からぬ。貴様も立派な阿片窟の住人だ」
さて、と茶々は街の灯りに背を向けた。
「風が騒がしくなってきた。風邪をひかぬうちに帰途に就くとしよう――石山よ」
来た道へ引き返しかけたまま茶々は言った。
「明日、ユニフォームは背番号10まで用意してある。我が部はいつでも新たな人材を求めている。それが優秀な投手ならば尚更だ」
「それって……」
「ふふふ、まあ貴様がどんな奴を連れて来ようが、そう簡単にエースの座は譲らんがな」
「……それは、楽しみですね」
「ふん、抜かせ」
琢磨の軽口を一蹴し、茶々は夜のビロードの中へ消えていった。
琢磨も靴紐を結び直し、その場を後にする。遠く前を見て、風を掻き分けて。
細い月の下、横目に見える街の灯り。
この夜が明けたら、決戦の日だ。
■□ □■
チャイムが鳴り響き、土曜日の授業が終了した。
「頑張れよ琢磨。僕も応援に行きたかったんだけど、ほら今日って仮入部最終日だろう? 僕が居ると居ないとじゃあ新入生の集まりが違うからって、乗馬部の部長に『行かないで……』って甘えた声でせがまれちゃってさ――琢磨? 聞いてる?」
「……聞いてるよ。応援どうも」
野球部とソフト部の試合については既に全生徒の知るところとなっている。表向きは新入生勧誘の為のエキシビジョンマッチということになっているが、人の口に戸は立てられない。野球部が負けたら廃部になるということは大体みんな知っている。
「何してんの。さっさと行くわよ」
珍しく蓬が向こうから話しかけてきた。
「五時の試合開始までにグラウンド整備して、ウォームアップも済ませとかなきゃいけないんだから。愛しの彼と見つめ合ってる時間なんて無いの」
「お前俺達をゲイに仕立て上げんのやめてくれる?」
しかしゲイ疑惑が広まったことで、逆にいくらかの女子から敬遠されなくなったので琢磨としては複雑な心境だった。
「じゃあ何よ、緊張でもしてるわけ? 選手でもないのに?」
「それは……そりゃするだろ」
「はぁ……あのね、私達はこの二週間で出来ることは全部やった。あとはそれを全部ぶつけるだけ。だから緊張なんてするだけ無駄なの。分かる?」
「出来ることは、全部――」
俺は本当に出来ること全てやったのか――それは琢磨がここ最近、常に自分に問いかけ続けてきたことだった。みなもからは、やはり何の音沙汰もない。なんとか彼女とコンタクトを取ろうと、これ以上は違法なんじゃないかというところまで奔走した。それでも駄目だった。
(――本当に? 本当に俺の手にある全ての可能性を当たったか?)
「……はぁ、もう先行くから」
鞄を肩に掛けてさっさと教室を出ようとする蓬。琢磨は慌ててその尻を追いかけた。
「勝てよ! 野球部!」
そう応援してくれるローランに、拳を挙げて応えながら。
■□ □■
ソフト部の一年と協力してグラウンド整備を終えた頃には、グラウンドの周りには多くの生徒が応援に駆け付けていた。学院の希望の星であるソフト部のファンはかなり多いが、意外にも野球部側の観客もそれなりに居た。その内訳を見てみると――
「キャー!! エリスちゃーん!! こっち向いてー!!」「今日もカワイイよー!!」「素敵!! 素敵過ぎますお姉さまー!!」「御美しや!! まっこと御美しや!!」「あっ……アタシ、もうだめ……」「ちょっとー、こっちも一人倒れた! 担架担架! 保健室運んで!」
最も多いのがエリスのファンである。彼女がちょっとでも動く度、その一挙手一投足に黄色い悲鳴が上がる。
ちなみにエリスのファンクラブは校内外合わせて六つ活動しており、中でも校内のエリス公認公式ファンクラブ『Our dearly Ellis(略称・ODE)』では、エリス本人を招いての昼食会など各種イベントを定期的に執り行っている。
そして次にファンが多いのが――
「美鶴様ァー!! どうかこちらにお目こぼしをー!!」「あっ!! いいい今美鶴様と目が合っちゃった!!」「何ィ!? その目ん玉寄越せ!!」「グギィャァァッ!!」「ふん!! 私なんて昨日美鶴様にお誘いいただいて夜の公園の砂場で熱く――」「わたしだって濁ったプールの中で一晩中――」「なんだと貴様ら! 下半身ちぎり取ってやる!」「ドボァァァァッ!!」「ちょっとー、こっちも一人殺られた! 担架担架! 保健室運んで!」
美鶴だ。彼女がちょっとでも動く度、その一挙手一投足に黄色い悲鳴が上がり、血しぶきが舞い散る。そのうち美鶴本人や彰子が刺されないか心配になる様相だった。
あとは他の部員の友達だったり、たまたま通りがかった生徒たちだったりという感じだ。
「……ミナモ、来てマセン?」
「はい……」
エリスに尋ねられ、琢磨は見回すのをやめた。
「ひっ……エリスちゃんの半径三メートル以内に男が……ヴォぇッ!」「ゴラァそこの腐れチンポ!! エリス様と馴れ馴れしく口キイテンジャネェ!!」「お姉様!! 早くそのチンカス野郎からお離れになって!! 孕まされてしまいますわ!!」
お嬢様学校のくせに甲子園並の汚い野次が飛ぶ。これにはエリスも苦笑い。
「アハハ……あれでもとっても良い子たちなんデスヨ? 普段は……」
「大丈夫です……もう慣れてますから……」
殺意の籠った「帰れ」コールを背中に受けつつ琢磨は部室へ引っ込んだ。
いつものように散らかり放題の部室に勢ぞろいした部員達。
ピンクの細い縁取りが施された黒い『KONGO』の刺繍が胸に際立つ、薄いグレーを基調とした試合用のユニフォームを纏っている。それぞれの背に与えられた番号を背負い、大なり小なり緊張した面持ちで、開戦間近なこの時を過ごしていた。
「揃ったな」
一番奥でいつものイスに腰かけていた茶々が立ち上がる。
「いよいよ、この新たな軍団の初陣である。この戦いが、己の野球人生の一頁目を飾る者もいる。己の生きてきた時間を振り返るとき、必ず今日この日から一つの時代が始まったのだと思い返す日が来る。不安な者もいるだろう。恐れを抱く者もいるだろう。なぜならこの戦、絶対に負けられぬ一戦であるからだ」
茶々は胸のKONGOの文字を右手でグッと掴んだ。
「我らは何としても勝利し、先達の者らが連綿と紡いできたこの伝統ある野球部の歴史を、未来へと繋げていかねばならぬ。そして我らの生きる場を、この手で守り抜かねばならぬ」
鋭い三白眼が、ギラリと見開かれる。
「勝つ! 勝つ!! 勝つのだッ!! この新たな軍団の、輝かしい歴史のその一歩目を、劇的な勝利で刻み付けようではないか!! 出るぞ! 鵜飼、法螺を吹けィ!」
みまの見事な法螺貝と共に、気合いを入れつつグラウンドへと出陣していく部員達。
しかし琢磨は、その場に留まったまま遠くを見ていた。
脳髄の奥で、電撃が走ったかのような感覚。
「……石山、どうした」
最後に残った茶々が訝しげに彼の顔を見上げる。
「俺……分かったかもしれないです」
――私、もう野球なんて嫌いだから。やらなくったって、辛くなんかならないよ。
――一度あんなに好きになったものを、そう簡単に嫌いになんかなれませんよね。
――我らは、野球が無くなれば死ぬのだ。
――本当は、ミナモにどうしてほしいんデスカ?
――必ず今日この日から一つの時代が始まったのだと思い返す日が来る。
(俺と居た頃のみなもは、徹頭徹尾、野球で出来ていた)
(俺など比べ物にならない程野球に――ピッチングに魅せられていた)
(そんな彼女が、野球から離れられるなんて、本当にあり得るのか?)
