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【第3章】I just want to do that.

 金剛学院の最寄り駅・琴張から数駅離れた若者向けのショッピング街。日曜の朝から琢磨がこんな似合わないところを歩いているのは、昨夜届いた一通のメールが理由だった。


 From:紋白ノノ

 Sub:明日!

  一緒に付き合ってほしいトコがあるの!

  九時半に雁南(かりなん)駅前の時計塔のとこで待ち合わせね♪

  そのまま午後練行けるように、忘れ物は厳禁はぁと


(いやぁ~、昨日会ったばかりの女の子にデートへ誘われるなんて、やっぱ俺なぁ~。そういうとこあんだろうなぁ~。恋泥棒的なさぁ~)

 先にオチを言ってしまうとこれは当然勘違いである。そんなこととは露知らず、荷物をコインロッカーに預けた琢磨は、足取り軽く待ち合わせ場所へ。

「やあ、時間通りだね」

「えっ、伊藤我? なんで?」

 そこには琢磨なんぞ到底及ばないイケメンが立っていた。ジャケットに細身のパンツを合わせたシンプルな着こなしが、彼女のスラリと高い体型に見事にハマっている。

「なんでと言われても……紋白から聞いていないのか?」

「いや、ただ『ココに来い』ってことと『キミに恋』ってことしか……」

 琢磨はノノのメールの存在しない行間を読んだ。美鶴はいろいろ察して溜息を吐く。

「私達は野球部に入るにあたってどんな準備をしたらいいのか分からなかったんだ。そしたら紋白が君に相談しようと言い出してね。だから一緒にスポーツ用品店で色々と見繕ってもらおうと思ったんだけど……あいつ何も説明していないようだな」

「そ、そんな……むごい……」

 琢磨は膝からその場に崩れ落ちた。

「まあ、これは紋白が悪い。君の男心を弄んでしまった。しかし、デートだと思って来たというのに、そのファッションはどうなんだい……?」

「え、駄目かな」

 鋭い目つきで琢磨の英字プリントシャツを注視する美鶴。

「……ふふふ、いや、私は好きだけど」

「はぁ……で、その紋白は?」

「あっち」

 美鶴が指差したのは大きなゲームセンター。その店頭のクレーンゲームの前で、レギンズの上からデニムのショートパンツを穿いた尻が無防備に揺れている。

「だぁぁぁもぉぉぉ! これアームゆるっゆるじゃない! もう何千円つぎ込んだと思ってんのよ! いい加減落ちろコラァ!」

 筐体をバンバン平手でぶっ叩いている、短いツーサイドアップの少女。

「…………先に行こう、伊藤賀」

「そうだな」


■□   □■


 女子と連れ添って、オシャレな街を歩く――そんな素敵なシチュエーションなのだが、自分より背が高く、抜群のスタイルと爽やかに整った顔を持つ美鶴と並んで歩く琢磨は、自分の男のプライドがゴリゴリ削られていく音を感じていた。

(まるでスーパーモデルとその付き人みたいだ……)

「はぁ……えーっと、この先を曲がると大きなスポーツショップがあってな――」

「――おや。石山君、ちょっと待ってくれ」

 美鶴は道端に停められた屋台に視線を向けている。周囲には椅子とテーブルもいくつか置かれていた。

「何あれ」

「クレープ屋だよ。どうだい、食べていかないか?」

「ああ、構わないけど……どうしたんだいきなり」

「おいおい、私だって女の子だよ? 甘いものは大好きなんだ。それに、このままじゃ君が不憫だからね。デートっぽいことの一つでもしてみようじゃないか」

「お、おう……」

「さ、行こう」

 美鶴はスッと片手を差し伸べた。

(――えっ、握れってこと?)

「ちょ、ちょっと待って! そんないきなり――」

「照れなくても大丈夫さ。ほら」

 美鶴は慣れた手つきで琢磨の手を取ると、そのままクレープ屋へエスコート。琢磨は突然の事態にたじろぎ赤面しながらも、彼女の言いなりだ。

(もうっ、強引なんだから。こんな人通りの多いところで恥ずかしい……でも、不思議と嫌じゃない。アタシ……もしかしてこの人のこと――トゥクン……)

 琢磨の中の乙女が花開きながら屋台の前へ。

「私は黒ゴマホイップを。石山君は?」

「えっ、あっ……アタシは(ダブル)ベリーヨーグルトで」

 美鶴は流れるように二人分の料金を支払う。出来上がったクレープを受け取ると、自然な動作で琢磨を近くの席へ誘う。

「あっ、お金! 払うよ」

「いいのいいの。今日来てもらったのはこっちなんだから。そのお礼ってことで」

「ええっ、そんな! 悪いです……」

「んー、じゃあ――」

 美鶴は悪戯っぽく微笑むと、琢磨のクレープを一口齧った。

「――うん、なかなか。これでチャラってことでいいかな」

「は、はひ……」

 ――トクン。トクン。トクン! 琢磨のハートが激しく高鳴る。

「さて、やっぱりスイーツは黒ゴマに限るね。純白のホイップクリームを暗黒で染めていく感じが堪らないよ。食欲を満たしつつも性欲が無限に湧いてくる!」

「ハッ! 俺はこの異常性癖女に対してなんて感情を……!?」

 百年の恋も醒めるド変態発言で男琢磨は正気に戻った。

「ん? 食べないのかい? 美味しいよ。私は間接キスとか気にしないから遠慮せずに」

「ぅおぇっふん!? お、おう、いただきま――」

「ちょっともーなんで置いてっちゃうのよー! 一言ぐらいかけてくれてもいいじゃん! でさー、見て見てー! 頑張った甲斐あったっしょ! このぬいぐるみホント可愛いー! なんてキャラか知らないけど。あー、二人でクレープなんか食べてずるいー! ノノも食べたい! ぱっくんちょ!」

「~~~~~~!?」

 ちょうど琢磨がクレープに口を付けた瞬間、ノノがどこかのゆるキャラのようなぬいぐるみを抱えて出現し、止める間もなく琢磨のクレープに食いついた。二人の唇の距離はわずか数センチ。

