【第4章】笑顔のエース
琢磨は、真っ暗で座ることもできないほど狭い場所に立っていた。
「……ねぇ、もぎもぎ」
「死ねッ!」
外から蓬の怒気を孕んだ声。耳元から金属バットでロッカーをぶっ叩く破壊音。前にもこんなことあった気がするなぁと琢磨は溜息。
「……俺達さ、野球部存続のためにこれから頑張っていきまっしょいってことで、一致団結、邁進していこうという大事な時期だよね」
「そうだな」
「なんでさ、俺はこうして再びロッカーに閉じ込められて拷問を受けているんだい?」
週が明けて月曜日の練習終了後。女性陣が部室で着替えている間、琢磨はドリンクの容器を水道で洗っていたのだが、そこへ煉獄の焔気を纏った蓬が、上はユニフォーム、下は制服のスカートという中途半端な出で立ちで現れ、担いでいたバットで琢磨を殴打。彼は意識を失い、目が覚めたらこれだった。
「『なんで』だと? テメエが一番よく分かってんじゃねえのかこのクソ変態豚野郎が!」
「この純朴男子に向かってクソ変態豚野郎とは心外な! さっさとここから出せ! おしりぺんぺんしてやる!」
「ほざくな変態! とっとと自分のやったことを認めやがれ! テメエの仕業だろ!」
「だから何がだよ! 部室の壁に増えた穴は俺じゃなくて倉の仕業だぞ!」
「そんなことは分かってんだよ! それじゃなくて……それじゃなくてだな――」
蓬は再びロッカーに一撃食らわしてから叫んだ。
「アタシのパンツ盗んだのテメエだろ!」
「ハァ? パンツゥ? 俺がぁ? お前のぉ?」
一応補足しておくが、琢磨に身に覚えはない。
「お前な、俺をそんな男だと思ってやがったのか」
「心の底から思ってるよ」
「馬鹿にするでない! エリス先輩ならまだしも、お前程度のパンツを盗むほど落ちぶれるようなら潔く腹を切るね!」
「……その言い草は逆にムカつくんだけど」
「どうせくったくたにくたびれたエロスの欠片もない小汚いパンツをそこら辺に置き忘れて、ゴミと間違えられて捨てられたとかそんなオチなんだろ! ガラはどんなだ!」
「くたびれてないわ! 女子高生らしいエロ可愛いの穿いとるわ! ガラは白黒!」
「おう、だったら見せてみろよ! ちゃんと穿いて見せて俺の下半身を納得させてみろ!」
「だから現物が盗まれてここにねーんだよ!」
「あったらやるのか! このド変態女が! おっぱい触らせろ!」
「殺」
突如横倒しにされるロッカー。さらに上から金属バットの打撃の応酬。ロッカーが逆への字型に歪み、段々と琢磨の身体を圧迫していく。
「ゴホェ! ァギィ! 死ぬ! マジで死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ――」
「シネェ! ツブレロォ!」
琢磨はこれにて圧死かと思われたその時であった。ロッカーの歪みに扉が耐えられず隙間が空いた。琢磨はそこから扉をこじ開け脱出に成功。
他の部員は既に帰っており、部室には琢磨と、一頭の怒れるヨモギザウルスだけだ。
「ウガァ……ウガァアアアアアア!」
「チッ、怒りのあまりヒトの言葉さえ手放したか……」
着替えの途中だったのか相変わらずユニフォームにスカートの蓬は、ロッカーの残骸から攻撃目標を変更し、じりじりと琢磨に詰め寄る。
「……そういえば、パンツが盗まれたとか何とか……ならばッ!」
琢磨は手近にあったうちわ二つを両手に装備(右手は指の間に挟んで固定)し、全力でヨモギザウルスの下半身を扇ぐ。
「喰らえッ! 『いたずらな風さん(ホロコースト・ストーム)』ッ!」
「ひゃぁん!?」
ブリーツスカートがふわりと捲りあがり、蓬の日焼けしていない太ももが根元まで露わになりかける。蓬はバットを投げ出し、慌ててスカートを押さえてその場にへたり込んだ。
「ふふふ……やはりその下には何もナッシングだったようだな」
「テメエ……下着泥棒どころかまたセクハラか! いい加減に――」
「怒りを収めよ人の子よ! 『いたずらな風さん(ホロコースト・ストーム)』ッ!」
「ひぁあんもう!」
「こっちの話も聞けよ! 俺はパンツなんて盗んでねえよ!」
「嘘つくんじゃねえ! アタシのバッグはずっと部室にあった。部室は練習中は鍵がかかってて部外者は侵入できない。部員に男はお前だけ! よって犯人はお前だ!」
「落ち着いて考えてみろよ。確かに男は俺しかいないし、俺はお前のことを性的な眼で見ているが、女子のパンツを盗んで喜ぶ奴は本当に俺だけか?」
「当然そうに決まって――いや……待てよ……?」
「気が付いたようだな。そう、この部には女性を性の対象とする者が最低でも四人存在するのだ!」
一人目、男・石山琢磨。
二人目、理事長と不倫関係にある夕霧中。
三人目、ヤリチン両刀女・伊藤我美鶴。
四人目、伊藤我にメロメロの鳴楽園彰子。
蓬の理論では、この四人の中から容疑者を琢磨のみに絞ることは不可能だ。
(茶々とみまについてはちょっとカテゴリが違うので除く)
「くっ……確かに。他にも隠れレズが存在している可能性も――なんかこの部室で着替えたりするのが急に怖くなってきたんだけど……てかいい加減扇ぐのやめろ!」
「断るッ! 俺を容疑者から外すか、スカートの中を拝むまでは断固として続けさせてもらう!」
「ふざけんな! つーか仮にパンツ泥棒じゃなくても十分これ犯罪だからなお前!」
琢磨は無言で『いたずらな風さん(ホロコースト・ストーム)』のパワーを上げた。
「わ、分かった! 確かに一方的に犯人だと疑ったのは悪かったわよ! でもアンタへの疑いが晴れたわけじゃないから! こうしましょう! アンタの持ち物を検査して、パンツが見つからなければ無罪ってことでいいから! ね? だからその風止めて!」
「ふむ……まあいいだろう」
琢磨は要求を受け入れ、うちわを置いた。
「いつか絶対処刑台送りにしてやる……!」
「ふふふ、じゃあ思う存分検査してくれ」
琢磨は蓬の前に鞄を置いた。蓬は中身をごそごそ探る。
「えーっと……ああもう面倒くさい!」
蓬は鞄を逆さまにひっくり返して、中身を部室の床にぶちまけた。
「ああっ! お前そういう感じだから部室がいつもこんな散らかり放題なんだよ!」
「黙ってて」
その後しばらく検分は続いたが、怪しい物品は出てこなかった。
「はぁ……分かったわよ。今日のところはこれで疑いは晴れたってことにしてあげる」
「いや待て。まだ調べていないところがあるだろう」
「は?」