(ならばどこで? どうやって?)
脳裏に浮かぶのは、刺すように鮮やかな、オレンジ色。
「――部長、俺……今すぐ行かなきゃいけない場所が出来ました」
「……それが、チームの勝利の為になると、本気で考えているのか」
琢磨は茶々の目を真っ直ぐ見つめて頷いた。
茶々は無言で一枚の紙を彼に手渡した。今日の試合のメンバー表だった。
「そいつの名を控えの欄に書いておけ。その代り、絶対に連れてこい。出来るな?」
琢磨は返事の代わりに、背番号10を付ける彼女の名を記し、茶々に差し出した。
「――よし、往け!」
「はいッ!」
琢磨は鞄を引っ掴み、一目散に部室を飛び出した。
■□ □■
【金剛学院高校硬式野球部 スターティングメンバー】
一番(中)紋白 ノノ (一年二組・159cm・右投右打・#(背番号)6)
二番(捕)鹿菅井 蓬 (一年三組・160cm・右投右打・#2)
三番(遊)エリス ランスフォード (二年二組・169cm・右投左打・#3)
四番(三)伊藤我 美鶴 (一年二組・174cm・右投右打・#5)
五番(投)藤原 茶々 (三年二組・165cm・右投右打・#1)
六番(右)倉 しほり (一年一組・162cm・右投右打・#8)
七番(二)鳴楽園 彰子 (一年四組・155cm・右投右打・#7)
八番(左)夕霧 中 (二年五組・158cm・左投左打・#9)
九番(一)鵜飼 みま (二年四組・154cm・右投右打・#4)
控え 玉響 みなも (一年一組・146cm・右投右打・#10)
【金剛学院高校ソフトボール部 スターティングメンバー】
一番(左)吉野 真由 (二年五組・157cm・左投左打・#5)
二番(中)霧ヶ峰 薫 (三年一組・150cm・右投右打・#4)
三番(一)梶 菜桜子 (一年一組・170cm・右投右打・#9)
四番(投)野上 静佳 (三年六組・168cm・右投右打・#1)
五番(三)高牧 菜花 (二年二組・165cm・左投左打・#7)
六番(右)島田 佳奈美 (三年一組・154cm・右投右打・#3)
七番(捕)小波 あかり (二年一組・164cm・右投右打・#2)
八番(遊)新條 純 (一年三組・144cm・右投右打・#8)
九番(二)興津 貴峰 (二年二組・159cm・右投右打・#6)
控え 篠森 ひろ子 (二年五組・166cm・右投右打・#10)
鈴木 あかね (一年四組・152cm・左投左打・#11)
中田 順子 (一年二組・160cm・右投右打・#12)
アジジ デドモンドデール(三年一組・175cm・右投両打・#13)
■□ □■
茶々が遅れてベンチに姿を現すと、エリスが駆け寄って来た。
「良かった、間に合いマシタネ。今向こうが先に試合前練習やってマス」
ソフト部の動きは野球部の初心者組よりもよっぽど小慣れていて、野球経験者で固めてきていることが伺える。
「分かった。此方の番になったらば、すぐにシートノックだ」
「OK。そういえば先生はいらっしゃらないんデスカネ。試合なのに」
「どうせ二日酔いでサボタージュでも決め込んでいるのだろう。毎度のことよ」
「Um……いつも困った人デスネ。それと、タクマは?」
「石山か、奴は――」
茶々は不敵に口を歪めた。
「――己の宿命に決着をつけに向かったのだ」
「……そうデスカ♪」
エリスは嬉しそうに微笑んだ。
茶々は部員全員へ集合をかけ、ベンチの前で円陣を組む。
「とにかく上位打線で点を取る」
バッティングに期待できる選手を上位打線に集中させ点を稼ぐのが野球部の戦略だった。
「全員、目を閉じて思い出せ。これまで、この試合に勝つ為にやってきたことを」
初心者組は入部してから約二週間。経験者組はそのもっと以前から。死に物狂いで積んできた練習の数々。全ては試合に勝つ為の努力である。
「そして想像しろ。それらの成果を完璧に発揮し、活躍する理想の自分を。それが未来の貴様らだ。我々は強い! この戦いは我々の存在を、帰る場所を手に入れる為の戦いだ。やつらを叩きのめし、我々の未来を掴みとれ!」
茶々の檄に、面々の瞳が爛々と燃え上がる。
「絶対に勝つぞォーーーーーーッ!!」
『オオオオオオォーーーーーーッ!!』
■□ □■
試合開始時刻。グラウンドでは審判員が両チームに整列を促していた。
理事長室の窓からグラウンドを眺めていた陸上部部長の飯島春江は、傍らの母親であり学院理事長・飯島文代に尋ねた。
「あの審判はちゃんとした審判なの?」
「ええ。アマチュア野球審判ライセンスを持ってるちゃんとした人達を呼んだわ」
「ふーん。賄賂とか渡してないの? 野球部に勝たれちゃ困るんでしょ?」
「まあね。ソフト部への吸収ってことでもう理事会も通っちゃってるし、今更『やっぱり無しで』ってなると相当面倒なことになるわ。でも、私は特に何もしてない。野球部が勝ったら、条件も飲まざるを得ないわね」
「なんで? ママってそんなスポーツマンシップに溢れてたっけ?」
「だって…………ズルいことしたら、もう抱いてくれないって夕霧さんが……」
「溢れてるのは性欲だった……いい加減に目覚ましてよママ! パパにはバレてないんだから、今ならまだやり直せるよ!」
「駄目なのよ! 夕霧さんは……彼女は魔物よ。あの子の中指を知ってしまったら、もう戻れないの……! あなたも一度抱かれてみたら分かるわ!」
「抱かれないよ!? 娘に自分の不倫相手を斡旋しようとすんな!」
■□ □■
「この試合前の痺れるような感じ、何度味わっても良いものだよね~」
両チームの整列中、茶々と向かい合った静佳が緊張感の無い笑顔で言った。対する茶々も挑発的な笑みを浮かべる。
「思えば貴様と敵として戦うのはこれが初めてだな。悪いが勝たせてもらうぞ」
「リトルの頃は楽しかったね~。私と茶々ちゃんと、そして沙良々ちゃんと――」
「……………………」
「また私と同じチームで戦わせてあげるよ。この試合に勝ってね」
「……野球では負けん」
「せめてコテンパンに叩き潰して、未練を断ち切ってあげる」
壮絶な笑みで煽り合う二人。
「これより、金剛学院高校野球部対ソフトボール部の試合を開始します。礼!」
『お願いしまーす!!』
両チームが帽子を取って挨拶。先攻の野球部は三塁側ベンチへ一旦下がり、ソフト部はそのまま守備位置へ向かう。
『本日のアナウンスは、放送部二年、高橋アスカが務めさせていただきます。放送部ではまだまだ新入部員を大募集中。新入生の皆さんは是非是非いらっしゃってください。それでは、ソフト部の先発メンバーと守備位置の紹介です――』
マウンドに上がったのはソフト部エース兼部長・野上静佳。捕手の小波あかりを座らせ投球練習を開始。スリークオーターの腕の振りからキレのある直球を投げ込んでいる。
「やはり奴には野球がしっくりくる……さて紋白、準備はいいか」
「もちろん!」
準備完了の一番バッター・ノノはバットを担いで仁王立ち。
「先頭の貴様が出塁するか否かでこの試合のムードが変わってくる。食らわせてこい!」
「はいはーい! 切り込み隊長、任されました!」
野球部の声援に背中を押され、ノノがグラウンドへ進み出る。
『一回表、先攻、野球部の攻撃は、一番、センター、紋白さん』
右バッターボックスに入り、球審がプレイボールを宣告。試合開始。
バットを寝かせてリズムを刻むように軽く体を揺らすノノ。それを注意深く観察しながら、ソフト部捕手小波あかりは考える。
(陸上部から移っためっちゃ足速い方か。部長の球がそうそう初心者に打てるとは思えないけど、向こうもそう考えるはず。となるとセーフティーバントもあるか――)
あかりは静佳にサインを送り、ミットを内角やや高めに構えた。静佳はワインドアップから、慣れたフォームで直球を投げ込んだ。ミットより真ん中高めに浮き、ボールの判定。これをノノはヒッティングの構えのまま見送った。
(全く動かなかったなぁ。打ってくるのか)
一方、初めて実戦で相手投手の球を見たノノは、ベンチに視線を送った。監督代理としてサインを送る茶々の指示は変わらない。
(うーん……部長の球よりか随分速いわね。でも見えたし、いけるっしょ)
表情を変えずに構えるノノ。静佳の腕から第二球目が放たれた。
(ど真ん中! 打てる! ……ってアレっ?)