「ゲホッゲホッ! ちょ! 紋白お前!」

「むぐむぐ……ん! んま~! 何これヨーグルトとブルーベリー? いいじゃん! ノノも買ってこよーっと。あ、石山ちょっとこれ持っててー」

 ノノは琢磨にぬいぐるみを押し付けると、軽い足取りで屋台の方へ駆けていった。

「…………無邪気かッ!!」

「ふふふ、見てて面白いな。災難だったね石山君」

「他人事みたいに笑いやがって……」

「でも悪い気はしなかったろう?」

「可愛いってズルいわチクショウ」

 琢磨は美少女二人分の唾液が付着したクレープを二口で胃袋に飲み込んだ。

「お待たせー。照り焼きチキンってのにしたわ」

 ノノが悩みの無さそうな表情で帰ってきた。

「あと、はいっ。あんた達飲み物なかったでしょ? とりあえずコーヒーにしたけどいい?」

 プレートにカップが三つ。琢磨と美鶴はそれぞれ礼を言って受け取った。琢磨がコーヒーにミルクを入れてかき混ぜていると、ノノがクレープを咀嚼しながら言う。

「むぐむぐ……あんたってミルク入れる派なんだ。てっきりカッコつけてブラックで飲む派かと勝手に思ってたけど」

「ブラックの酸味があんまり好きじゃなくて……悪いか」

「んーん? カッコつける為に無理するよりは、自分の好みに正直でいる奴の方が、ノノは好きだよ?」

(だからッ! そうホイホイと「好き」とかッ口にするなよドキドキするからッ!)

「ねー、美鶴のクレープも一口ちょーだーい。ノノのあげるから」

「構わないよ、ほら」

 美鶴が黒ゴマクレープを差し出すと、ノノは元気よく食いついた。勢い余って黒ゴマクリームがほっぺに付いている。

「ふふふ、仕方ないな紋白は」

 美鶴はそっとそのクリームを指で拭っ……わない! そのまま黒いクリームを紋白の頬に塗り拡げる。

「ちょ! 馬鹿じゃないの!? 仕方ないのはあんたの方だわ!」

 美鶴にチョップをかましつつ、ノノはなんとか舌を伸ばしてクリームを舐めとろうとする。その一心不乱に歪んだ顔を見て琢磨は思わず吹き出した。

「ぷふっ! ぷふふふふふふ……」

「笑わないでよシツレーね!」

 ノノは頬を染め、諦めて紙ナプキンで拭き取った。

「はぁ、まったく……でも、元気出た? 石山」

「へ?」

「ほら、あんた昨日、あの三つ編みの……しおり? なんかそんな名前の子がなんか言ってから元気無かったじゃない?」

「――見られてたのか」

 玉響みなもは始業式以来、音信不通だった。

 つまり駅のホームで琢磨から逃げ去った後登校せず、今もそのままということだ。

 ――そんなに俺に会いたくないのだろうか。俺がみなもを追い込んでいるのだろうか。

 琢磨はずっとそんな思いに苛まれていた。

「ま、ノノにはあんたが何悩んでんのか分からないし、面倒だから聞く気もないけど、複雑な悩みほど、意外と単純なことで吹っ飛んじゃったりするものなの。あんたって変態だし、女の子とお出かけってだけでテンション上がってたでしょ?」

「え……じゃあ今日俺を誘ったのって――」

「んー? さあね♪ じゃあそろそろ行きましょ。午後の練習に間に合わなくなるわよー」

 ノノは素早く立ち上がり、トレーにゴミを回収していった。

「可愛いだろう、紋白は」

「ああ、ありゃズルいわ」


■□   □■


「そういえばちょっと野球について調べてみたんだけど、アピールプレイとかタッチプレイとかいうのは一体どんなエロいプレイなんだい?」

「野球のルールに猥褻な要素は無い」

 スポーツショップに到着。野球用品のフロアへたどり着いた三人。フロアいっぱいに並ぶ新品の野球グッズにテンションが上がったノノは、フロアのど真ん中でくるくる回る。

「おぉ~、色々とより取り見取りね! さて石山、何買ったらいいの?」

「うーん……練習着とかユニフォームとかバッグなんかは今度揃って注文するって部長が言ってたし、バットは部のやつがあるから、さしあたって必要なのはグラブとスパイクかな……ちなみに予算はどのくらい?」

「お金なら念のため多めに持ってきたわ。えーっとね……あ――」

 ノノは財布を開いたところで固まった。

「――ま、まあ、このぬいぐるみにはそれだけの価値があったってことね」

「お前クレーンゲームで全部融かしやがったな!」

「の、ノノのお金をノノが何に使おうがノノの勝手でしょ! あっ! そういえばさっきコーヒー奢ってあげたじゃない! あの代金返してよ! 一〇〇円!」

 琢磨はノノが差し出した手に、黙って硬貨を一枚乗せてやった。

「……で、これでお前の所持金は合計幾らだ」

「………………一〇三円」

「三円で何を買うつもりだったんだッ……!」

「まあまあ、その辺にしてやってくれよ石山君」

 ぬいぐるみをギュッと抱きしめてぶーたれ始めたノノ。見かねた美鶴が間に入った。

「今日はとりあえず下見ということでいいじゃないか。無い袖は振れないんだし」

「はぁ……じゃあとりあえずスパイク見に行くか。ほら行くぞ紋白、何やってんだ」

「ねー、このファウルカップってなにー? 付け鼻?」

「お前には必要ないもんだ! 顔に着けるなアホ!」

 目を離すとすぐ関係ないコーナーへ歩き出す、幼稚園児レベルの好奇心を持つノノを引っ張って、琢磨達はスパイクが置いてある一角へ。元陸上部の二人は色々と試し履きをして、お目当てのものを見つけた。

「うん、これでいいかな。紋白は決まったか?」

「ん、これにするー。取り置いてもらお」

「二人とも決まった? じゃあグラブでも見るだけ見に行ってみる?」

 野球のグラブは、ポジションによって形状が異なる。この二人がどのポジションに付くのかまだ分からないので、おいそれと買えないのである。

「そういえば伊藤我って中学で槍投げやってたんだよな。どんなもんなの?」

 グラブコーナーに移動しつつ、琢磨は美鶴に話を振った。

「ああ、中学では槍投げではなく、ジャベリックスローといって、ターボジャブというプラスチック製のロケットのようなものを代わりに投げるんだよ。中学生に槍は危ないから」