怪訝な顔をする蓬の目の前で、琢磨はおもむろにシャツを脱ぐ。
「ちょっ……! なに脱いでんの!」
「パンツを盗んだ後、そのまま自分で穿いている可能性があるだろう。俺がお前のパンツを穿いていないことを確認しなければ、俺の容疑は晴れない!」
「いやいいから! そこまでしなくてもいいから!」
「駄目だッ! 完全に容疑を晴らさないと、俺は晴れがましい気持ちで家路に着けない!」
ジャージのズボンも脱ぎ去り、琢磨はついにトランクス姿に。
「分かった! うん! 確認したわよ! ほらもう服着て! 帰ろ!」
「なあ鹿菅井、お前の盗まれたパンツはどんなパンツなんだ」
「はぁ!? ど、どんなって……ふ、普通!」
「普通の女子のパンツは、男のトランクスよりも当然布面積は小さいよな!」
「そうだけど……ま、まさかアンタ……!」
「まだこの下に穿いている可能性だってあるよなァ!? フンヌァ!」
琢磨はトランクスに手を掛け、勢いよくずり下げた。
「キャアアアアッ!? バカっ! このバカっ! 露出狂!」
蓬はメガネの上から両目を手で覆った。だが相変わらずノーパンには違いなく、迂闊にその場から逃げ出せないようだ。
「フハハハハ……さあ確認しろよ。この俺の無実を! 潔白を! ありのままを!」
「ぜっっっっったい嫌! 死ねっ!」
「ほほーん、なら見やすいように近づいてやろう」
わざと足音を立てながら、一歩一歩蓬の前に接近する琢磨。
「や……やだやめて……! ホントやめて!」
「――なあ鹿菅井」
「何よ変態!」
「今日、俺ブルペンの方見てないんだけどさ、伊藤我は本当にピッチャーやれそうか?」
「えっ……この流れで真面目な話始めるの? 落差どんだけよ。大魔神のフォークか」
「なんかさすがにやり過ぎかなーと思って」
「今さら!?」
「いやお前がいいならね、この状態で『いたずらな風さん(ホロコースト・ストーム)』してもいいんだよ?」
「それやったらお前を殺して私も死ぬから。……美鶴なら、正直言って厳しいわね。染みついた槍投げの癖が簡単に抜けそうになくて。肩は良いから、しっかりフォームが固まればそれなりにはなるでしょうけど、二週間では――」
「そうか……」
「他の初心者の子たちはどうなの?」
「ん、まあ紋白辺りは流石だな。大体のことは卒なくこなせてる。運動センスの塊って感じだ。あいつがセンターに入れば、うちのセンターラインは盤石だよ。あと伊藤我も野手としては問題ないと思う。パワーもあるし、打線の主軸も張れるんじゃないか」
「まあその二人はそうでしょうね。で、残りは?」
「あー……うん。倉は素振りだけならなんとか、人を殺さない程度にはなったんだけど、ボールを打たせようとすると未だに……」
「あの子が戦力になってくれれば心強いんだけど……夕霧先輩は?」
「死んでた」
「そうよね」
これでも状況は幾分マシな方だ。打線も守備も、穴があってもフォローは利く。
「やっぱり、一番の懸念は、ピッチャーってことね……」
「ピッチャーか……」
琢磨の脳裏に過ぎるマウンド上で微笑む小さな影。
「ねえ、例のアンタの幼馴染……その後何か進展はあったの?」
「いや……相変わらず学校には来てないし、倉からの連絡にも応答なし。連絡先調べようにも、どこも個人情報には厳しくて無理だったし、あいつ小学校の頃俺以外に友達いなかったから、連絡先知ってる共通の知り合いもいない。昔住んでた家にも行ってみたけど違う一家が住んでた」
「手詰まりね……」
「……一つだけ、小さな可能性が残ってはいるんだけどさ――」
「なに?」
「いや……それはこっちからどうこう出来ることじゃないから言わない」
「……ふーん。ま、いいわよ。未来のラッキーを期待すると裏切られたときに計算が狂うしね。今の戦力で勝つ方法を探るわ」
「そうだな。さて、もういい加減帰ろうぜ」
「そうね。はあ……しょうがない、スラパン穿いて帰るか。ノーパンよりはマシよね」
蓬はよっこらせと立ち上がりつつ、自然に目を開いた。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
「フハハ、忘れていただろう! 俺が未だ全裸で仁王立ちしていたことを!」
蓬はもんどりうって尻もちをつき、慌ててスカートを押さえてから、後ろを向いて蹲って体を震わせる。
「うああぁぁあぁ……見ちゃったぁ……目が腐るぅ……視力が落ちるぅぅぅ……!」
「どうやら遂に確認したようだな! これで俺のパンツ泥棒の疑いは晴れた! さて、風邪ひくし着替えて帰ろ」
興奮冷めやらぬ琢磨はさっさと服を着てから、放心している蓬の貴重な姿を写真に収めておこうかとスマホを取り出した。
「……ん?」
メールを受信していた。差出人は知らないアドレス。
一つだけ残っていた小さな可能性。
彼女は、琢磨の連絡先を知っているのだ。
■□ □■
「……なあローラン」
翌日、火曜日の昼休み。ローランと机を突き合わせて弁当を食うのが習慣になりつつある琢磨だが、今日はなんだか落ち着かない。
「なんか物凄く視線を感じるんだけどさ」
「ん? そんなの前からじゃあないか。僕達は男というだけで珍獣扱いなんだから」
「……いや、そういうのとも違うというか……なんかもっと浮ついててこそばゆいんだけど、それでいてべっとりと粘つくような――」
一旦箸を置き、周囲を見回す。教室内も外も、当然だが女子ばかりだ。
一学年あたり六クラスで、男子は各クラス二人ずついるのだが、他のクラスの男子とは今のところタイミングを逃していてあまり親交が無い琢磨とローランだった。
そんな中で、彼ら視線を向けている女子がちらほら。以前までは「うわこっち見た! 汚っ!」という反応だったが、今は「きゃっ! 目が合っちゃった!」という雰囲気に思えなくもない。
「こ、これは……キテるのか……!? モテの波が……!」
「まっ、僕は街を歩くだけでレディ達の視線を釘づけにしてしまう男だからね」
ローランはミートボールを頬張りながら、廊下の女子へウィンクを一発。
「あぁ……っ!」
その女子は喘いで気絶した。
「えっ、何その必殺技……」
(……まあ、ローランはオーランド・ブルームみたいなイケメンだし、遅かれ早かれこういう存在になるとは思ってたよ。でも重要なのは、俺にも女子の視線が向けられているということだ。『三組のイケメンじゃない方』みたいな影の存在ではなく、『三組のイケメン双龍』として崇め奉られている可能性が出てきたのだよ!)