最高のタイミングでバットを出したつもりだったノノ。しかしバットは空を切り、ミットから捕球音が響く。先程のストレートよりもかなり遅く、タイミングを外された。
(あちゃー、変化球だったか……)
(野上の奴め、昔はチェンジアップなど投げなかっただろうが)
ベンチで眉間にしわを寄せる茶々。しかしノノを信じて指示は変えない。
第三球目。今度は外角高めにストレート。
(速い……!)
チェンジアップを見せられて速球の体感速度が上がっている。しかしノノはこのボールに食らいついた。バットの先っぽに当たるガキンという鈍い音と、両手に痺れるような感覚が奔る。打球はボテボテのゴロとなって一塁線へ。ソフト部ファースト梶菜桜子が前進して捕球。静佳は一塁のベースカバーに走りる。
(よし、とりあえず先頭は打ち取っ――えっ……?)
瞬間、吹き抜ける一迅の疾風。
決して静佳の足が遅いわけではない。しかし一〇〇メートルを十二秒で駆けるノノは、さすがに相手が悪すぎた。
静佳が菜桜子からのトスを受けてベースを踏むより早くノノが駆け抜けていた。もちろん塁審は大きく両腕を広げてセーフの判定。たちまち湧き上がる野球部ベンチ。
「ナイスランです紋白さん!」
「でっしょ~♪ ま当然よ当然!」
ベースコーチに入っていた彰子とハイタッチ。
『二番、キャッチャー、鹿菅井さん』
ネクストに控えていた蓬がバッターボックスに入る。
(さてさて、しっかり決めなきゃね)
蓬はすぐに送りバントの構えをとった。あかりはすぐにサインを送る。頷いた静佳は、一呼吸置いてから一塁へ牽制球を投げた。ノノは難なく戻りセーフ。蓬はベンチのサインを確認する体で一度ボックスを外れた。
(あの足を見たら警戒するわよね。ま、ノノはまだ盗塁出来ないんだけど)
盗塁は足が速いだけで簡単に出来るものではない。経験と練習を積まなければ養えない技術が必要になってくる。天性のセンスを持つノノでも練習では蓬に刺されまくった。
(それでも、あいつが塁にいれば警戒せざるを得なくなる。打者への集中はその分弱まってボロが出る)
打席に戻り、再びバントの構えをとる。サードの高牧菜花がじりじりと前進してくる。チラチラとランナーを目で牽制しつつ、静佳はセットポジションから投球モーションに入る。外角の直球。蓬は落ち着いてバント。ややファースト方向へ転がした。すぐさま静佳が声を上げて菜桜子を制しボールを追う。拾い上げ、一度セカンドに目をやるが、既にノノが滑り込んでいた。確実に一塁へ送球し、一つアウトを取る。送りバント成功。
「んー、まあまあかな」
蓬が胸を撫で下ろしながらベンチへ帰りかける途中、打席へ向かう次打者とすれ違う。
「Nice buntデシタ。あとは任せてくだサイ」
蓬はその声を聞いた瞬間、背筋がゾクリと凍えた気がした。
口調はいつもと変わらない。しかし滲み出す気迫が、闘志が……いつもの柔らかな彼女を知る者にとっては、恐ろしいまでのギャップとなって肌を泡立たせる。
(つい息を飲む殺気……これが、夜叉と呼ばれた人の本気――)
立ち止まり背番号3を見送る蓬。
或る時は人間に恩恵を齎し、或る時は人を喰らう。
冷酷で荒々しく、悪しきものを打ち払う鬼神。
畏怖と崇敬の念を持ってその名を冠された、美しい金色の髪を持つ獣。
『三番、ショート、ランスフォードさん』
観客が大きく湧いた。あかりはマスクを被り直しながら溜息を吐く。
(間違いなく彼女が打線の支柱。打たれたら完全に流れを持ってかれる。今日の部長の球ちょっと浮き気味だし、歩かせるのもあり……いや、まだ初回だ。弱気になるな)
ホームの前に立ち、守備のサインを送った。内野は深めに、外野はバックホームの為やや前に。確認して元の位置に腰を下ろし、チラリとエリスを見やる。
(隣のクラスだからよく会うけど、別人みたい……正直怖い。一巡目はストレートとチェンジアップの緩急で抑えていこうと思ってたけど、手を抜いてる余裕は無さそう……)
サインを送る。頷く。
クイックモーションで投げ込む第一球は、エリスの膝元へ。エリスは一瞬ピクリとバットを出しかけるも、ボールが体から逃げるようにクッと曲がるのに気付く。
(Slider..!)
バットを止めるエリス。しかし判定はストライク。
(一度バットを出しかけたということは変化球狙い? スライダーと気づいてバットを止めたならお目当てはチェンジアップかな。なら――)
あかりはストレートのサインを出した。しかし静佳は首を振る。
(……今んとこ、まだストレートの制球が上手いこといってないんだよね~。この子相手にそれは怖すぎるよ。甘く入ったら絶対打たれるもん)
(ならもう一球スライダーで。ボールになってもいいくらいの低さで)
今度は頷く静佳。真ん中低めにスライダーを投げ込む。
しかし狙いより高く浮いた。
(まずい真ん中に――)
あかりが息を飲む。甘く入った球を、エリス・ランスフォードが見逃すわけがない。
迷いなくバットを振り抜く。キーンという打球音と共に、白球が低い弾道でレフトへ。そのままグングン伸び、前進守備のレフト吉野真由の頭を越えてバウンド。真由が捕球した時にはノノが既にホームを駆け抜けていた。エリスは二塁でストップ。
「しゃあ! 一点先制! エリス先輩ナイスバッチー!」
三塁側ベンチからの声援と、ファンクラブからの黄色い悲鳴に応えながら、塁上のエリスはやっといつもの柔らかい笑顔を見せた。
「たっだいま~♪」
「おお紋白、よくぞ帰った」
ベンチへ帰ったノノを、茶々が出迎える。
「完璧だったぞ。この調子で頼む。よし、畳みかけろ伊藤我よ!」
「ええ、見ていてください。塁上でベースコーチの彰子と熱い口づけを交わしてきますよ」
キザなことを言って打席に立った四番の美鶴だったが、気を引き締め直した静佳のチェンジアップにタイミングを狂わされ三振に倒れた。
続く茶々も粘ったもののサードフライ。
野球部は最初の攻撃を1-0で終えた。狙い通り上位打線で先制出来たので、一先ず試合の主導権は握れたと言っていいだろう。
攻守代わって一回裏、今度は野球部の守備位置の紹介がされ、呼ばれた者からグラウンドへ駆け出していく。グラブを嵌め、最後に呼ばれる己の順番を待ちながら、茶々は帽子を深く被り直した。
野球帽のツバの裏には『頑張れ茶々! 君は強い!』と黒のマジックで書かれている。愛する兄に書いてもらったメッセージだ。これを見ると、つい口元が綻んでしまう。
「大丈夫――」
小声で呟き、視線をマウンドへ。胸を張り、ふっと息を吐く。
「私は、強い……!」
『先発ピッチャー、藤原さん。背番号1』
茶々はグラウンドへ踏み出した。三塁線のファウルラインをひょいと跳び越え、己の戦場であるマウンドへ登る。すぐに駆け寄ってきた蓬に告げた。
「リードは任せる。存分に我を使え」
「りょーかいです。その……大丈夫ですよね?」
言い辛そうに尋ねてきた蓬に対し、茶々は余裕の笑顔で返す。
「無論だ」
■□ □■
カインっという中途半端な打球音が上がり、ソフト部二番霧ヶ峰薫は「あっ」と声を漏らした。白球は真上に上がり、蓬のミットに収まる。セカンドゴロの真由に続き、キャッチャーへのファールフライでアウトが二つ。
「ツーアウトー!」
野手陣へ声を掛け、蓬はマスクを被り直す。
(今のところは完璧ね。横の変化球が効いてる。序盤はこのままいきたい)
『三番、ファースト、梶さん』
長身の一年生、梶菜桜子が右バッターボックスに立った。
(一年生で三番ファーストを任せられるレベルなら、恐らく中学まで野球やってたとかそんな感じでしょうね……デカいしパワーもありそう)
茶々はやや外角低めに構えられた蓬のミットへ断龍を投げ込む。菜桜子は空振りしてワンストライク。
右手をいっぱいに伸ばして放たれる茶々の投球は、右打者にとっては背中側からボールが来るように感じられる。そこから外へ大きく逃げていくスライダーは、初見ではそうそう合わせられない。
(初球から振ってくるわね。こういうのはさっさと仕留めるに限るわ)
蓬は同じところにミットを構える。第二球目。リリース直後、菜桜子は同じコースへボールが来ることを察知。一球目の軌道を考慮しつつ、しっかり踏み込んでバットを出す。
(――速いっ!?)