「へ~、硬式野球に対する軟式野球的な?」

「そんな感じだね。一応、県の中学女子記録を持っていたよ」

「そんな有望選手だったの!?」

「ま、ターボジャブは投げるより、女子の蜜壺にインサイドアウトする方が愉しかったけどね!」

「お前を引き抜いて正解だったわ。槍持たせちゃいけないタイプの人間だわお前」

 さてさて、グラブコーナーに到着である。

「この辺が外野用。そっちが内野手用。まあ今はちょっと見るくらいで――」

「ねーねー、石山が使ってたのってどれ?」

「えっ……」

 ノノの唐突な台詞に、琢磨は思わず売り場の端に目をやった。新品のキャッチャーミットが整然と並んでいる。

「あんたは買わないの?」

「は? いやだって俺は選手じゃないし。というかまだ部員ですらないし――」

「右手がソレでも、捕るだけならできるんじゃないの?」

「そうだけど……い、いいよ。いざとなったら鹿菅井に借りればいいし」

「あの子があんたに貸すと思うー? 随分嫌われてるようだったけど」

「う……」

 琢磨はしばらく逡巡して決断した。

「はぁ……安いやつなら、まあ。一応な、一応持っとくだけ」

 その言葉を聞いたノノはニカっと頬笑むと、適当に外野手用グラブを物色し始めた。

(なんかもう、こいつには敵わない……)

 琢磨は良さげなミットを選び、二人をその場に残してフロアの反対側にあるレジへ向かう。列に並んでいると、どこかから聞き覚えのある声が耳に入ってきた。

「エナメルバッグのデザインは去年と同じでいいよね」

「YEAH。何かついでに買っておきたいものとかありマスカ?」

「うーん……バッティンググローブが破けそうだから、今のうちに新調しちゃおうかな」

 一つ棚を挟んだ通路に、ラフなデニムスタイルのエリスと、ふわふわ森ガール風なみまがいた。琢磨はなんとなく身を隠しながら耳を傾ける。

「それにしても九人揃って本当に良かったデス! これで夏の大会にも出られマスネ!」

「そうだね……でも――」

「――チャチャのことデスカ?」

「うん……」

「そうデスネ……このままでは、過酷な夏の大会をチャチャ一人で投げ切らなくてはならなくなりマス」

 人間の肩や肘は、ボールを何百球も全力投球し続けられるほど丈夫ではない。大会は連戦が続くこともある。その全てを一人で投げぬこうなど、最早選手として自殺行為だ。本気で勝ち抜くことを考えるなら、投手は一人では足りない。

「でも、例のミナモという子が見つかれば――」

「それもあるけど……」

「――もしかして、去年のあれデスカ? で、でも、チャチャはもう大丈夫だって……」

「ずっと見ているボクには分かる。茶々様は、ふとした瞬間に凄く辛そうな顔をするんだ。すぐに部長の仮面で覆い隠してしまうけど、きっと心は悲鳴を上げてる――痛みに悶えるのは、ボクだけで十分なのに……」

 棚を挟んでいても、琢磨には向こう側の沈痛な空気が伝わってくる。

(『去年のあれ』ってなんだ? 部長に一体何が――)

「ちょっと石山ー? なにやってんのよ、もうレジ次あんたよー?」

「わひっ!? 紋白……! ちょっと静かに――」

「あれー? エリス先輩に鵜飼先輩でしたっけ? 偶然ですねー!」

 空気を読まず、ノノはにこやかに手を振って大声を掛けた。


■□   □■


「イップス、ですか?」

「うん……」

 五人で連れ添って駅へと歩く道すがら。みまが茶々の抱える事情を明かした。

「去年の夏の地方予選三回戦、相手は名門・琥珀ヶ(こはくがおか)高校。先発した三年の先輩が打ち込まれて、茶々様が六回からリリーフ登板したんだ。忘れもしない。先頭を打ち取って、迎えた琥珀ヶ丘の四番――当時二年生の雁野(かりの)沙良々(さらら)さん」

「チャチャとサララ、そしてSoftball clubのシズカは、幼馴染なんだそうデス」

 茶々と静佳の幼馴染――雁野沙良々。

「――で、どうなったんですか?」

 琢磨が続きをせがむと、みまは儚く微笑んだ。

「同い年で強豪の四番に座る幼馴染――やっぱりライバル心とかあったんだと思うんだ。お互い全力を出し合った、凄い勝負だった……そして、十二球目――」

 みまは眼前に浮かぶその光景を見まいとするかのように目を閉じた。

「渾身の直球が、雁野さんの頭部――左目に直撃した」

「目に……デッドボール――」

「後で聞いた話だと、当たり所が悪くて、失明寸前までいったらしいんだ。復帰したという話は……まだ聞かない」

「そ、それで……部長は……?」

「……高校野球では、危険球退場は殆ど適用しないから、そのまま続投したよ。もうピッチャーは茶々様しかいなかったから。でも……ボロボロで、正直見ていられなかった」

「ワタシは何度かMoundへ行きマシタが、声をかけても『ああ』とか『大丈夫』とか、そんなテキトーな返事で、顔は土気色、視線も定まらず――そこからは酷いものデシタ……」

「暴投に四死球……球威も全然無くて――ぼろ負けだったよ。しばらくは茶々様、自殺でもしかねないくらい落ち込んじゃって……三年生はそこで引退だったけど、誰も茶々様を責められなかった」

「その日以来デス……安定感が持ち味だったチャチャが、突然乱調を起こしてしまうようになりマシタ。まるであの時のように――」

 イップス――精神的な原因などによってスポーツの動作に支障をきたし、思った通りのプレーが出来なくなってしまう運動障害。様々なスポーツ選手がこの症状に苦しんでいる。野球においても、イップスが原因で守備位置をコンバートされたり、引退に追い込まれたりといった例は、枚挙に(いとま)がない。