捨てたはずのハーレムへの情熱を沸き上がらせつつ、琢磨は喧噪に耳を傾ける――
「あれが噂の王子かぁ」「なんて端正なお顔立ち!」「やだ……胸板全開……素敵」「あのフェロモンだけ吸って生きていきたい」「目が合っただけで孕んじゃいそう」「乗馬部で白馬を華麗に乗りこなしてるらしいよ」「マジ? リアル白馬の王子様じゃん!」「で、その隣にいる小市民はどなたですの?」「執事とか?」「執事ってツラじゃないっしょ(笑)」「受けっぽい顔してるしね」「あ? あっちが攻めだろ殺すよ?」「そんなこと言われたら……戦争だろうが……!」「護衛の近衛兵とかどうよ。下賤な身分からの叩き上げの軍人」「あ~いいね。脱いだら意外といいカラダしてそうだし」「軽い気持ちで近衛兵に手を出した王子。しかし彼らの身体の相性は抜群で、ついついその行為にのめり込んでいってしまう。王子にとっては単なる遊びなのだと分かっていても、近衛兵は己の忠誠心が段々と恋心に変わっていくのを感じていた――」
(あれっ? なんか期待してたのと違う。そういえば倉が――)
『そういえば石山くん、同じクラスの伊達男と掘りつ掘られつの仲だって風の噂で聞いたんだけど本当? 今度見学させてもらっていいかな』
(……おんなのこってこわい)
女社会の恐ろしさを学んだ琢磨は、ウィンナーを齧りつつスマホを取り出し、昨日来た一通のメール画面を開く。
From:60ft-6in.away@eiyu.ne.jp
Sub:(無題)
明日の部活終わった後
部室に残ってて
「……うーい、琢ぁ磨ぁ!」
ローランが肘で小突いてきた。
「なんだそれ、女子からのお誘い?」
「……まあ、たぶん」
「やるじゃあないの。こりゃあ『お友達から始めましょう』から始まり、お互いドギマギしつつ距離感を測りながら、ある日偶然指先が触れ合い『あっ、ゴメン……!』『ううん! 別に……嫌じゃ、なかったから……』『『あのっ……!』』『あ、そっちからどうぞ!』『ううん、そっちから』『いやいやそっちから』『そんなこと言わず』『……ぷっ』『……ふふっ』『『あはははははっ!』』『……じゃあ一緒に言おうか』『……うん、そうだね』『『せーのっ――』』……という最も甘酸っぱくて良い感じのヤツじゃないか! フゥーゥ!」
「……一人二役での熱演による囃し立てをどうも」
「なんだよ琢磨、お前らしくない。待ち望んでいた桃色青春ストーリーの幕開けだぜ? 何故にそんなローテンションなんだ」
「いやぁ……その――『いろいろあって別れた旦那と仕事先で偶然再会し、業務上これからも付き合っていかないといけなくなって、どう距離感を掴んだらいいのか分からなくて悩んでる元女房の気持ち』……って言って分かる?」
「全然分からん」
■□ □■
練習後に何があろうと、任された務めは果たさねばならない。
というわけで部活の時間。琢磨はブルペンで美鶴の投球を見ることになった。
「昨日ネットで少し調べたら、バッターとピッチャーの両方をこなす選手を『二刀流』と呼ぶそうだね。まさに私にぴったりの称号だと思わないかい」
「ああ、うん、はい」
マウンドに立ち、プレートに足を掛けた美鶴。琢磨は彼女の二メートルほど横に立つ。
「じゃあいくよ。しっかり見ていてくれ、穴があく程にね――」
美鶴はセットポジションから、左足をあまり上げず、滑るように動き出した。茶々から借りた投手用グラブを高々と掲げ、逆に右肩はグッと下げる。そのまま力いっぱい胸を張り、強靭な体幹を躍動させて腰を軸に上半身を回転させ、右手が最も高い位置に来た瞬間に、「っづぁ!」と声を出してボールを離した。
唸りを上げるような迫力で放たれた白球はグングンと伸び、蓬の頭の上を遥か越え、防球ネットの上の方に命中。跳ね返って落ちてきた。
「うーん、もう少しで柵越えだったのだが」
「投擲種目やりたいなら今すぐ陸上部戻れよ」
「はっはっは、冗談さ」
笑う美鶴だが、このとんでもないノーコンは本気らしかった。
ボールを拾った蓬が、マスクを外しながらこちらにやって来る。
「こういう状態なんだけど、どうよ。横で見てて」
「これを試合までにどうにかせにゃならんのか……」
肩の力は申し分なく、スピードも出そうだが、最低でもストライクゾーン周辺に球がいってくれないと試合では使い物にならない。
「ふむ、どうすれば針の穴を通すようなコントロールを手に入れられるんだ」
「いいか、ボールをリリースするときにだな――」
美鶴のフォームでは、リリースポイントが体の中心の真上辺りだった。槍投げでは、槍が放物線を描くように斜め上に向けて発射するのでそれでよかった。
野球の投手は、個人差はあるが、顔よりも前でボールを放す。その方がスピンが掛かるし、体重も乗る。
「なるほど……ボールを押し込んでバックスピンを掛けるわけか」
「二刀流とかよりも、こういうことをネットで調べてきてほしかった」
「まあまあ、ネットより君を信用しているということさ」
美鶴はもう一度プレートに足を掛けた。蓬がベースの後ろに腰を落としたのを確認すると、再び投球モーションに入る。本人は意識していないが、左足をいっぱいまでは踏み出さず、上半身の回転と体幹の強さを利用した外国人投手のようなフォーム。槍投げと同じくスリークォーターから振り出された長い右腕は、先程よりも前の位置で、しっかりとボールにスピンを掛けて送り出す。
「っづぁ!」
放たれたボールは唸りを上げて、左バッターボックスの上を通過。慌てて跳び上がって伸ばした蓬のミットに収まった。
「まあさっきよりはマシか……一度言われただけでそれなりに修正できるあたりは流石のセンスだな」
「サッカーのゴールキーパーにでもなった気分よ」
蓬がぶつくさ言いながらマウンドへやって来た。
「でも、見られるようにはなったわね。多分一一〇キロ以上出てるし、もう少し力抜いてコントロール重視で投げてみて。今は全部本気で投げてるでしょうけど、試合でそんなことしてたらすぐバテるわよ。余計な力を抜いて、スピンとキレを意識。いい?」
「了解だ。石山君は何かあるかい?」
「えーっと……槍投げの時の上方向へ投げてた意識がまだ残ってると思うんだ。もっと投げ下ろす感覚でいい。マウンドは高くなってるんだし。ああ、そういえば――」
琢磨の少年野球時代、盗塁を刺す時の送球に関して監督に言われたことを思い出す。
「『相手の手前の地面に叩きつける感覚で投げろ』って言われたっけか。まあ、なんか、そんな感じでいろいろ試してみて、自分に合うフォームを探してみてくれ」
「分かった。なんとしても試合に間に合わせてみせよう」
美鶴は心強く微笑んだ。
「同時に俺の尻を撫でまわしていなければ格好良かったのになぁ……そういえば部長は? 何かしらアドバイス貰えたらありがたいんだけど」
「部長ねぇ……」
琢磨の尻を撫でる美鶴の手を眺めて口元を引き攣らせながら、蓬は言った。
「美鶴がブルペンに入ると、あの人さっさと野手練習の方に行っちゃうのよ。色々と複雑な心境なのは分かるんだけど……」
「そっか――」