しかし来たのは穿月。手が出ず見逃しストライク。
三球目、右打者の内角へ食い込む絶鸞。一巡目は基本的に横の変化で打ち取っていくのが蓬の腹積もりである。ボールは寸分違わずコントロールされ菜桜子の懐を抉る。
「ふんぎっ!」
菜桜子は腕を畳み、腰をくるっと回転させてなんとかバットに当てた。しかし打球は詰まり、平凡なフライとなってレフトへ。
(よーし打ち取った。これでこのイニング終りょ――ちょっと待った)
肩の力を抜きかけた蓬の脳裏に、不安が過ぎる。
(レフト守ってんのは奴だ……!)
打球はふらふらと落ちてきた。ちゃんと練習している左翼手なら何でもないイージーフライ。だが野球部のレフトは口をポカンと開けたまま、春の空を舞う白球をのんびり眺めていた。
「アタル! Ball行ってマスヨ!」
エリスに言われ、中は初めてそのボールが自分へ飛んできていることに気が付いた。
「え……ええと……あぁ、あああ……」
芝生の上でフラダンスを踊る中。とりあえず前に出てみたが行き過ぎて、ボールは三メートル程奥にポトリと落ちた。
「なにやってんのよもーう!」
カバーに走り込んでいたノノが拾ってエリスに返球したが、菜桜子は既にセカンドへ到達していた。
内野陣がマウンドへ集まった。蓬は憤りを隠さない。
「ったくあのレフトは! あれなら石山の野郎を女装させて立たせといた方がマシよ!」
「女装か……悪くないな!」
目を輝かせる美鶴。彰子が頬を膨らませてぺちぺち叩くが、はっはっはと朗らかに笑う。
「いや笑いごとじゃないんだけど……」
「そうカリカリするな鹿菅井よ」
茶々は落ち着いている。
「ある程度は予想できたことだ。次の打者を我が抑えればよいだけのこと」
「……まあそうですけど」
「まだ初回デス。落ち着いて、仲間のMissは全員で取り返していきマショウ!」
内野の輪が解かれ、茶々は再びマウンドで独りになった。
ネクストから打席に向かう打者を黙って見据える。
『四番、ピッチャー、野上さん』
悠々とボックスに入る静佳の表情は、いつものあっけらかんと朗らかなものとは様相を変えている。真一文字に結んだ口と、真っ直ぐ茶々を見据える意志の強い相貌。お互いの持つ事情は一時忘れて、今はただ勝負を楽しもう――そう言っているようだった。
(そうだ野上……そうこなくてはなァ!)
打席に立つ幼馴染を真っ直ぐ睨みつけながら、沸き立つ心を抑えて体を静止させる茶々。蓬のミットは内角膝元。左足を上げ、体重を軸足から徐々に移動、右腕を振りかぶり、腰の回転を上半身へ伝播。胸を張り、腕をムチのように撓らせ、振り抜く。渾身の穿月が、微動だにしない蓬のミットへ突き刺さった。静佳は手が出ない。
「ストライーッ!」
球審のコールが響く。蓬は頷きながらボールを返した。茶々はセカンドランナーを気にしつつ、ロージンバッグにぽんぽんっと軽く触れた。
(正直、怖かった。貴様と対峙することで、また駄目になるのではないかと――)
正面に向き直り、セットポジションでサイン確認――頷く。
(だが、そんな心配は無用だった。なにせ私は今――)
ミットはまたもや内角。茶々はただ穿月を思い切り投げ込むのみ。
(こんなにも楽しいのだから!)
気持ちよく反響するミット音。判定はボール。やや仰け反って見逃した静佳は、堪え切れなかった風に茶々に向かってニヤリと口を歪めた。茶々もつい笑みを返す。
(楽しいよなぁ、野上。野球って)
三球目。外の際どいゾーンに構える蓬。サインは穿月。三次元に広がるストライクゾーンの角を掠めるクロスファイヤーを、静佳はカットしてファール。
(いやー、ミット構えたとこに投げてくれると、リードするこっちも楽しいわ)
蓬はミットを右の拳で二回叩き、サインを送る。
(次が勝負。三球目のやや内側から、ストライクからボールになる断龍)
茶々はランナーを横目にモーションへ。完璧な断龍を完璧なコースに投げ込む。
しかし追い込まれた静佳は冷静だった。
彼女の他と異なる点は、投球スタイルから初恋の相手(お兄ちゃん)まで、茶々のことを知り尽くしていることだった。
(外……さっきよりも甘いコース……いや、茶々ちゃんがコントロールミスを犯すとは思えない。ならこれは、ここから外へ逃げてくスライダー……!)
スイングの途中から体勢を崩しながらも、逃げていくボールにバットを当て、左手一本で振り抜いた。
(あれに当てるの……!?)