「最近は選手が揃わなくて満足に試合もやれていマセンデシタし、練習ではそんな様子無かったデスから、てっきりもう大丈夫だとばかり――」

「茶々様、ボク達の前では強いリーダーでいたいんだよ。本音を曝け出せるとしたら、お兄様の前くらいかな……悔しいなぁ……」

 顔を伏せ、その場に立ち止まってしまったみまの肩を、エリスがそっと抱く。琢磨はその光景を黙って観ているしかなかった。


■□   □■


「――じゃあ、ボクらは一旦帰るから、ここで」

 駅まで着くと、先輩二人は改札の向こうへ去っていく――と思いきや、エリスだけが早足で真っ直ぐ琢磨のところへやってきた。

「ど、どうしたんですか」

「Um……ちょっと言い忘れたことが――」

 エリスは何故か顔を赤らめながら、もじもじと両手を揉み合わせている。そして、そっと琢磨の顔にその口元を寄せて、彼にしか聞こえない小声で言った。

「そのShirt(シャツ)、もう外で着ない方が良いデスヨ……?」

「へっ?」

 エリスは琢磨と目を合わせないようにさっさと走り去った。

「このシャツがなんだっていうんだ……」

 すると、美鶴が急に咳払い。

「ゴホンゴホン。あー、紋白、先に部活に行っていてくれ。私はちょっと石山君に話があるんだ。大事な話がね」

「え? まあ、いいけど……遅れずに来なさいよ」

 ノノを見送ると、琢磨は美鶴に無理やり肩を抱かれ、人気のない裏通りまでしょっ引かれた。

「なっ、何? こんな所に連れ込んで……アタシに何する気なの!?」

「ちょっとね、人前だと憚られる話だから。そのシャツなんだけど――」

「……そういえば朝会ったときにもシャツがどうこう言ってたけど、一体何なんだよ」

「その英文、どういう意味か知ってるかい?」

「そういえば気にしたことなかったな……」

 琢磨は別に英語が苦手というわけではないが、服はパッと見の印象くらいしか意識していなかった。逆さまで読みにくいが、なんとかチェックしようと頑張る琢磨。

「えぇっと? なんとかイットアップ……?」

「『Stick it up my ass!』と書いてあるね」

 美鶴は琢磨の胸の英文をそっと指先で撫でながら音読した。

「ひゃう……! そッ……それが何かマズイ意味だったりするのか……?」

「yourなら『クソ喰らえだぜ!』みたいなスラングなんだけど、myだからね――」

 美鶴はさらに『my ass!』辺りを指の腹でくりくり。ちょうど左乳首を撫でられている琢磨はなかなか話に集中できない。

「つまり直訳すると……『ソレを俺のケツの穴にブチ込んでくれ!』だな」

「はぁ!? ケツの穴ァ!? なんてお下品な……でもエリス先輩を淫語で赤面させてたとなるとちょっと興奮んふぁぁ……ちょっと伊藤我……その、『my ass!』を執拗に弄るのやめてッハァん……!」

「……構わないけれど、その代りこっちのassを戴いても?」

 今度は琢磨のケツ(ass)に手を伸ばす美鶴。

「はふっふ!? いや待てって! なになにどういうこと!?」

「んー? 君が私達のおしりを夢中で眺めているように、男の尻が好きな女子だっているんだよ?」

「お前は鳴楽園が……ってか女子が好きなんじゃなかったのか!?」

「ふふふ……私はバイなんだよ石山君。男も女もイケる口なのさ。どうだい、今から。部活が始まるまでにはまだ時間がある」

(ダイレクトな肉体関係のお誘いだとッ!?)

 にわかにオーバーヒートする琢磨の思考と下半身。

「いっ、いやでもこれ鳴楽園からしたら立派な浮気じゃないか!?」

「いいねぇ、一途で貞淑。日本人らしい清純な美徳だ。そういう清らかで純なものを、私のどす黒い獣欲で穢すのが最高の快感なのさ」

「でっ、でも、でもでもでも――」

 女子からお誘いを受けているというオイシイ状況にもかかわらず、何故か琢磨は素直に受け入れられなかった。それは彰子への罪悪感などではなく、もっと根源的恐怖を動物的危機察知能力で感じ取っていたからに他ならなかった。

 美鶴はニンマリと嗤った。

「ちなみに私はバリタチだ。性別に拘らず、相手の穴に棒を突っ込むことしか考えていないからあしからず」

「……穴……?」

 美鶴は相変わらず琢磨の尻を撫で続ける。

「ああ……『I want to stick it up your ass!(私は君のケツにブチ込みたい!)』」

「サラバッ!」

 琢磨は逃げた。全力で逃げた。

「突っ込まれたくなんかない! まだ俺は突っ込む方でいたいんだ!」

「大丈夫さー! ゆっくりと括約筋を解すところからやってあげるからー! そんなに怖がらなくったって平気さー! 毎日トイレでひり出しているモノと同じくらいの太さのものを同じ場所に突っ込むだけさー!」

「やめて! 排泄イップスになるからそういう言い方やめて!」

「元陸上部の脚力を舐めないでほしいなー!」

「いやぁあああああ誰か助けてぇええええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇ――」


■□   □■


 コンクリートにぶつける音が響く。


 From:しほりん

 Sub:大丈夫?

  こんばんは~。体調はどう?

  何か学校に行きたくない理由があるのなら、無理はしなくていいけど……

  私なら何でも話し聞くよ?

  メールでも電話でもいいよ。もし理由を話したくないなら、それでもいいよ

  久しぶりにみなもちゃんとお話したいだけだから

  気が向いたら返信してね


  そういえば私、野球部に入ったんだ

  みなもちゃんには、私が「変わりたい」って思ってたこと話したよね

  すっごく優しい先輩がいて、ここなら頑張れそうって思ったんだ

  あ、でもマンガはこれからも描くから安心してね(笑)


  それで、その野球部に男の子がいるんだけど(正確にはまだ仮入部みたい)

  石山君っていったかな

  なんかみなもちゃんの知り合いらしいんだけど、知ってる人?

  みなもちゃんと話したいって言ってたよ

  みなもちゃんがイイなら連絡先教えるけど……どうする?


 コンクリートにぶつける音が響く。

「クマちゃん……」

 コンクリートにぶつける音が響く。

「クマちゃん……クマちゃん……」

 コンクリートにぶつける音が響く。

「だめだよ……私なんか振り返っちゃ……」

 コンクリートにぶつける音が響く。

「壊れちゃえばいいんだ、私なんか……」

 コンクリートにぶつける音が響く。


■□   □■


 その日の午後、チームが九人揃って初めての練習である。

「そういえば部長、昨日の呼び出しは結局なんだったんですか?」

「――練習後のミーティングで全員に話す」

 琢磨の問いに対し茶々はそう答えて、蓬を呼んでさっさとブルペンへ行ってしまった。ちなみに琢磨達がイップスについて聞いたことは話していない。

(こればっかりは他人がどうこう出来る問題じゃないしなぁ……俺に出来るのは、とにかくみなもを探して投手の枚数を増やすことしか――)

 琢磨が考え事をしながらグラウンドに足を踏み入れた瞬間だった。

 耳元を、何か大きな物体が超高速で掠めていった。数秒遅れてブオンという風切り音と風圧、そして背後で大きな破壊音。突然のことに硬直した体を無理やり動かし、おそるおそる後ろを確認。

 金属バットが、部室のレンガの壁に深々と突き刺さっていた。

「――えー……」

 事態を把握してから、溢れ出す脂汗。引いていく血の気。

「ご、ごめんなさーい!」

 弱々しく響く死神の声。焦った顔でこちらに駆けてくるのはしほりだった。

「む、向こうで素振りの練習してたら……すっぽ抜けちゃって……」

 琢磨の中の生存本能がけたたましく警鐘を鳴らす。

(この子を早急になんとかしないと、全員死神に命を刈り取られる……!)