溜息を吐きつつ、琢磨は美鶴の魔手をビシッと叩き落とした。
■□ □■
外の水道でボトルを洗っていた琢磨が部室に戻ると、中は無人だった。
美鶴のピッチングを見た後も、マネージャー業をこなしつつ皆の練習を見たり、たまに拙いながらもアドバイスをしたりと、仮入部ながら忙しく飛び回っていた琢磨は考える。
――このチームは強くなる。
走攻守が高いレベルで揃った中心選手・エリス。
彼女と二遊間を組む彰子は、『守備ばかり練習してきた』という言葉の通り、打撃はからっきしだが内野守備は鉄壁の一言。
ファーストのみまも、野球歴一年とは思えない程の安定した捕球能力で、嬌声はこぼしても送球はこぼさない。
蓬だってキャッチングも上手いし肩もそこそこ。パワーはあまり無いが、バットコントロールに優れ小技もお手の物。
茶々は投手としてはもちろん、野手としても並以上。派手さは無いが、円熟味すら感じる堅実な打撃。フィールディングも良い。
未経験者組に目を向けても、主に外野手、特にセンターとして練習しているノノは、その驚嘆すら覚えるような身体能力を発揮し、守備走塁で女性離れしたプレーを何度も見せている。打撃に関しても全身のバネをフルに使い、小柄な割にパンチ力がある。その素直で明るい性格も相まって、非常に心強い選手だ。
美鶴は肩を生かせる三塁手や外野手として期待されている。ノノほどの万能性は無いが、肩の強さとパワーについてはエリスに匹敵し得るものを持っている。
そしてしほり。今日もみまを何度か殺しかけた。部室の壁はまた穴が増えて、紛争地帯のロケット弾が着弾した建物さながら。この破壊的なパワーを自在に扱えるようになれば、きっと怪物が生まれる。
このように全員が――否。いつも死にかけの中以外ほぼ全員が、可能性に溢れた、タレント揃いの魅力的なチームが出来上がりそうである。
だがそれは今後もじっくりと体を鍛え上げ、鍛錬に鍛錬を重ねていけばの話だ。
当然、野球部の存続は絶対条件。
あと二週間――正確には一週間と五日後の試合までに、全国レベルのソフト部に野球で勝てるだけのチームを作らねばならない。
とはいえ相手はソフトボール部。野球経験者が多いとはいえ、本業と同じく全国レベルとはいかないだろう。互角以上に勝負出来る方法はあるはず――そう考えると、一番の不安要素はやはり投手なのだった。
野球の試合結果はピッチャーの力にかかる比重がかなり大きい。
茶々の実力に文句は無い。コントロール、スタミナ、変化球のキレ……どれをとっても自信を持ってエースと胸を張れるレベルだ。ただ問題のイップスが試合中に発症すれば、続投は不可能。未だストライクゾーンすら狙えない美鶴では、到底チームを勝たせることは不可能だろう。
(実戦レベルの投手がもう一人いるだけで、俺達の勝利はグッと近づく)
琢磨の頭には一つの名前しか浮かばない。
■□ □■
石山琢磨と玉響みなも、二人が互いを認識したのは、小学二年生の夏休み。
既に野球小僧だった琢磨が河川敷の高架下で一人壁当てをしていたところに、自転車のチェーンが外れて泣きべそをかいたみなもが現れたのが最初だった。
父にミットを買ってもらい、キャッチャーを目指し始めたその頃の琢磨にとって、ボールを前に投げることすら満足に出来ないほど運動神経が壊滅的だったみなもは、練習相手にもならず、正直鬱陶しい存在だった。実際新学期になってからは距離を置こうとした。
しかしみなもは、彼の想定以上に面倒くさい奴だった。
毎日毎日、しつこく琢磨にくっついてきては練習をねだった。
小学生男子らしく、琢磨は『女子と仲良くしている』という理由で他の男子から散々からかわれた。それが嫌で、自分に構わず女子の友達と遊んでいろとみなもに訴えたが、残念なことに彼女には琢磨以外に友達と呼べる者がいなかった。
しばらく粘着されるとさすがに琢磨も折れ、こうなればと逆にヤケクソになってみなもにボールの投げ方を教え込んだ。
みなもはとにかく真面目で、不器用ながらひた向きに毎日練習を続けた。最初は嫌々だった琢磨も、上手になるにつれ本当に楽しそうな笑顔を浮かべる彼女と一緒に居るのが楽しくなっていた。
なんとかそれなりに投げられるようになってからは、琢磨のキャッチング練習の為にひたすらボールを投げ込ませた。みなもはボールを投げられることがひたすら嬉しいと言わんばかりに、明るく笑顔を輝かせていた。
毎日、毎日――
何日も、何週間も、何か月も――
琢磨のキャッチングが上達すると共に、みなもの投げる球も質を上げていった。
三年生になり、琢磨は地元の少年野球チームに入った。みなもも当然のように付いてきた。彼女の運動神経ではやっていけないと琢磨は思ったが、それは見込み違いだった。
ずっと二人きりの練習だったから知らなかったのだ。
みなもがいつの間にか、同年代の誰をも凌ぐ球を投げていたことを。
それは才能とも言えるし、努力の賜物とも言えた。
彼女は一日中ボールの投げ方のことしか考えておらず、自分なりに色々考え、練習を重ねていたのだ。この年頃で、そこまで一つのことにストイックになれるということは、十分優れた才能と言えるだろう。
みなもはその年のうちに試合デビューを果たした。
あいつの師匠は俺だ。師匠が弟子に負けてはいられない――そう奮起した琢磨がついにレギュラー捕手の座を射止めた五年生の春、みなもはチームのエースに君臨していた。
■□ □■
――コンコン。
小学生時代の思い出に没入していた琢磨は、部室に響くノックの音で現実へ引き戻された。西日が窓から差し込んで、室内を橙に染めている。
――コンコン。
もう一度。琢磨は散らかった床に躓き、カバンをひっくり返しながら扉へ駆け寄り、ノブを捻った。
彼より頭一つ分低い身長。ふわっとした栗色の髪。どこか幼さを残した可愛らしい顔立ち。間違いなく、あの日琢磨が痴漢から救おうとした少女であり、記憶の中の背番号1がそのまま成長した姿であった。
目が合った体勢のまま数秒、二人は静止していた。彼女の瞳に、自分のポカンとした間抜けな顔が映っているのが琢磨には見えた。
「――みなも」
「四日ぶり――ううん、五年ぶりだね……久しぶり、クマちゃん」
自分の間の抜けた仇名を呼ぶみなもの声に、喉が詰まる琢磨。必死に言葉を押し出す。
「ああ……久しぶり」
みなもに会って何を話そうか、色々考えていたはずなのに、いざ彼女と顔を合わせると琢磨の頭は真っ白になっていた。そのうちにみなもは彼から視線を落とし、言った。
「ありがとう、待っててくれて」
「あ、う、うん……えっと……めっちゃ散らかってるけど、中、入る?」
「うん」
ぎくしゃくした動きで、琢磨はみなもを部室内へ迎え入れた。散らかったものを端へ押しのけ、パイプイスを出そうとガサゴソしていた彼の背へ、か細い声が投げかけられる。
「この間は本当にありがとう。碌にお礼もせずに逃げちゃってごめん」
「……いいって。結局あんなことになっちゃったんだし……」
二人の脳裏にあの時の痴漢騒ぎの模様が甦り、思わず無言になる。
(って余計気まずくしてどうすんだ……!)