速い打球が三遊間へ跳ねる。抜ければレフト前ヒット。レフトを守るのはアレだ。確実にランナーは生還し、同点に追いつかれる。
サードの美鶴がグラブを伸ばすが僅かに届かない。
万事休す――そう唇を噛んで通り過ぎる白球を目で追う美鶴。
――その視界に躍り込んだ、金色の影。
ショートのエリスの動きは速かった。断龍に静佳の体勢が崩れた瞬間、定位置やや深めの守備位置から三塁側へ一歩目を踏み出していた。
打球に追いつき逆シングルでキャッチ。止まって投げる余裕の無いことを察知し、そのままの体勢から左足でジャンプ。
「シッ……!」
空中で体を捻りながら、一塁へ弾丸のような送球。ノーバウンドで一塁手みまのグラブへ吸い込まれる。
「んぁあアッはぁんぅッ……!」
咆哮のように上がったみまの嬌声を歓声が掻き消す。
判定はアウト。同点のピンチをなんとかしのぎ、1-0のまま一回を終えた。
「ランスフォード、すまん、助かった」
「言ったデショウ? あそこはOUTなんデス♪」
ポンとグラブを叩き合わせて、投打の柱二人は歓声沸き立つベンチへ戻っていった。
■□ □■
「――琢磨? お前どこ行くんだ?」
グラウンドを後にし、校門を目指していた琢磨は誰かに呼び止められた。
キャーキャーと黄色い声を上げる追っかけ女子の群れの中で、ピシッとした乗馬着に身を包み、白馬に乗って手綱を握ったローランだった。
まさに白馬の王子様だ。
「試合、もう始まってる頃じゃあないのか? 何をやってるんだこんなとこで」
「ちょっと急いで行かなきゃいけない所があって……すまん急ぐから!」
「まあまあ待てって。とりあえずどこ行くのか言ってみなって」
言わなければ解放しない空気だったので、琢磨は目的地を早口で告げた。
「ふーん、結構距離あるね。どうやって行く気だい?」
「どうやってって……当然電車で近くまで行って――」
「お前交通情報見てないの?」
ローランがポケットからスマホを取り出し、何か操作して画面を見せる。
それは電車の乗り換えや時刻表を閲覧できるアプリで、その新着情報の欄に、金剛学院の最寄り駅の琴張を通る電車が人身事故で止まっているとの知らせが入っていた。
「そんな!? どうしよう……タクシーかー……金足りるかな……」
「おいおい、目の前にお前を無償で助けてやろうっていう親友がいるじゃあないの」
「なんだよ、金でも貸してくれるのか?」
「残念だけれど僕だって琢磨と同じ男子高校生。少ないお小遣いをやりくりしている身だからそれは無理な相談だね」
「じゃあ何なんだよ! 悪いけど俺本当に時間が――」
「金は出せないが、ちょっと手を出してみなよ」
琢磨は素直にローランへ左手を伸ばした。するとローランはその手を右手でがっしりと掴む。周囲から「きゃ~っ!」と桃色の悲鳴。
「さ、飛び乗れ!」
「えっ、ちょ、わっ……と!?」
ローランの言葉に従ってジャンプすると、同時に彼の逞しい腕が琢磨の身体を引っ張り上げ、次の瞬間には琢磨は白馬の上、ローランの後ろに跨っていた。
「飛ばすよ! しっかり掴まってないと舌を噛むぜ!」
「ま、まじでか!」
琢磨は右肩に掛けた鞄をしっかり引きよせてから、前に乗るローランの胴に後ろからしっかりとしがみついた。
「キャ~ッ!! 王子と近衛兵が!」「二人乗り! 相乗りキタコレ!」「ぎゅってした! ゼロ距離ですよ密着密着!」「何!? 駆け落ち!? 都落ち!?」「落城前夜、ついに自らの心に決着をつけた近衛兵は、王子の許へ。同じく近衛兵への恋慕を自覚した王子と、ついに愛の契りを交わすも、城が落ちればいずれ王子は囚われ、処刑される運命……ついに彼らは、全てを捨てて二人きりの逃避行へと――」
周囲の女子が一層うるさくなり、カシャッ、カシャッ、ピロリ~ンと写メを撮られまくっているが、時間がないので無視する琢磨。ウインクを振り撒くローラン。
「さあ行くぞキャンデローロ! 我が友の為駆けろ風のように! ハイヤッ!」
キャンデローロと呼ばれた白馬はローランの脚による合図を受けると一声嘶き、女子高生を掻き分けて校門目指してまさに風のように走り出した。
「さあマドモアゼル方、道を開けて! 僕に近づくと怪我をするよ!」
「おいローラン! いいのかよ馬術部は……」
琢磨が思った以上に大きな揺れに閉口しつつ尋ねると、ローランは高笑いした。
「何を言っているんだい! 世の中に素敵な女性は三十億人以上もいるけれど、心からの友となれる男はほんの一握り! 出会えたら幸運! 僕はお前との出会いを本当に幸運だと思っているんだけど、琢磨は違うのかい?」
「ローラン……! ああ! 最高にラッキーだよ俺達は!」
「ハッハ! さあ急ぐぞ! 馬は法的には自転車と同じ! 当然二人乗りは違反だから、お巡りさんに見つかる前に到着しなきゃね!」
キャンデローロは校門を出て、春風を切って駆ける。
■□ □■
二回表。ソフト部捕手、小波あかりは黙考していた。
(相手の下位打線、ここはピシャッと三人で抑えていかないと……)
先取点からのエリスの好守備。野球部は完全にノっている。その流れを断ち切るには、このイニングをしっかり抑えることが何より重要なのである。
(まあ注意すべきなのは上位打線までで、下位は数合わせみたいな奴らが並んでるはず。普通にやってれば大丈夫――)
『六番、ライト、倉さん』
その瞬間、あかりの全身を悪寒が駆け巡った。
(な、なに……この、身も凍るような根源的恐怖……ッ! これは死……死の気配……ッ!)
恐れに軋む関節をぎこちなく回し、打席にゆっくりと歩いてくる選手を見やる。
「ッ!? あ、あなたは……!?」
「はひぃ!? あ、あの時の先輩……! この間は本当に、す、すすすみませんでした!」
ぺこぺこと頭を下げる一本三つ編みの少女を、あかりは忘れることなど出来ない。彼女こそ、あかりの顔面に金属バットミサイルを撃ち込み保健室送りにした『仮入部の死神』なのだから。
「い、い、いえ……いいのいいの。わざとじゃなかったんだし……」
手をぶんぶん振りながら早口で言って、さっさと定位置に腰を下ろす。しかし言葉とは裏腹に、彼女の脳裏には眼前に高速で迫るバットと、首から上が吹っ飛ばされたかのような痛みが甦る。マスクの下では汗が顎から滴り落ち、呼吸が荒くなる。
(この子野球部に入ったの!? お、落ち着け私……よく見ればバットの握り方直ってるし、野球部でちゃんと練習してきたはず。前のようなことにはならない……そうだよね……?)
心の中で同意を求めようと、チラリと野球部側のベンチに目をやったあかりは、驚愕の光景に思わず二度見してしまう。
「頑張れ倉さーん!」
「自信持ってー!」
「思いっきり振っていきマショー!」
(なんでみんな軍隊が使うような防弾シールド持って応援してるの!? まだそんなに危険なの!? ミサイル飛んでくんの!?)
「く、倉さん……? あなた、その……ちゃんとバットは振れる、んだよね?」
「ふぇっ? は、はい……一応」
(一応って何……!?)
震える手でサインを送り、ミットを構える。外角へのストレート。静佳の投球はそこからやや内に入ってあかりのミットへ――
「ふんっ!」
可愛らしい掛け声とは裏腹に、金属バットは常人には視認出来ない程のスピードでぶん回され、起こす風圧は砂を巻き上げる。自分のスイングで体勢を崩したしほりの左手一本で握られたバットは、振り抜かれた勢いのまま地面に先端を叩きつけられ、グラウンドに小さなクレーターを作った。
ミットの中にしっかりボールを掴んだあかりは、しかし小刻みにカタカタと震えていた。
(バットは離さなかったけど……何、今のスイング!? ウソでしょ……こんなの野球でもソフトでも見たことない……。ランスフォードも凄かったけど、もう凄さの次元が違う……! 多分だけど、バレンティンってこんな感じなんじゃないの……?)