「――倉、そのバットを引きぬいてから、ちょっとこっちに来てくれ」

「え、あ、う、うん……」

 しほりは難なくバットを引き抜き、琢磨に続いて部室へ戻った。


■□   □■


「さあ、この棒を握って」

「え、で、でも……こんなところで――」

「大丈夫だから、ほら、ここを」

「う、うん――こう……?」

「そんなんじゃ弱いって。もっとしっかり」

「は、はいぃ……」

「そうそう。どう? どんな感触?」

「え、と……とっても硬い」

「そうかそうか。じゃあ次はこれだ」

「えっ……そ、それで何を……?」

「縛るんだよ」

「えっ、ええっ!? い、痛いのは私――」

「大丈夫大丈夫、痛くしないから。ほら、手は離さないで。そのまま握ってて」

「や……優しくして、ね――」

 ガチャ!

「ちょっとさっきから聞いてりゃ何してんのあんた達!?」

 琢磨としほりの居る部室に、ノノが大慌てで駆け込んできた。

「何って……ほら、これ」

 しほりの両手が、バットを握ったままテーピングでしっかり固定されていた。


「倉の場合、技術どうこうっていうか、スポーツ自体に苦手意識があって、緊張で体が強張って上手く動かないんだと思うんだ」

 あれだけのスイングを生み出す筋肉がありながらバットがすっぽ抜けるということは、振る筋肉と握る筋肉、それぞれの力がアンバランスになっているということだ。

「とりあえずこの状態でスイングに慣れてもらおうと思ってさ。緊張が緩んで来れば、筋肉の上手な動かし方も分かってくるはずだし。正しいフォームを教えるのはそれからでもいいと思って」

「が、頑張ります!」

 意気込むしほりを見て、ノノはぽかんとアホ面を晒した。

「……あー、うん、そうよね。ノノは当然分かってたわよ。頑張ってねー!」

 ノノは逃げるようにグラウンドへ戻っていった。続いて二人もグラウンドの端へ。

「そういえば、倉って野球のこと知ってるの? ルールとか色々」

「あ、う、うん。なんとなくは……その、ま、マンガとかで……」

「あー、そういえば漫研だったね。どんなやつ?」

「え、えっと……一番好きなのはやっぱり『血煙(ちけぶり)のスラッガー』かな」

「マジ!? 知ってる知ってる!」

『血煙のスラッガー』――戦国時代からタイムスリップしてきた一人の武士が、刀をバットに持ち替え野球で天下一を目指す、名作長編SF熱血野球少年マンガである。

「埼玉統一編なんか特に怒涛の熱い展開で燃えたな!」

「う、うんうん! 群馬侵略編も敗北の悲壮感が壮絶で読み応えあるよね!」

「環太平洋群雄割拠編も、後で読み返すとあれはあれで渋くていいんだよなー」

「だ、だよねだよね! い、石山くんは好きなキャラとかいるの?」

「んー、悩むけどやっぱり秀虎(ひでとら)かな。倉は?」

「私は断っ然っ信太郎(のぶたろう)くん!!」

 突如しほりのテンションがギアチェンジ。いつもの口下手な彼女とは打って変わって、両の拳を握りしめ、目を輝かせて早口で語りだす。

「過去からいきなり飛ばされてきた性格も価値観も何もかも違う秀虎といつもいつもぶつかりながらも実は結構気にかけててそれとなく助け舟出してあげたり秀虎が挫折したときは誰よりも早く喝入れてあげて復活のきっかけを作ったりしてるしその素直になれないけど内心秀虎のことちゃんと認めてるツンデレなとことかホント見ててふあああああってなっちゃってきっと秀虎がドナルドソンなんかと仲良くしてるときとか嫉妬しちゃうんだけど自分でそれを認められなくてそんな葛藤がずっと続いてついにある日爆発して思わず秀虎のこと壁にドンってアレして自分でも戸惑ってたのに『きさん何するんじゃ』とか言う秀虎の顔にムカッときちゃってつい口づけをふおおおおおおおそれで何が何だか分かってない秀虎を――」

「ス、ストップ! 静まれぃ!」

「押さえつけたまま無理やり――ハッ!?」

 恐怖に駆られた琢磨の手刀により、腐りきった楽園から現実に戻ったしほりは、自分の口を両手でふさいで青ざめた。

「わ……私、今――」

 注釈しておくが『血煙のスラッガー』は健全な少年マンガである。

「あー……うん、その……ひ、人の趣味は自由だから。うん」

「私……私……次の信太郎×秀虎(ノブヒデ)オンリーイベ用の原稿のプロット、ずっと煮詰まってたんだけど――うん、今のイケる!」

「はぇ?」

「やっぱ王道だよね! プロットに懲りすぎてて悩んでたけど、この際シンプルな真正面からのぶつかり合いに立ち返ってみてもいいかも!」

「……はぁ、そうっすか」

「あ、ありがとう石山くん! おかげで入稿間に合いそう!」

「ど、どういたしまして?」

(――よ、よし! 倉と打ち解けたぞ! やったね!)

「そういえば石山くん、同じクラスの伊達男と掘りつ掘られつの仲だって風の噂で聞いたんだけど本当? 今度見学させてもらっていいかな」

「んなわけねーよ! なんでみんなそんなに俺のケツを拡張させたがるんだよ!」


■□   □■


 しほりの暗黒面を垣間見たところで、改めて練習を開始した。

「よし、じゃあまず自分がやりやすいように構えてみて」

「う、うん」

 おずおずとバットを構えるしほり。しかし見るからに全身に力が入りすぎている。

「もっと顎引いて。膝もう少し曲げて重心落とす。んで背筋をもうちょい伸ばす」

「こ、こう?」

「そうそう。じゃあそこからゆっくり、自然にバットを振ってみて。ゆっくりな!」

「はふう、はふう……えいっ!」

 しほりは緊張からか息を荒げて、再び思いっきりバットを振った。強張る体。漲る力。崩れるフォーム。それでもテーピングがあるから大丈夫だろう――などという琢磨の考えは甘かった。ブォッンという風切り音と同時に聞こえてきたのは、ビリっという何かが破ける音。