琢磨は手早くイスを二つ用意して、片方をみなもに勧めた。いつも茶々専用になっている少し上等なものである。彼女が座るのを見届けてから、もう一つの普通のパイプイスに腰を下ろした。
「――クマちゃん、身体はおっきくなったけど、昔と変わらないね」
「そう、かな。みなもは……えーっと……」
「あはは。私って小っちゃいから、いっつも『成長してない』ってからかわれるんだよね。一応これでもちょっとは変わってると思うんだけど――」
(……そんなことは分かってるよ)
琢磨の中で、口に出せない悲しみが膨らむ。
彼の記憶の中の彼女は、いつも笑っていた。
本当に楽しそうに、心の底から笑顔が溢れ出していた。
(昔のお前は、そんな寂しそうな、哀しそうな顔しなかっただろうが……)
彼女の面影を探る琢磨の視線の先で、みなもは彼の足元に目をやり、一層相貌の憂いを濃くした。
「まだ野球、好きなんだね……」
彼女の視線を辿ると、そこには倒れた琢磨のカバンと、そこから飛び出した何冊もの書籍やWEBページをコピーした書類の束。全て野球関係だ。コーチング理論や技術論、応急手当の方法や、フィジカルトレーニングについての研究書まで。
「……今マネージャーやってるからな。初心者のコーチングもしなきゃいけないし、俺キャッチャーのこと以外何も知らなかったから、勉強中なんだ」
「私を育てた名コーチだもん。クマちゃんなら出来るよ」
儚げに笑う目の前の少女。琢磨は彼女を、みなもと同じ人間だと認めたくなかった。
(でもそんなの俺の我儘だ。だって彼女をこうしたのは、他ならぬ俺なのだから)
「なあ、みなも。その……俺――」
「――しほりんはどう? 頑張ってる?」
「へ?」
一瞬何のことか分からなかったが、すぐにしほりのことだと考え至る。
「あ、ああ、倉ね……頑張ってるよ。なかなか成果は出ないけど……」
「そう……不器用な子だけど、頑張り屋さんだから、優しく見守ってあげてね」
「……みなも、俺達さ――」
琢磨は大きく息を吸った。
「再来週の土曜日、ソフト部と試合して勝たないと、野球部潰されちゃうんだ。メンバーは揃ってるけど、投手が手薄で困ってる。だから――」
「それ以上は言わないで」
みなもは琢磨の言葉を冷たい声で遮り、顔を窓の向こうへ向けた。
「……分かってるよ。クマちゃんはまた、私を楽しい世界へ誘ってくれる。手を引っ張ってくれる。クマちゃんは優しいから」
窓の外は美しい夕焼けだった。のしかかるように濃いオレンジ色。
「でも、ごめんなさい。私はもう野球はやらないよ」
「……やっぱり、まだ気にしてるのか。俺の右手のこと」
みなもは何も言わない。琢磨は左手で、自分の右手首を握りしめた。
「これは俺が馬鹿だっただけだ。みなもは何も――」
「やめてッ!」
みなもは突然語気を荒げ、声を震わせる。
「やっぱり……クマちゃんならそう言ってくれるよね。でも駄目だよ。私を許しちゃ駄目なんだよ。私なんか――クマちゃんから野球を奪った私なんか、許されていいはずない。クマちゃんを差し置いて野球をする権利なんて、あるはずないんだよ」
「お前……そんな……そんな悲しいこと――」
琢磨はふらふらと立ち上がった。
「そんな顔……するなよ、みなも……」
「……ごめんなさい。でも安心して」
みなもは笑顔だった。琢磨はこんな哀しい笑顔を見たことがなかった。
「私、もう野球なんて嫌いだから。やらなくったって、辛くなんかならないよ」
琢磨は何も言えなかった。みなもの意志は固く、ここで何を言おうと、状況が覆らないということを悟ってしまった。
「じゃあ……しほりんのこと、よろしくね」
みなもはそれだけ言い残して席を立ち、部室から出ていった。
琢磨はしばらくの間、力なくただ立ち尽くしていた。
「頑固で面倒で……そんなとこばっかり変わってなくて……馬鹿野郎……っ」
琢磨が彼女を思い出す時に必ず浮かぶ、夏の日差しのような笑顔。
それがすっかり淀み、空虚に消え失せていたことが、彼には何よりも衝撃だった。
「俺が……奪ったんだ、あいつから――クソッ!」
琢磨は動かない右手をロッカーに叩きつけた。
「ヒィッ!」
「!?」
そのロッカーの中からくぐもった悲鳴が聞こえて、琢磨は飛び上がった。
「だ、誰っ!?」
「Um……二人の話を聞くつもりはなかったんデスけど……」
「その気品と可憐さの中にも無邪気さを感じさせる麗しの片言は、まさかエリス先輩!」
「ええまあ、ハイ……」
「な、なんでそんなところに……」
「その……着替え中に鍵を掛け忘れていて、閉める前にタクマが入ってきてシマッタので、慌ててここに……」
「あー……ごめんなさい。てっきりみんな帰ったのかと――」
(――ということは……エリス先輩は今まさにこの中であられもない姿で、その芸術品さながらの女体を露わにしているということじゃ……!)
「ハフゥ……ハフゥ……!」
「……ちょ、タクマ……あんまり近くににじり寄られるとその……恥ずかしいデス……」
「おっほ……すみませんごめんなさいありがとうございます」
「そんな、謝るのはこちらの方デス。盗み聞きする形になってしまって……」
数秒間、ロッカーの金属扉を挟んで、痛い沈黙が流れる。
「さっき話していた女の子……『ミナモ』って、前に言っていたあの子デスよね?」
「はい……その――すみません、何でもないです。俺外に出てますね」
「待ってくだサイ」
回れ右をしかけた琢磨は、エリスに呼び止められて足を止めた。
エリスはいつもの穏やかな微笑みが目に浮かぶような優しい声で語り掛けてくる。
「タクマとミナモの話、ワタシに聞かせてくれマセンカ?」
「……そんな、先輩にお聞かせするような、楽しい話じゃないですから」
「――タクマ……ワタシはなんとしても勝ちたいデス。勝って、野球部を存続させたいのデス。チャチャと同じか、それ以上に――」
ロッカーの声は、幾分かトーンを落としつつも、はっきりと聞こえた。
「つまり、みなもを野球部に引き入れたいってことですよね」
「アナタも一緒に、デス」
「……そんな、俺なんて。誰にでもできることやってるだけですから」
「アナタがチャチャに言ったこと、覚えてマス? 『いつ乱調を起こすかわからない投手なんて信頼できない』って」
「……出過ぎたこと言ったと思ってます」
「感謝してるんデスよ、チャチャも、ワタシ達も。はっきり言ってくれたコト」
琢磨は耳を疑った。
「感謝……?」
「チャチャが一番の不安要素なのはミンナ分かってマシタ。でも言えなかっタ。一緒に戦ってきたワタシ達には、チャチャの辛さや、背負ってるものの重さが痛いほど分かってしまいマスから。タクマがズバリ言ってくれたおかげで、チャチャはほんの少し、肩の荷を下ろせたんデスヨ」
選手ではない唯一の男子で、部に参加して間もなく、さらに心の中に絶対的エースが他に居たからこそ――それは琢磨だからこそ言えた、冷酷で現実的な言葉だったのだ。
「でも、チャチャが下した荷を背負ってくれる存在がいない。ワタシ達はミナモが欲しい。その為にはアナタに頑張ってもらわなきゃいけないんデス。二人の問題では、ワタシ達は部外者だから。でも部外者だからこそ、話を聞いてあげることは出来マスヨ」
それっきりエリスは何も言わなくなった。
琢磨は一度深く息を吐く。
ロッカーの中、エリスの縋るような表情が透けて見えるようだった。
「……何度も言いますけど、楽しい話じゃないですよ」
そう前置きして、琢磨はロッカーの扉に向かって語り始めた――
■□ □■