「豪太夫汚れちゃった……家帰ったらお風呂に入れてあげるからね……」
艶めかしい手つきでバットの先っぽを撫でるしほりを見上げ、あかりは深く息を吐く。
(……まあ、タイミングも位置も全く合ってないし、打たれることは無いか――)
その後の二球にも豪大夫は全く掠りもせず三球三振に倒れ、クレーターは三つに増えた。
■□ □■
ダッシュで前に出てボテボテのゴロを捕ったサードの高牧菜花は一塁へ送球。しほりの次打者、彰子のヘッドスライディングも敵わず、判定はアウト。
「ナイスファイト。でも怪我したら替えが利かないんだから程々にしなさいよ」
出迎えた蓬に言われ、彰子はしゅんと肩を落とす。
「はい、分かってはいるのですが……その、良くありません? 土で汚れたユニフォーム」
彰子は目を輝かせながら、ズボンに入り込んだ土を外に出す。
「やっぱり泥に塗れてこそですよね! 野球って、やっぱり素晴らしいです!」
「あー……そうね。うん。さて、夕霧先輩は――」
「ただいまー……」
「早っ……」
いつの間にか三振していた中が、重そうにバットを担いでベンチに帰ってきた。
「やべぇよ……ボールなんて見えねぇって……つーか正気じゃねぇよあんな石みたいの全力で投げてきやがって殺人未遂じゃん……もうあたしゃ帰りたい……」
「ハイハイ! さっさと準備してくだサイ! 守備デスヨ守備!」
既にグラブを嵌めて飛び出していくエリスに急かされ、中は渋々バットをポイ捨てした。
「先輩ってイヤイヤ言いつつも結局投げ出さずに頑張ってますけどなんでなんですか?」
美鶴が嫌味無く尋ねた。中はにちゃりと笑う。
「ふふふ……あたしにだって目的ってもんがあんのさ……」
「それがこの間のパンツ泥棒ですかぁ?」
聞いていた蓬が嫌味たっぷりに尋ねた。中はぐちゃぐちゃっと嗤う。
「こんなに美少女揃いの部活だぜぇ……? 最高の性欲の捌け口じゃないの……!」
「くっ……こんな危険人物を首に出来ないチーム事情が憎い……ッ!」
蓬は歯を食いしばりながらマスクを被った。
■□ □■
二回裏、トップバッター高牧菜花の放った高いフライが、レフトに突っ立ってるだけの中の許へ飛んでいく。
「あ……ああ……あー……」
「だああああもうどいてどいてどいてええええ!!」
絶対に捕れないと判断したセンターのノノが、猛烈なダッシュで落下点へ駆ける。
「え、何……怖っ……」
中は素直にその場をどいた。地面へ自由落下してくる白球へ、ノノは最高速のスピードを保ったまま飛び込む。精一杯伸ばしたグラブは、地上五センチでボールを掴みとった。そのまま腹でグラウンドを滑ったノノは、左手だけ突き上げて捕球を示す。
「っつ~……勘弁してよもぉー……」
痛そうに唸るノノに、中が歩み寄る。
「なんだよお前捕れんじゃん……。ならもうあたしゃ休んでるわ……」
「ふざけんな! 先輩だけど殴るわよ!」
「ちょちょちょノノ落ち着いてくだサイ! 今は試合中デスから! 暴力は後で!」
中に跳びかかるノノをエリスが必死に止める。
中は勿論、ライトのしほりの守備も大概なので、ノノは自分の守備範囲に加えて両翼のカバーまで強いられている。茶々がゴロを打たせて取るピッチングスタイルなので外野にあまり打球が飛んでこないのが幸いだ。
(絶対外野に飛ばさないようにしないと……)
気を引き締め直したバッテリーは、六番島田佳奈美をファーストゴロ、七番小波あかりをセカンドゴロでしっかりと仕留めた。
■□ □■
『三回表、野球部の攻撃は、九番、ファースト、鵜飼さん』
ふわふわした空気を纏い、小柄なみまが打席に立つ。
その姿をベンチから眺めながら、蓬はエリスに尋ねた。
「鵜飼先輩のバッティングってどうなんです? 練習見てて、正直彰子とどっこいな気もするんですけど」
「ミマはKeep aliveが上手いんデス」
「……えーっと?」
「日本語では『カット』っていうやつデス。Foulで粘って、Bases on Balls――Uh、フォアボールをもぎ取るんデス」
へー、と相槌を打って、蓬はバッティンググローブを嵌めつつみまの打席を見守る。
「ただ、その……少々粘り方が特殊といいマスか……Um――」
エリスが言い淀んでいるうちに静佳が一球目を投げた。高めのストレート。みまは短く持ったバットを振る。カツンという軽い音。ボールは前に飛ばず、みまの左足に直撃した。
「にゅひぃぃぃぃぃッ!」
たちまちみまの口から大きな喘ぎ声がこぼれ、球場中の人がビクッと驚き、何事かとざわついている。野球部の面々は平然としている。
「しゅごひぃ~……しゃいこ~にゃよぉっほぉ……っ!」
「タ、タイム!」
打席でバットを杖になんとか立ち、体を震わせ、よだれをこぼし、唸り声をあげながら痛みに耐えている(ように一般の方には見える)みまを球審が心配して声を掛けた。
「君、大丈夫かい? 一度ベンチに戻って治療を――」
「やめちゃらめぇ! らいじょぶらからぁ……このまま、つ、続けてぇ……!」
「いやどう見てもこのまま打席に立てる状態じゃないでしょ。膝とかガックガクだし――」
「やらぁ……おねぁいらから、このままヤらせてぇ……っ!」
「えぇ……まあ本人がそう言うなら……プレイ!」
ゲームが再開され、なんとか打席に立っているみまへ二球目が投げ込まれる。これにもみまは手を出し、跳ねたボールはみまの右足のスネを襲った。
「おっほぉぉぉぉぉぉッ!」
「……特殊って、こういうことですか」
呟く蓬に、エリスが頬を染めながら顎を引く。
「FoulはFoulでも、全部自打球なんデス……いつか怪我するからやめてくだサイっていつも言ってるんデスけど……」
「自分の性癖に正直すぎる……」
その後、特殊なジャンルの十八禁PCゲームのような叫び声を五回もグラウンド中に響かせたみまは見事に四球を勝ち取り、生まれたてのバンビのように震える足でよろよろと一塁へ歩いていく。その顔は満足感に満ち溢れながらも涙と唾液と鼻水塗れだった。
「――と、とにかくRunnerは出マシタ! ノノ、お願いしマス!」
「……え、あ、コホン……よ、よーしまた塁に出てやるわ!」
ノーアウト一塁で打順は二回り目。みまの壮大なオナニーにドン引きしていたノノは、気を取り直して打席に向かいつつ、サードコーチャーの茶々のサインを確認。
その横で、ソフト部捕手あかりは咳払いを一つ。
(まったく何なの四組の鵜飼……こっちまで変な気分になるから勘弁してよもう……あれデッドボール当てたりしたらどうなるんだろう)
一瞬不埒な考えに頭が占拠されそうになるも、慌てて振り払う。
(そんなことより――こっから二回り目。スライダーも積極的に使っていこうかなってとこだけど……なんか向こうのサイン交換に時間かかってるな)
茶々から送られたサインを、もう一度要求してしっかり確認してから打席に立つノノ。
そしてノノはバントの構えをとる。
(意外と手堅いのね……さっきヒット打った一番に送らせるんだ)
あかりは野手にサインを出してから、球審に頭を下げて元の位置へ戻った。高めの速球のサインを出し、ミットを構える。
一球目。ノノの構えは変わらない。
内野が距離を詰める。しかしノノはボールを見極めてバットを引いた。判定はボール。あかりがボールを静佳に投げ返した後、ノノは再びバントの構えをとった。
(バスターも無し。もう確実に送ってくるってことね)
ファースト梶菜桜子、サード高牧菜花はぐぐっと前に詰めてくる。あかりのサインは、もう一球高めの速球。静佳は頷き、セットポジションをとりつつ、ファーストランナーをちらりと確認。みまはベースについたまま、口の端に銀色のよだれの雫を光らせている。
(動いてはこない……よね?)
視線をサードコーチャーの茶々に移す。いつものポーカーフェイスで腕を組んでいる。
(確かに茶々ちゃんはあれで結構手堅い策が好き。でも、勝負所では賭けに出る。ノーアウトのランナーが出て、クリーンナップに回るこのイニング。一気に突き放して勝負を決めたいはず。ギャンブルするならここかもしれない)
打席のノノを見る。挑発的な笑みだ。
(……いや、この子の足なら、上手く転がせばセーフティーも狙える。成功すればノーアウト一・二塁。バントしかない)
そう確信して、静佳が左足を上げた――瞬間、ファーストランナーがスタートするのを目にしあかりは愕然とする。
「うそっ……じゃあ――」
視線を上げると、ノノはヒッティングの構えに変わっていた。
(バスターエンドラン――ここで!?)