「ゲッ……」

 厳重に巻いたテープは一振りで引き裂かれた。しほりから放たれたバットは、そのまま魚雷のように直線の軌道を描き飛んでいく。その着弾点には――

「――ッ! ミマ! Watch(危な) out(い!)!」

「え? ひゅべっ――」

 トスバッティングをしていたみまの胴体を直撃。彼女の身体はくの字に折れ曲がりながらトラックに撥ねられたかのように飛ばされ、ベンチの中へ轟音と共に叩きつけられた。

「う、鵜飼先ぱぁあああああああい!」

「ご、ごめんなさーい!」

 皆が慌てて駆けつけると、みまは崩壊したベンチで糸の切れた操り人形のように横たわっており――

「おほぉおおおぉぉ……! しゅごいぃい……これしゅごいのぉおおぉぉおぉお……!」

 全身の穴から何らかの汁を垂れ流しながらビクンビクンしていた。

 その様子に茶々は一つ息を吐く。

「良かった、異常は無いようだな。だが一応保健室へ運ぶぞ。石山、手伝え」

「はぁ……」

 しほりが使い物になるまで、一体何人が犠牲になるのか――

 しかし先に言っておくと、今後も死神の攻撃は全てみまが受け切ることになるので、特に怪我人は出ず、結局みまが気持ちよくなるだけなのだが。


■□   □■


「総員揃っているな。話しておかねばならんことがある」

 練習後、改造制服の上からユニフォームを羽織り、いつものように泰然と部室の指定パイプ椅子に座っている茶々。しかし発する雰囲気はいつもよりピリピリしていて、口から泡を吹いてぶっ倒れている中を除き、皆緊張した面持ちで彼女の言葉を待った。

「再来週の土曜日に試合だ。我らの初陣である」

 一瞬、その意味が理解できず静まり返る室内。

「――えっ、し、試合……ですか?」

 そう尋ねた蓬に、茶々は頷いた。

「今そう言っただろう」

 このメンバーで初めての試合――部室がざわざわと騒がしくなった。

「イイデスネ! やっぱり実戦に勝る練習はありマセン!」

「よーし! ついにこのノノの晴れ舞台がやってくるのね!」

「わたくし、実戦は始めてなので、とてもわくわくします!」

「初めてというのは何事も鼓動が踊るものさ」

「あわわわ……い、いきなり試合ですか……? わ、私自信無いです……」

「大丈夫デスヨ♪ いくらMissしてもその経験が次に繋がればDon’t worryデス!」

「残念だが、そうもいかんのだランスフォード」

 茶々の氷柱(つらら)の様に鋭く、冷たい声。瞬時に部室のムードが凍る。

「……どういうことなんですか、茶々様」

 みまがおずおずと尋ねると、茶々は目を閉じて言った。

「――この試合に我々が負けた場合……野球部は消滅する」


■□   □■


 一日前の理事長室での出来事に立ち返る。

「ソフトボール部へ吸収合併だと……!?」

 理事長の言葉に、茶々は己の耳を疑った。

「どういうことだ……そんな話、認められる筈がないだろう!」

 普段の泰然自若とした様相を崩し理事長に詰め寄る茶々。しかし理事長は動じず、ソファに座ったままの静佳をチラリと見た。

「しかし、野上さんは了承してくれましたが」

「ッ!? 野上……貴様、それは本当か……ッ!?」

 茶々は踵を返し静佳に歩み寄る。静佳は震える声で言った。

「――本当だよ」

巫山戯(ふざけ)るなッ!」

 茶々は静佳の襟首に掴みかかった。

「約束したじゃないか! お前はソフトボールで――私と……沙良々は野球で、それぞれ頑張ろうって……忘れたのか!?」

 必死の形相で問い詰める茶々。しかし静佳は何も言わずに、ただ下を見ている。

「そこら辺にしなさい藤原さん。これは、理事長の私が、経営者として下した判断です。彼女はそれに賛同してくれただけのこと」

「経営者としての判断……? どういうことだ、説明しろ」

 茶々が一旦落ち着くのを待って、理事長は事務的な口調で説明を始めた。

「数年前、私が理事長に就任した際発覚したのは、亡くなった前理事長が隠蔽していた膨大な赤字でした。今までは多額の寄付金に支えられ経営を保ってきたようですが、それも近年は減少傾向。また近年、女子校を選ぶ志望者も減っています。このままでは、遅かれ早かれ学院が立ち行かなくなるのは明白。そこで、私は学院経営健全化の為に大鉈を振るうことを決めたのです。その一つが共学化。徐々に男子生徒の受け入れ態勢を整えつつ、より幅広い生徒の受け入れを図ります。そしてもう一つが――部活動再編」

 理事長は席から立ち上がり、ハイヒールの踵を鳴らしながら部屋の中を歩き始めた。

「我が校には部活動が多すぎます。しかも前理事長の時代は、部員の多寡、成績、活動内容等に関係なく、全ての部活に多額の部費を支給し、高価な器具や維持費の掛かる活動場所を与えてきました。これでどうにかなっていたのが不思議なくらいです。今後はそうはいきません。人数が規定に満たない部や、活動内容が不明な部、これといった実績を上げられていない部には、部費削減、活動場所の没収、或いは廃部といった措置を行います」

「ちょっと待て! 野球部はつい先ほどメンバーが揃ったのだ! 何故消滅せねばならん!」

「メンバーを揃えるのがやっとな部が、良い成績を残せるとは思えません」

「残してやるとも! それにOG会の援助が少ない弱小部活ほど、学校側の補助が無ければやっていけないのではないのか!? 生徒の健全な活動を保護していくのも教育機関の役割だろう!」

「言ったでしょう? 私は教育者としてではなく、経営者としての判断を下したのだと」

 理事長は窓際で立ち止まった。窓の外では野球部とソフト部の活動場所である第三グラウンドが、夜の闇に飲まれようとしている。

「全国大会で名を残す程の強豪になれば、生徒は向こうからどんどんやってくる。しかし、我が学院で最も有望なソフトボール部でも全国では一回戦を勝ち抜けるかどうかという程度。『全国レベル』を『全国一』の本物の強豪にする為に、学校側は総力を挙げて援助することを決めました。そこでまず手始めに硬式野球部との合併を行います。毎日オールタイムでグラウンド練習が可能になり、ソフト部の戦力もより分厚くなって、野球部の分の部費もソフト部に回せる」

「……確かに貴様は経営者としては有能なのかもしれぬ。だがそのような話……到底受け入れることなどッ……!」

 茶々は静佳を睨みつけた。

「野上よ……貴様はこの提案を了承したというのか。我がどれだけっ……全部知っているはずなのに……そこまでして――我々を生贄に捧げてでも、そうまでして力を欲するというのか……! 見損なったぞ!」