みなもの直球はバットに掠りもせずミットに収まった。アンパイアのコールが木霊する。
近隣チームとの練習試合。先発のみなもは絶好調で、相手バッターの男子達をきりきり舞いさせていた。
「三回パーフェクト、六奪三振。今日もいい感じだな」
ベンチに戻りながら琢磨はみなもに声を掛けた。みなもは「えへへ」と笑って、照れたようにグラブで口元を隠した。
琢磨は視線を反らしつつ、同じくミットで口元を隠し咳払いを一つ。
「えっふんっ……相手は全然タイミング合ってなかったから、このまま真っ直ぐで押してくぞ。四番の奴だけはちょっと厄介だけど、まあランナー居なければ歩かせてもいいし、打たれても大したことは――」
「えー……歩かせたくないよ」
琢磨の戦略に異議を唱えるみなもは、しかし相変わらずの無邪気な笑顔だ。甘えるような目で真っ直ぐ彼を見つめてくる。
「…………分かったよ。緩急使って抑えてくぞ」
「うん。楽しみだね」
一層両の眼を煌めかせて、みなもはベンチに腰を降ろす。すかさずバッグからくたびれたタオルを取り出すと、自分の顔の汗を拭うでもなく、先ほどのイニングでグラブに付着した僅かな土を、鼻歌を奏でながら丁寧に拭き取り始めた。
「いつもそんなちょくちょく拭かなくても……手入れは帰ってからでいいんじゃねぇの?」
「んー? おうちでもやってるよ? オイルつけて磨くとピカピカになるんだよ! クマちゃんほんと粗っぽいんだから。ダメだよ道具は大事にしないと」
「まあそうだけどさ……そんなに大事かよ、そのグラブ。もうちっちゃいだろ」
みなもは五年生になっても、琢磨が最初にあげたグラブを使っていた。かなり傷んできていたが、それでも彼女はグラブを替えようとはしなかった。
「えへへ……大事だよー。だって――」
「石山! 打順回ってくるぞ! さっさと準備しとけ!」
「やべっ!」
監督に急かされ、琢磨は慌ててプロテクターを外す。そんな彼を見て楽しそうに笑いながら、みなもはいつものように言う。
「ホームラン、よろしくね!」
「おう! 見とけよ俺の大アーチ!」
その打席、琢磨は一・二塁間を抜ける渋いライト前ヒットを打った。
■□ □■
薄紅の花弁が姿を消し、新緑がその青さを増していこうかという頃のある日、みなもは練習開始時間ギリギリに姿を見せた。いつも待ちきれないとばかりに二時間は前に来て、琢磨をキャッチボールに付き合わせる彼女が。
「どうしたんだよ。寝坊か?」
そう尋ねた琢磨に、みなもはただ毎度のごとく「えへへ……」と口を歪めた。
「まあいいや。どうすんだキャッチボール。ちょっとなら時間あるぞ」
「――あ、うん……あのっ……グローブ、忘れちゃって……」
「はぁ? お前が?」
あれ程大事に大事に扱っていたグラブを忘れるなんて、これが初めてだった。
「どんだけ慌ててたんだよ……さっさと予備のやつ借りてこいよ。どれもボロいけどな」
「うん……えっと――ごめんなさい」
「なんで俺に謝るんだ」
みなもはその日から、大きすぎる借り物のグラブでプレーをするようになった。
翌日以降も自分のグラブを持参することはなく、琢磨がそのことを尋ねても「えへへ……失くしちゃって」とへらへら笑うだけだった。
試合にも影響は表れた。合わないグラブを使っているからか球威が明らかに無く、打たれることが多くなった。
この際だから新しいグラブを買えと言われても聞かず、ついにはエースの座を降ろされてしまった。
六年生の新エースとバッテリーを組むことが多くなった琢磨だが、みなもとのマンツーマン練習の時間は以前と同じく確保していた。調子を取り戻させようと色々やってみたが効果は無く、彼女は控え投手に甘んじたまま、夏は幕を開けた。
■□ □■
夏休みも間近な七月中旬、みなもが学校を休んだ。夏風邪とのことだった。
その年度から同じクラスになっていた琢磨は、彼女へ連絡帳とプリントを届ける役目を担任から仰せつかった。相変わらずみなもは彼以外に友達が居なかった。
彼は何度かみなもの家には行ったこともあり、両親とも顔見知りだった。
玄関口でブツだけ渡して帰るつもりだった琢磨だが、みなもママに「カルピスでも飲んでいきなさい」と背中を押され、玉響家へお邪魔した。
リビングで濃い目のカルピスを啜りながら琢磨はみなもママと色々話をしたが、ふとみなもの様子が気になり、トイレに行くと席を立って、こっそり二階のみなもの部屋へ行ってみた。
少しドキドキしつつも「みなものへや」とプレートの掛かったドアのノブに手を掛け、静かに開く。
土とグラブ用のグリスの匂いが鼻腔に満ちる。女子の部屋らしくない、でもみなもらしい香り。ぬいぐるみとか可愛らしい小物とか、女子らしいものとは無縁の、野球関連の物品ばかりが雑多に置かれている部屋。
自分の大好きなものに囲まれるようにして、彼女はベッドの中で眠りについていた。
「ぅ~ん……それがボークになるなんて知らなかったんだよぉ~……むにゃむにゃ……」
彼女は夢の中でも野球をやっていた。
(安らかに眠りやがって、心配して損したわ)
琢磨が報いとしてしばらくみなものほっぺを弄んでいると、彼女が何かを抱きしめて眠っていることに気が付いた。
古ぼけているが、よく手入れされていて光沢を放つピッチャー用グラブ。
「――えっ?」
みなもが新しいグラブを買ったという話は聞いていない。
(なんだ、やっぱり失くしてなんてないじゃん。変だと思った。じゃあなんで失くしたなんて言ったんだろう……)
そっと彼女の腕をどかしてグラブを見た。よく観察する間でもなかった。
ありとあらゆるところに、油性マジックで汚らしい罵詈雑言の数々が書き殴られていた。男子小学生が考えそうな、ひねりが無く単純で、しかし心に直に刺さる醜い言葉。
「誰が……こんなこと――」
琢磨の頭の中で、ここ最近のみなもの様子が勝手にリフレインされていく。
やはりおかしくなったのはみなもが初めてグラブを忘れてきたときだ。あの時点で何かあったのだろう。それからずっと彼女は不調のまま。レギュラーからも陥落した。
ここまで総じて、落書きした奴の目論見通りに事が進んでいるのだとしたら――
「……んむぁ……? クマちゃんだぁ……おはよぉ――クマちゃん!? えっ? なんで居るの!? ダメだよ私パジャマだから!」
みなもは目を覚ました。真っ赤な顔で布団に潜ろうとしたので、琢磨は無理やりその布団を引っぺがす。
「ダメダメ! 私達にはまだそういうのは早いと――」
「そのグラブ」
みなもの顔が赤から青へと色を変える。
「あ……ち、違う、よ……? これはね、これは――」
「お前がダメになったの、そのせいなのか」
「わっ……私は――」
「どうなんだよ」
みなもの目を真っ直ぐ見つめて問いかける。やがて瞳は潤み、彼女が我慢できずにしゃくり上げ始めると同時に決壊した。
「わ、私っ、ちゃんと投げたいよぉ……っ! クマちゃんのミットに思いっきり投げたいよぉ……っ! 助けて……助けてよぉクマちゃん……っ!」
「まかせろ」
琢磨は落書きだらけのグラブを胸に抱き、みなもの部屋を大股で後にした。
「投手を助けるのが捕手の役目だ」
■□ □■
その翌日、練習が終わった後で、琢磨はある人間をグラウンドの隅へ呼び出した。
「なんだよ、配球の話か? 別にいいよ。俺さっさと帰って忍たま観たいんだけど」
「……あいつなら、野球の話には何時間でも付き合ってくれるぞ」
「は? なんの話?」
六年生の新エース様は、不機嫌そうに腕を組んだ。琢磨はバッグからみなものグラブを取り出し、彼の胸に押し付けた。