高めの直球をノノは狙い澄まして引っ叩いた。打球は前進していた菜桜子のグラブを掠め、広く開いた一二塁間を破りライト前へ転がった。楽々と一塁ベースを駆け抜けたノノはガッツポーズ。
「しゃあ狙い通り!」
満足気に仲間達の歓声に応えようとサード側に目をやり、目を丸くした。
「って鵜飼先輩なんでセカンドで止まってんの!? 完璧にエンドラン決まったのに!」
「ご、ごめんね……ボクまだ足に力が入らなくて……」
快感の波で腰砕けになっていたみまは、震える足で二塁まで行くのが精一杯だった。
「まったく……鵜飼は試合の後でお仕置きだな」
頭を掻く茶々。
その姿を見て、静佳は一つ息を吐く。
(バントを警戒して高めに真っ直ぐを投げることを予想して、さらにあの一年生なら狙い球をしっかり打てると確信してたんだね。やられたな~……)
「すいません部長……まさかあんなギャンブル仕掛けてくるなんて……」
駆け寄ってきたあかりに、静佳は優しく微笑む。
「仕方ないよ。それよりこの後」
「はい……」
あかりは三塁側ベンチに目をやった。ネクストから打席に向かう蓬と、ベンチからバットを持って姿を見せるブロンドのポニーテール。
「……次は確実に送ってきますよね。そしてその後は――」
「今度は一緒に抑えるよ。頑張ろうね」
「……はい!」
予想通り、蓬は初球でしっかり送りバントを決め、一死ランナー二・三塁。
そして、放送部のアナウンスが機械的に彼女の名を告げた。
『三番、ショート、ランスフォードさん』
ファンの声援の中、夜叉の目をしたエリスが左打席に入る。
普段の柔和な彼女を知る者ほど、その全身から発せられる闘気に身が震える。
彼女ならば、絶対に――
見る者に希望と絶望を抱かせる、他を寄せ付けない突出した存在感。
高校通算打率四割七分二厘。美しき怪物。金剛学院の誇るスーパースター。
『金色夜叉』――エリス・ランスフォード。
(ぶっちゃけ打たれるかもな~)
肌が泡立つのを感じながら、静佳は目を閉じた。
(それでも……我儘かもしれないけど、私はこの怪物と真っ向勝負してみたい)
敵に対し、精神的に優位に立つ方法。最もシンプルな二つ。
一つは、敵の最も良い投手を打ち崩すこと。
もう一つは、敵の最も良い打者をねじ伏せること。
ここでエリスを打ち取れば、きっと流れはソフト部へ傾く。
でもそんな打算的理由ではなく、静佳はエリスとの勝負に心が沸き上がるのを感じる。
(もしかしたら、私が本気で野球をするのは今日が最後かもしれない。なら精一杯楽しまなきゃ嘘だよね。それに、この試合に勝てばこの怪物も仲間になる。敵だと恐ろしいけど、味方になればこれ以上心強い選手はいない。私達は今年こそ全国優勝を狙ってる。こんなところで躓いてる場合じゃないんだ……!)
あかりがミットを強く叩いた。左打席に立つエリスは、力感の無いスクエアスタンス。
(さっきは甘く入ったスライダーを打たれた。ちょっとでも甘く入ったらやられる。でも制球も安定してきたし、さっきは見せてないストレートでも勝負出来るはず。緩急も織り交ぜて、使えるもの全部使って抑えてく!)
ストレートのサインに静佳が頷く。あかりはミットを低めに構える。
(ボールになってもいい。クサいとこを)
(これが私の……ソフトボール部が日本一を目指す為の……野球人生の集大成の一球――)
セットポジションから渾身のストレートを投げ込む、その僅かな時間。
静佳は、少しだけ昔の思い出を脳裏に描き出していた。
――野球が嫌いなわけではない。ただソフトボールの方が好きになっただけだった。
茶々には『移り気だ』と文句を言われた。
沙良々はそもそも野球とソフトボールの違いが分かっていなかった。
そんな大好きな二人と一緒にやる大好きな野球の道に背を向け、別の道を選んだ。
母に無理をさせてまで、歩ませてもらっている道だ。
何としても――大好きな人を無理やり引き込んででも、頂点まで走り遂げる覚悟がある。
(絶対に……ッ! 負けない!)
鞭のように腕を振り抜き、指先がボールの縫い目を抉るように押し出す。この日最高の球速、最高のスピンを持った白球が、あかりのミット目がけて唸りを上げて――
――そんなものですか。
そう耳元で囁かれた気がした。
(――あ……これは、ダメだ……)
悟ってしまった。
ボールは手を離れたばかり。まだ右足が地面から浮いている。
ありったけの覚悟、ありったけの力を込めた静佳のボール。
金色の怪物によって振り抜かれた銀色の冷たい閃光がそれを容易く打ち崩すのを、静佳は為す術も無く見ていた。
陽の傾いた空を射抜くような打球音で我に返る静佳の視線の先で、ランナーが二人、本塁へと還ってくる。エリスの打球はレフトへぐんぐん伸びて左翼手島田佳奈美の頭上を越えフェンスに当たる、二打席連続タイムリーツーベースヒット。
野球部のリードは3-0と広がった。
(一度野球を辞めた人間の球じゃ、怪物には勝てないか……)
敵に対し、精神的に優位に立つ方法。最もシンプルな二つ。
一つは、敵の最も良い打者をねじ伏せること。
もう一つは、敵の最も良い投手を打ち崩すこと。
「部長……」
あかりがおずおずとマウンドへやってくる。
「負けたよ~……ごめんねあかり」
「謝らないでくださいよ。それに、まだ試合には負けてません」
「……そうだね」
そんなことは当然分かっていた。数々の修羅場を潜り抜け、全国クラスへのし上がったソフト部だ。それでも、一度折れかけた心はそう簡単には持ち直せない。
四番・美鶴は、スライダーをひっかけてサードゴロ。
セカンドランナーのエリスも進塁出来ず、完全に打ち取った当たり。
(よーし、落ち着いて落ち着いて……)
三塁手の高牧菜花は、努めて慎重に両手で打球を受ける。
(おっけぃ。とっととツーアウトにして向こうの流れ切らなあかんなぁ……!)
そう気が逸ったのが不味かった。菜花の送球は高く浮き、一塁手の頭上を越えてファウルグラウンドまで転がった。全力疾走していた美鶴がベースを駆け抜ける。エリスはサードへ進んだ。ワンナウト一・三塁。
「ごめん……焦ってもうた……」
しゅんとなって謝る菜花。静佳は彼女の背をポンポンと軽く叩く。
「ドンマイドンマ~イ。私が抑えるから大丈夫」
軽い口調ながら、彼女の視線は、打席へ入る友を鋭く見据えていた。
『五番、ピッチャー、藤原さん』
バットを立て、ヘルメットのつばに手を掛けて、茶々は静佳の視線に真っ向から向かう。
(貴様がこの試合に懸ける想いも、この状況の辛さも、よく分かっている。一切手は抜かん。畳みかけていく)
一球目のスライダーを見逃し、二球目の直球はファウル。ツーストライクと追い込み、三球目。捕手のサインに一度首を振って、モーションに入る。
(貴様のことだ。遊び球は無しだろう。そして決め球は――)
投じられた球は、緩く変化して落ちていく。
(我と袂を分かった後に習得したチェンジアップだろう……!)