 拳を握りしめ、唇を震わす茶々。それを見つめる、どんよりと曇った瞳の静佳。

「…………茶々ちゃん――私、裏切り者だね。本当にごめん。いくら謝ったってどうにもならないと思うけど……ごめんなさい」

「い、一体……なんで、なんだよ……静佳――」

「――私の家のこと、知ってるよね」

 茶々は何も言わない。静佳は暗い笑みを浮かべながら、声を震わせる。

「ウチ、お父さんが出て行っちゃって貧乏じゃん? その分、お母さんが朝から晩まで働いてくれてて……私、本当は中学まででソフトも辞めて、公立に行って、バイトしてお母さんを助けようと思ってた。でもお母さんが『お金のことは心配いらないから、自分のやりたいこと精一杯頑張りなさい』って金剛学院に入れてくれたんだ。だから私は、大会で良い成績収めて、スカウトの目に留まって、一刻も早くプロになって、お母さんに恩返ししなきゃいけないんだ。それに――理事長の改革には、スポーツ特待生制度の創設も含まれてるらしくて。野球部との合併に賛同したら、私を最初の特待生にしてくれるって。学費免除になって、今まで支払った学費も返還されるって……そう、言われて――」

 静佳の声に嗚咽が混じる。茶々はゆっくりとその隣に腰を下ろし、深い溜息を漏らした。

「……分かった。もういい」

「茶々ちゃんごめん、私……野球部を――茶々ちゃんの夢を売ったの……っ!」

「もういい。貴様の家庭の事情は存じていたというのに……こちらこそ済まなかった」

「ごめん……ごめんねぇ……!」

 静佳は茶々の胸に抱き付き、さめざめと泣き始めた。

「話は以上です。藤原さん、吸収合併の件、賛同していただけますね」

 感情の籠らない、事務的な声が無粋に響く。茶々は、静かに目を閉じた。

「…………私は――」

 しかし、彼女の言葉は扉の開く音と鋭い女の声に遮られた。

「藤原ァ! いい気味ね! あんたの動揺する顔なんてレアなもの見られて嬉しいわ!」

「――貴様……飯島!?」

 嫌らしい笑みを浮かべノックも無しに入って来たのは、陸上部部長の飯島だった。

陸上部(ウチ)から有望な新人二人も奪ったんだから、あんたからも大事なもの根こそぎ奪ってやるわ! どう? 絶望した?」

「どういうことだ……何故貴様がここに――ッ!」

 茶々は飯島から理事長の机へ視線を移した。

 机の上に乗っている名札――『理事長 飯島文代(ふみよ)』!

「そういうことか……全く見下げ果てたものだ……!」

 怒りに震えながら立ち上がる茶々。

「経営がどうこうとそれらしい理論を並び建てておいて、結局は娘可愛さ故の逆恨みかッ! 組織の長として恥ずかしくはないのか! 横暴も甚だしい! 反吐が出る!」

「まったく……春江(はるえ)、話がややこしくなるから出てくるなとあれほど言ったじゃない」

「ふふふ、ごめんねママ~」

 この状況を愉しんでいる様子の娘に軽く溜息を吐き、理事長は茶々達に向き直る。

「今回のことは以前からの決定事項です。娘に言われてどうこうといったことは決してありませんし、今後も一切あり得ません」

「そのような言葉今更信用できるか!」

 矢継ぎ早に問い詰める茶々。冷徹に切り捨てる理事長。愉悦に浸る春江。舌戦を見つめるしかできない静佳。混迷を極める理事長室において、まさかさらに事態を狂わせる闖入者が現れようとは、誰が予測できただろう。

「文代~……疲れたからソファーで一眠りさせて~……ってなにこれ。どんな状況なん」

 気だるげな声を上げ入室してきた少女を見て、茶々は驚愕。

「お前……夕霧!?」

 ボサボサのジャギーカットに不健康そうな細見の身体。遠くを見るような虚ろな目。謎多き元不登校生徒・夕霧中だった。

「あれ……部長さんじゃん……何やってんの」

「いや……お前こそ何を――」

「ちょっと! なんで来ちゃったのよ!」

 意外にも、中の登場に最も狼狽えたのは理事長だった。冷徹な顔はどこへやら、顔は青ざめ、額には脂汗が湧いている。

「えー、なんでって……そんな水臭いこと言うなよ文代……」

 しかし中は意にも介さず、馴れ馴れしく理事長の前まで歩を進める。

「昨日の夜だって……あたしの指でヒィヒィ鳴いてたくせに……」

 中はそのまま理事長の襟を掴んで下に引っ張り無理やり中腰にさせ――口づけした。

『!?』

 茶々、静佳、春江は衝撃で声も出ない。

 理事長は最初こそ抵抗していたものの、舌をディープに挿入された途端、顔を赤らめ「んっ……ふぅ、ん……」と吐息を漏らし、腰砕けになってその場に膝をついた。それでも中の蹂躙は続き、ぺちゃぺちゃくちゅくちゅという淫靡な音が静まり返った理事長室に響く。二人の唇の端から零れ落ちた唾液の雫が、高級カーペットに染みを作る。