「ん? ……なんだよこの汚ねえグラブ」
「みなもの宝物だ。試合中でもいちいち磨いたり、抱っこして寝たりするほど、アホみたいに大事にしている大切なグラブなんだよ」
いじめがどこで起きるのか。まず思い当たるのは学校のクラス内だろう。
確かにみなもは友達が居ないし、クラスでも孤立しがちである。だが彼女は学校ではいつも琢磨にくっついて回っており、琢磨の目の届く限りではいじめられている様子はない。それに学校で被害に遭っているなら、ランドセルや上履きや机や教科書なども標的になっていないのは不自然だ。
彼女がどれだけグラブを大切にしているか知っている人間の犯行――つまり野球チームの関係者という可能性が高い。
みなもはグラブが使えなくなり、調子を落とし、控えに回った。それによって得をする者は誰か。みなもの後釜としてエースの座に収まった彼しか有り得ない。
「お前だろ! みなもを虐めたのは! みなものグラブをこんなにしたのは!」
新エースは腕を組んだままグラブを見下ろし、言った。
「……女なんかが野球やってんじゃねぇよ」
「なんだと……ッ」
「野球は男がやるもんだろ。なんであんなチビの五年生の女子がエースで俺が控えなんだよ。おかしいだろ。だからそれを教えてやったんだよ。『バレないように手を抜いて投げろ。さもないと今度はお前自身だ』って言ってやったら、あのざまだぜ」
琢磨は生まれてこの方感じたことのない怒りが腹の底から湧き上がるのを感じた。
雨の日も、風の日も、雪の日も――豆が潰れ、爪が割れ、血が滲んでも、琢磨が止めようが身体が悲鳴を上げようが、みなもは笑顔でボールを投げ続けた。
ひたすらにストイックになれる強い心と、無理を強いても壊れない強い身体。そこに途方もない努力を注いで、小さな体躯をものともせずにエースへと駆け上がったみなも。
みなもの総てを、彼は下劣な手段で踏みにじったのだ。
「お前はエースなんかじゃない。俺はお前の球なんか受けたくない」
怒りに震える琢磨に、新エースは下卑た笑みを向けた。
「お前がどう思おうと、あの女が潰れた以上エースは俺だ。その俺の球が受けられないってんなら、お前もレギュラー剥奪だな」
「構わねぇよ。エースはそんなに軽くないんだ。お前なんかに背負えるもんじゃない」
「――チッ……いい加減ウゼーんだよ!」
新エースはみなものグラブをひったくると、思い切り高く放り投げた。腐っても投手の肩。グラブは防球ネットを越え、グラウンドの外へ飛んでいってしまった。
「なにすんだよ!」
「うっせーな、ゴミだろあんなもん」
琢磨は一発ぶん殴ってやろうかと思ったが、飛んでいったグラブの方が心配だった。グラウンドを飛び出し、グラブの飛んでいった方へ駆けだした。
「ふざけんな……ふざけんなよチクショウ……!」
打者との勝負に拘り、いつ何時も手を抜くことを自分に許さなかったみなも。
そんな彼女にとって、わざと打たれることがどんなに屈辱だっただろうか。
どれほど六年生の脅しに恐怖したのだろうか。
(なんで気づいてやれなかったんだ……!)
防球ネットの外側には二階建ての民家があった。琢磨はそこに人が出入りするところを見たことがなく、どんな人が住んでいるのかも分からないが、位置的にグラブがその敷地内に飛び込んでいるのは間違いない。
民家の前に駆けつけるやいなや呼び鈴を押すが、チャイムの音が聞こえない。もう一度押す。やはり無音。壊れているようだ。仕方なく玄関のガラス戸を叩いて「すみませーん!」と大声を上げた。しかし返答は無い。より力を入れて叩く。家の中は物音一つない。
(留守なのか?)
琢磨はその民家の全景をよく眺めてみた。
玄関のガラス戸は埃が溜まり、曇ってしまっている。壁にはひび割れが目立ち、所々塗装が剥げている。あまり広くない庭は雑草の楽園。小さな縁側は木材が腐っており、ガラス戸が割れて破片が散乱していた。
(空き家なのかここ――あっ!)
見つけた。その割れたガラス戸の上、二階の部屋の窓の下から突き出た屋根にグラブが乗っている。
息を潜めて庭へ入ると、グラブを払い落とせそうな長い棒を探した。しかしグラブは屋根の中心付近にあり、その辺に落ちている棒ではどうしようもなかった。
琢磨は迷わず割れたガラス戸から空き家へ侵入した。
空家は埃や蜘蛛の巣だらけで、ホームレスの生活痕や不良が屯していた痕跡が見受けられた。階段を上り、二階へ。グラブのある屋根を見下ろせる部屋を見つけた。
窓の向こうにはグラウンドを望め、視線を下げれば二メートルほど先に、小さいグラブがちょこんと落ちている。窓を開けようと手を掛ける。開かない。鍵が掛かっている。鍵を回す。回らない。錆びついてる。
「っだあァッ!!」
窓をドンと殴るもびくともしない。部屋を見渡す。一升瓶が転がっていた。半分くらい中身が入っている。迷わずそれを拾い上げて振りかぶる。
「ふんぬぁ!!」
フルスイングで窓をぶち破った。瓶を放り投げる。身をかがめてガラスに開いた穴に潜る。ユニフォームが引っかかってビリッと音がしたが無視。青い瓦屋根に右足を下ろす。スパイクが着地する乾いた音。左手で窓の桟に掴まり、右手を力一杯伸ばす。届かない。左手を離す。バランスを取りながら、慎重に、慎重に、にじり寄るように前へ――
野球のスパイクは土や芝生のグラウンドを駆ける為のもので、表面が滑らかな屋根瓦の上で踏ん張る為のものではない。
それ以降は全てがスーパースロー映像のように見えた。
スパイクが瓦の上を滑る不快な音が右足から発せられ、尻もちをつく。そのまま屋根の傾斜のままに転がり落ちていく。視界がゆっくり回っている。
――グラブはどこだ。みなものグラブは。なんだか分からないけど景色が止まって見えるぞ。すげぇや。これならどんな球も打てるじゃん。あ、グラブあった。すぐ近くだ。右手が届くぞ。よし掴んだ。みなもの宝物だ。俺があげたグラブだ。絶対に離すもんか。落書きされちゃったし、小さくなったボロだけど、これは大切なものなんだ。みなもに持って帰って、泣きながら喜んでるだろうあいつに言おう。もうあんな奴と一緒に野球やることなんてない。野球なんてどこでも出来るんだ。野球チームは他にいくらでもある。どっか他のチームで、またバッテリーを組もうって。そうと決まれば、さっさと登って帰ろう。上に、上の部屋に……って上はどっちだっけ。今俺はどっち向いてるんだ。重力を感じない。足も、体のどこも屋根に触れてない気がする。
俺、今、屋根から、落ちて、下、さっき、割れた、ガラス、が――
■□ □■
「右手伸筋腱断裂――指を動かす腱が、ガラスでスッパリです」
他にも骨折や打撲など色々あったが、琢磨にとってそんな治る怪我はどうでもよかった。
「……断裂した腱の再建手術は不可能だったんデスカ?」
「手術はしましたよ。もう腱は繋がってるし、傷跡もよく見なきゃ分かりません。でも元通りにはならない。どんなにリハビリを繰り返しても、以前のように動かせることは絶対にないって、医者に言われました」
どんなに頑張っても、もう以前のようにボールを投げられない。バットを振れない。
それが分かっているというのに、辛く、痛く、果ての無いリハビリに精を出せるほど、琢磨の心は強くなかった。
「だからそれ以来ずっと、俺の右手は固まったままなんです。みなものグラブを死んでも離さないように、しっかりと掴んだ形のまま」
「……それで、ミナモは――」