茶々は迷いなくバットを振り抜いた。打球は速いグラウンダー。三遊間を抜けようかという当たりだったが、ショート新條純がなんとか捕球。この時点でエリスはホームへ、美鶴はセカンドへ既に達しようとしていた為、純は一塁へ送球。茶々はアウトとなったが、エリスが生還したので得点が入り、4-0。
(よし、これでいい)
茶々は頷きながらベンチへ帰り、部員達とハイタッチを交わした。
その後しほりは三球三振。あかりは苦虫を噛み潰したような顔でベンチへ戻る。
(四点か……重いな)
男子野球ならば「なーに、ホームラン一本で同点さ」と開き直ることも出来ようが、女子野球においてはそんなもの、敵ベンチに隕石が落ちるのを祈るようなものである。
(うちの打線は、あっちの投手の豊富な持ち球にまだ狙いが絞れてない。残り五イニングの間に捕らえられたとして、五点も取れるかってなると……はぁ……私のリードで取られたんだもんな……私のせいで――)
「ほらほら! 下向いてんじゃな~いの! 声出して応援応援!」
項垂れていたあかりは、静佳に背中をべしっと叩かれた。気落ちしてベンチの空気悪くしてしまうのは確かに不味い。あかりは両頬をぺちっと叩いて気合いを入れ直した。
(あーだめだめ。打たれた部長があれだけ気丈にしてるのに私が落ち込んでどうすんだ)
「頑張れー! じゅーん!」
『三回裏、ソフトボール部の攻撃は、八番、ショート、新條さん』
琢磨や蓬と同じクラスの新條純が右打席に入った。膝を曲げ、腰を落とし、一四四センチの小さな体をさらに縮めて構えるフォーム。
茶々の第一球は絶鸞から入った。しかしこれが高めに浮き、大きく外れたボールとなる。
「いーよーじゅーん! 今日もちっちゃいよー! 見てこ見てこー!」
吹っ切れたあかりの声援が響く中、第二球。これも穿月が高く浮き、ボール。
「ナーイスミニマム! ちっちゃくてかわいーよー! 見えてる見えてるー! ……って部長? どうしたんですか?」
静佳がぱたりと静かになっていることにあかりは気が付いた。困惑と驚きの入り混じった表情で、マウンド上の茶々を見つめたまま動かない。
「部長? ぶちょー?」
あかりが声をかけても反応が無い。ただ誰にも聞こえない小声で独り言を零すのみ。
「茶々ちゃん……まさか、もしかして――」
■□ □■
(――どうしてだ。すべて上手くいっていたじゃないか)
ここまでほぼ完璧に抑えてきた。リードも四点。このままの調子でピッチングを続けるだけで勝利が掴めるというのに、茶々のボールは彼女の制御から外れていく。
「ボールフォア!」
ストレートのフォアボールを与え、純が一塁へ歩いていく。
(息が苦しい。視界がぶれる。両目が痛い……のは汗が入っただけか)
茶々が汗を拭おうと右手を顔にやると、手が細かく震えているのに気が付いた。
誤魔化すようにギュッと握る。
「部長、まさか……!」
蓬が青い顔で駆け寄ってくる。
「大丈夫だ。戻れ」
キャップを深くかぶり直す茶々。
「で、でも部長――」
「戻れッ! と言っている……!」
茶々は蓬の目を見なかった。
(落ち着け、マウンド上では常にクールに、クレバーに振る舞え。感情を見せるな。私はエースだ。私が折れたら、皆が潰れる。余裕を見せろ――)
揺らがず、圧倒――それこそがエース。
『九番、セカンド、興津さん』
蓬が穿月のサインを出し、しっかり腕を振ってこいとジェスチャーを送る。ミットは低め。モーションに入った瞬間、バッター興津高峰がバントの構え。随分と高く浮いた茶々のボールをサード側に転がす。
「サードォ!」
蓬が叫ぶ。美鶴が長い脚を懸命に動かして前進。勢いが死んだ白球を素手で拾い、そのままファーストへ送球。やや逸れたがみまは難なく捕球し、いつもの嬌声を上げた。判定は微妙だったがアウト。ワンナウト二塁。
(いいぞ伊藤我。練習で言った通りの動きが出来ている)
茶々は大きく息を吸って、吐いた。
(私の背中を守ってくれる者達は本当に有能だ。存分に頼らせてもらおう。その分私は彼女らの大黒柱として、このマウンドに悠然と立ち続けよう)
『一番、レフト、吉野さん』
得点圏にランナーはいるが、ホームに還さなければどうということはない。
(二巡目だ。見せてやろう。私の第四・第五の魔球を)
美鶴のおかげで茶々の眩暈は収まっていた。
蓬のサインを見て、セットから腕を振るう。宝刀――舞神。
ストレートの軌道から左打者の外角低めへ逃げるように落ちる茶々の必殺球。吉野真由は完全に合わず空振り。
続く二球目は鋭く内角に食い込む穿月。真由は見逃しストライク。
(ふん、舞神を見た後では手が出まい。では特別だ。最後の球種もお目に掛けよう。ゾーンを掠めて膝元へ緩く落ちる――磨珠だ)
三球目、真由はなんとか喰らい付いてバットに当てるも、ボテボテのゴロはセカンドの彰子がしっかりと処理し、ランナーは進んだがツーアウト三塁。
『二番、センター、霧ヶ峰さん』
サインはボールになる磨珠。
(こいつは第一打席で穿月に差し込まれていた。おそらく勝負球は穿月だろう)
初球、茶々の磨珠は少し浮いたが、霧ヶ峰薫はこれを見逃し、ストライク。
(む……浮いたな。いかんいかん。少し滑ったか。そうだ、滑っただけに違いない)
次は外角へ断龍。
だがこの球も狙い通りにいかず、あろうことか真ん中へ入った。
キィンと響く金属音。幸いバッターが打ち損ねた。
打球は高く上がってライトのファウルゾーンへ。ライトはしほりだ。芝に足を取られそうになりながらも必死に追っていくが……捕球できなかった。
(良いさ。奴は奴なりに全力を尽くしてくれている。この試合に勝って、しっかりと練習でしごいてやればいいのだ)
茶々は打者に向き直る。サインは穿月。そしてまたもや腕を振れのジェスチャー。
(なんだ鹿菅井、貴様から見て私はそんなに腕が振れていないか……)
右打者の内角へ、抉り込むように穿月を投じた。投じたつもりだった。
(――何故だ。何故そちらへ行く。そちらはど真ん中だぞ。言うことを聞けよ、白球よ)
鋭い打球音と共にボールが返ってくる。茶々の足元を抜けた速い打球は強固な二遊間を以てしても如何ともしがたく、外野へ抜けていく。サードランナーは悠々とホームを踏み、4-1。
「……大丈夫だ」
茶々は帽子のツバをぎゅっと引き下ろす。
「まだ三点差ある。大丈夫。私は大丈夫だ。大丈夫、大丈夫――」
■□ □■
――試合はどうなっただろう。野球部の皆はどうしているだろう。
不安は琢磨を飲み込もうと鎌首をもたげて、背後から忍び寄ってくる。
尻の下で躍動する、人間のそれとは比較にならない程に逞しい馬の筋肉の律動を感じながら、彼はローランの腰に回した腕に力を込めた。
「大丈夫かい琢磨、もうすぐ目的地だ。ケツが痛いだろうが我慢してくれ」
「ああ……」
ローランの愛馬キャンデローロは、道行く人の視線を集めながら道路を爆走していた。幸い警察には見つかっていない。
やがて道路は緑色の壁に突き当たる。数年前に構造を強靭にする為の工事が行われスーパー堤防化した、琢磨の家の近所の一級河川の土手だ。キャンデローロは力強くのその坂を上り、夕焼けでオレンジ色に染まった堤防の上をひた走る。道の両端に生い茂った雑草が、風に揺れてざわざわと揺れていた。
やがて、道の先に大きな鉄橋が見えてきた。何本もの路線を支えるその高架下は日影になっており、そこに誰かが動いているのが見えた。