「ん……ふう……こんなもんか」

 需要があるのかどうか分からない情熱的なキスは数分間に及び、舌の間に唾液の橋を渡しながら開放された理事長は力なくその場に崩れ落ち、床に伏せたまま息を荒げていた。

「――お、おい夕霧、これは一体何なんだ……何故お前と理事長が、唐突に、その……そ、そういうことを始めたんだ……」

 ほんのり頬を染めながら茶々が問うと、中は事もなげに言った。

「いや、だって……ふふふ、あたしゃこの文代とそういう関係だし……」

「ちょっと待てぃ!」

 慌てて春江がツッコんだ。

「いやいやいや! えっ!? うちのママとあんたが!? ありえないありえないありえない! だってそんなのまったく……パパとだって普通に仲良しだし――」

「文代言ってたよ……ダンナと最近ご無沙汰だって……そんであたしが女の良さを教えてやったら、もう戻れないとさ……ふふふふ、もう文代は身も心もあたしのもんさ……」

「う、嘘よ! ねえ嘘だって言ってよママ! ねえってば!」

 春江が理事長の下に駆け寄るが、理事長は娘と目を合わそうとはしなかった。

「春江、私も――一人のオンナなのよ」

「そ、そんな……」

 春江はその場で抜け殻のように動かなくなった。

「飯島……流石に同情する」

 茶々はしみじみとそう呟いてから、「さて」と伏した理事長の前に膝をつく。

「理事長殿、我は貴様の愛の形にどうこう言うつもりはない。だが――」

 茶々は自分のスマートフォンの画面を理事長の眼前に突きつけた。そこには、理事長と中の熱烈ディープキス動画がバッチリ映っている。悪魔のような笑みを見せつける茶々。

「流石にこれをばら撒かれれば、貴様の権威は失墜するだろうな。娘も学校にはいられまい。親子揃って学院から出ていくことになるだろう。なんとも悲惨な結末だ」

「――要求は何」

「話が早くて助かる。我の要求――此度の野球部とソフト部の合併の件を賭けて、正々堂々勝負をさせてもらいたい」

「……えっ?」

 静佳が顔を上げた。茶々は彼女に向けて微笑む。

「野球部とソフト部で試合をするのだ。ソフト部が勝てば、野球部はソフト部に吸収され、我々も大人しくソフトボール部の全国優勝に力を貸そう。ただし我々が勝った場合、こちらも同等の権利を要求しよう」

「同等の権利?」

「ああ。『部員』と『特待』だ。我々が勝利した暁には、ソフト部から有望な部員を戴く。さらに野上の為に用意した特待枠を寄越せ。ソフト部全部員が野球部に移れなどとは言わないし、グラウンドは今まで通り交代使用で構わない。悪い話ではなかろう」

「えっと、茶々ちゃん……試合って、何の?」

「当然、野球だ。貴様達は腐っても強豪だろう。丁度いいハンデではないか」

「ふざけないで! 合併はもう理事会も賛成している決定事項で――」

 理事長が声を上げたが、茶々が再び動画を見せると静かになった。

「――茶々ちゃん、本当にいいの?」

 静佳が身を乗り出して尋ねる。

「合併の話、全く無かったことにも出来るのに――」

「……確かに野球部をここで無くすわけにはいかん。だが――」

 茶々は静佳の傍へ歩み寄る。

「我は貴様のことも助けたい。どちらを優先すべきか我には決められん。ならば天命に委ねるのみ。我は野球部を守るために戦う。貴様はソフト部の覇道の為、そして自らの母親の為に戦え。戦って、その権利を奪い取ってみせろ。真っ向からの勝負だ。いつだって勝者こそが最も正しい――そうだろう?」

「久しぶりに茶々ちゃんと野球か――いいね、それ最高!」

 静佳はニカっと笑って立ち上がった。

「フフフ……ソフトボールなどに(うつつ)を抜かしていたこと、後悔させてやろう」

「そっちこそ、茶々ちゃんをソフト部の救世主にしてあげるよ。本気でいくから」

「望むところ」

 二人は笑顔で、拳を打ち合わせた。


■□   □■


「つまり……どう考えても単位数が足りないはずの夕霧先輩が進級できてるのは、理事長の愛人だったからということですか」

「タクマ、そこは割とどうでもいいところデス……」

「そうよ! そんなことより――」

 蓬が茶々に喰ってかかる。

「ソフト部に吸収!? ふざけてます! アタシは野球をやりにここへ来たんですよ!?」

「勝てばよいのだ。それで総て上手くいく」

「勝つ!? 初心者だらけのチームで強豪ソフト部に!? ふざけるのは格好だけにしてください!」

「ま、まあまあ蓬さん……」

 慌てて蓬を抑える彰子。

「あちらはあくまでソフトボール部。似て非なる競技なのですから、わたくし達にも勝機は――」

「ソフト部には野球経験者も多いのよ! 向こうがそれでメンバー固めてきたら、そんなハンデ無いのと一緒よ!」

 蓬の言葉は全て正論だ。茶々の謎の自信の方が、むしろ現実離れしすぎている。

 ノノの運動センス。美鶴のフィジカルと肩。しほりの圧倒的パワー。

 初心者とはいえ彼女らの才能は確かに素晴らしい。

 しかし原石は磨かねば光らず、その上野球部には最大の懸案事項が存在する。

「……部長、女子野球って何イニングあるんですか?」

 琢磨が尋ねると、茶々は訝しげにそちらを見た。

「七イニングだ。延長は大会ごとにルールが異なるが、今回は勝負がつくまでやる」

「部長は――その全部を投げ切る気ですか。いや……投げ切れるんですか?」

「……聞いたのか。我が身体を蝕む呪い(イップス)のことを」

「い、石山くん……!」

 みまが止めようとするが、琢磨はそれを無視する。

「部長、あなたの投手としての力量は素晴らしいと思います。でも、いつ乱調を起こして投げられなくなるかわからない投手なんて――」

 琢磨の心に浮かぶのは、忘れることなど出来ない彼にとってのエースの姿。

 背番号1という、チームを支える太い柱。

 今の茶々の背中は、それを背負うには小さすぎるように思えた。

「――心から信頼してゲームを最後まで任せるなんて……出来るわけないじゃないですか」

 痺れるような数秒の静寂。

 その後、辛うじて聞き取れる小さな声が、茶々の口から零れた。

「……仲間の信頼を失ってしまえば……エースは失格だな」

「茶々様! ボク達はそんな……今でもずっとあなたのことを――」

 みまの励ましを手で制し、茶々は全員の目を見渡す。

「――いずれにせよ、もう我らには勝利しか道は無い。明日から二週間、余暇は無いと思え。グラウンドが使える日は当然のこと、使えない日は徹底してルール、戦術、フォーメーションを叩き込む。さらに各自、自主練と身体のケアを怠るな。それから――」

 茶々は一呼吸おいて続ける。

「――伊藤我、明日からブルペンに入れ。貴様には投手も兼ねてもらう」

 美鶴はハッとして顔を上げてから、ぎこちなく「……分かりました」と首肯した。茶々も頷く。その顔は蒼白に強張っていた。

「――石山」

「あ……えっと……ご、ごめんなさい。出過ぎた真似を――」

「謝るな。言っただろう、諫言は歓迎すると」

 茶々は口を歪めて笑顔を作り、出口へと歩き出す。そしてすれ違いざまに、琢磨の頭にポンと手を乗せて、耳元で囁いた。

「――ありがとう」

 その声は、柔らかくて、暖かかくて――そしてとても淋しげだった。

(……もう引き返せない)

 琢磨は動く左手を強く握りしめた。

(たとえアイツが俺に会いたくなくても、こっちから探し出す。そして――)

 金剛学院野球部エース・藤原茶々は、壊れかけた自身を必死に支えながら立っていた。

 このチームには、もう一本の柱が必要だ。

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