「入院中、みなものお母さんがお見舞いに来てくれて、その時にグラブを返しました。しばらくして、俺が学校に復帰したとき……もうみなもは居ませんでした。転校していたんです。どこに行くのかも言わずに――それ以来、みなもの消息は全く掴めなかった」
琢磨にとって全ては後から聞いた話だが、彼がグラブを持って部屋を出て行った後、みなもは部屋で泣いていたところを親に見つかって、いじめのことが露見。その後PTA内で色々あったが、結局加害者の新エースは特に何事もなく過ごし、卒業していった。
自分が助けを求めたせいで、琢磨は野球が出来ない身体になった――あの日からずっと、みなもはその罪の意識に苛まれている。
そして琢磨も――
「俺が悪かったんです。俺がもっと早く気づいてやれてれば、あいつが苦しむこともなかった。挙句、後から焦って独りで突っ走って、失敗して、取り返しのつかない怪我をして……あいつに余計な責任と罪悪感を負わせてしまった。あんなに大好きだった野球を嫌いだなんて言わせてしまった…………全部、俺が悪いんです」
いつの間にか日は沈み、窓の外には薄墨に染まったグラウンドが見える。
「さ、もう帰りましょう先輩。一旦外出てますから、着替えの続きを――」
琢磨が扉に向かいかけたその時だった。ロッカーの扉がそっと開かれ、まだスポーツブラにスラパン姿のエリスが姿を現した。
「先輩!?」
スポブラに押し込まれた二つのふわふわ。キュッとくびれて腹筋の浮き出たしなやかなウエスト。そして薄手のスラパンの上からボディやら何やらの形がはっきりと分かる逞しい腰つき――世界遺産レベルの絶景を網膜に焼き付けられた琢磨はフリーズした。
エリスはスポブラでも押さえ切れないふよふよとした揺れも気にせずつかつかと琢磨に歩み寄り、立ち尽くす彼の身体をそっと抱き締めた。
ふわりと鼻腔をくすぐる彼女の甘い髪の香りと、仄かに甘酸っぱい汗の臭い。まるで『青春』というものを煮詰めたような香り。
「エリス先輩……どうしたんですか」
本当に訳が分からず、それしか口に出来ない琢磨。エリスは耳元で囁く。
「ゴメンナサイ……でも、こうせずにはいられマセンデシタ」
その声が僅かに震えていることに気が付く。
「……ミナモとのこと、アナタは悪くなんてないデス」
「でも俺が――」
「怪我の辛さ、野球が出来なくなることへの絶望感――ワタシ、よく知ってマス」
琢磨を抱く腕に力が入る。彼は以前のエリスの言葉を思い出す。
『元々はPitcherだったんデスが、投げ過ぎで肩が壊れちゃったもので』
(――そっか、この人も……いや、この人は、そこから再び立ち上がった人だ。俺なんかよりも、ずっと凄い人だ)
「ワタシが永遠に野球を奪われたなら、他の誰かを想ってはいられマセン。自分のことで精一杯――実際そうデシタ。でもアナタは、ずっとミナモの為を想っていマス。そしてワタシ達に力を貸してくれていマス。ワタシにはそんなこと不可能デス。デスからワタシは、アナタのことを心の底から尊敬しマス」
「……ありがとうございます。でも、みなもが野球嫌いになったのはやっぱり俺の――」
「確かに、タクマの行動はちょっと軽率だったかもしれマセン」
エリスは「でも――」と言って琢磨の背を、子供をあやすようにポンポンと叩いた。
「アナタは悪くない。ただちょっと間違えてしまっただけなんデス」
「間違えた……」
「Errorしようと思ってErrorする人なんていマセン。ましてや、まだ小学生の頃の話。若気の至りというやつデスヨ。いくらでもやり直しは利きマス」
「……俺は、どうすればやり直せるでしょうか」
「アナタもミナモも、お互いに気を遣いすぎなんデスヨ。気持ちがすれ違うどころか、平行線のままで近づけてすらいマセン。とにかく一度、本音で向かい合うことデス」
「……でも、どうやって――」
エリスは両腕を解き、左手を琢磨の頭にポンと乗せた。
「それはアナタが頑張らないと。本当は、ミナモにどうしてほしいんデスカ?」
「俺は――」
もう野球は嫌いだ――みなもがそう口にした時の哀しい笑顔が琢磨の瞼に張り付いている。白塗りの道化師の仮面のような、油を差し忘れたロボットのような、打ち捨てられ雨曝しになっている人形のような――
(そんな笑顔、俺は認めない。認めてはいけない。俺だけは、絶対に)
「――俺は、心から野球を楽しんでる、笑顔のみなもしか知りません」
(独り善がりで、自分勝手な押しつけがましい願いだとは分かっている)
「俺は、みなもに笑って野球をしてほしい。あの頃と同じように」
「……Brilliant」
エリスはそっと琢磨から体を離した。
「アナタが本音でぶつからないと、ミナモも本音を曝け出してはくれマセン。その結果がどこへ向かうのかは分かりマセンが、良い方向へ行くことを願っていマス。それと――」
エリスは悪戯っぽい笑顔で片目を瞑った。
「誰かに笑ってほしかったら、アナタ自身が笑顔を忘れちゃいけマセンヨ♪」
「……はい!」
琢磨は精一杯の笑顔で返す。エリスは「Marvelous!」とサムズアップ。
「……Um――それでデスネ……」
「? なんですか?」
エリスは顔を赤らめて頬をポリポリ掻いている。
「そろそろ着替えの続きがしたいので、男の子には出ていってもらいたいんデスが――」
「――あぁっ!? すいません状況忘れてました! 今すぐ出てアグィッ!?」
琢磨は慌てて荷物を引っ掴み部室から退散しようとするも、床に転がった制汗スプレーの空き缶を踏んですっ転んだ。
「だ、大丈夫デスカ……? そんなに慌てなくても……」
「うう……大丈夫です」
琢磨は立ち上がろうと、その辺にあった掴まることができるものに手を掛けた。それが誰かのロッカーの取っ手だったのはたまたまで、さらに偶発的にその扉が開いてしまった。
その中に、夕霧中が入っていた。
「………………」
「………………」
目が合った。互いに何も言えなかった。
中は頭にライムグリーンのフリル付きパンツを被り、口はワインレッドのシルクのパンツにむしゃぶりつき、両手にも大量のパンツを握りしめ、目は真っ赤に充血していた。
「……タクマ? どうしたの――」
様子を見に来たエリスもその惨状を目の当たりにして硬直した。
「……あーっと――」
中は左程焦ってはいない様子で、パンツを咥えたまま俺達を見渡すと、手にしていたパンツを一枚ずつ差し出してきた。
「――お一つ、どうよ」
琢磨は素早く白黒ストライプのパンツを奪い取りポケットに突っ込んでから、ロッカーの扉を閉め、その辺に落ちていたガムテープで開かないようにぐるぐる巻きにした。
「……え、ちょ……タクマ、今――」
「エリス先輩すいませんちょっとお静かに」
スマホを取り出し、ある番号へコール。
「――あ、もしもしもぎもぎ? 俺だよ。ああちょっと待って切らないで。用ならあるってば。昨日お前のパンツ盗んだ真犯人捕まえたから。うん、マジマジ。夕霧の野郎だった」
「タクマ……? 今受け取った下着どうする気なんデスカ……ねぇちょっと――」
「あ、ちょっと待って――エリス先輩、すいません今電話中なんで――ああ何でもない。今部室に捕縛してあるから。今から来る? オッケー。あ、ちなみに取り返したお前のパンツなんだけど、ボロボロな上にかなりグロテスクに汚されてたから、仕方なく捨てておいたけど良かったかな。うん、ヤバかったぞ。おう、礼とかはいいよ。疑いが晴れただけで嬉しいよ……ふふふ」
「ひっ……! 笑顔を忘れちゃだめって言いマシタけど……そんな邪悪な笑顔なんて求めてマセン! ヨモギの下着をどうするつもりなんデスカ!? ねぇタクマ! タクマってば!」