【序章】PLAY BALL
私以外の全てがオレンジ色に染まった世界。
「うぅ……ぐひゅっ……どこぉここぉ……」
小学校二年生の夏休み。初めて買ってもらった赤い自転車。私は大はしゃぎでサイクリングに出かけました。雲一つない濃い青空の下、近所を流れる大きな川の堤防に沿って、今まで徒歩ではたどり着けなかった場所まで、遠く、もっと遠くまで――
どれだけ走ったでしょうか。突然自転車が走らなくなってしまったのです。
今にして思えば、ただチェーンが外れてしまっただけだったのですが、あの時の私はそんなこと知りもしません。私はただ、泣きながらとぼとぼ歩くしかなかったのです。
日はどんどん傾いて、気が付けば夕方。
すると、道の先に大きな鉄橋が見えました。その下の大きな日影で、誰かが動いています。どこかで見覚えがある子です。確か同じ学年の男子だったでしょうか。
男の子は、一人でボールを投げて遊んでいました。鉄橋を支える、壁のように巨大なコンクリートの柱に、ボールをぶつけています。
普段の私だったら、そのまま通り過ぎていたでしょう。でもその時は、とにかく寂しかったのです。恐る恐る河川敷へ降り、男の子に近づきます。
「あ、あの……」
「ん? 誰お前」
男の子はボール投げを止め、私に荒っぽく質問を放ってきました。私が「え……あ、あの……」とオロオロしていると、男の子は勝手に納得したように続けます。
「あー、お前三組の女子だろ! なんだよ、なんか用?」
「えっと……じ、自転車が壊れちゃって――」
「その自転車? ちょっと見せて」
男の子は私の自転車を一目見ただけで「なーんだ」と軽い声を上げます。
「チェーン外れてるだけじゃん。すぐ直せるよ」
「な、直るの……?」
私が期待を込めた視線を送ると、男の子はなにやら「うーむ」と唸り始めました。
「直してやってもいいけど、その代わり、一緒にキャッチボールやってくれる? グラブは俺が前使ってたやつ貸してやるから」
「きゃっちぼーる?」
「一人で壁当てしててもつまんないんだよ」
男の子は鉄橋の柱の脇に停めてある自分の自転車のところへ走っていってしまいました。本当に男子という生き物は自分勝手です。仕方なく後に続きます。
「はいコレ。俺はもう使わないからさ」
男の子は私の手に、大きめで古ぼけたグローブを押し付けました。
「……これをどうするの?」
「え? 野球知らないの?」
「やきゅう?」
「あー……お前右利き? ならそれを左手に――」
私はグローブの嵌め方から、ボールの投げ方、受け方まで男の子に教わりました。やっと前に投げられるようになったころには、もう辺りは暗くなっていました。
「はぁ……全然俺の練習にならなかった……」
溜息交じりの男の子に、私はおずおずとグローブを差し出しました。しかし男の子は「いいよ、あげるよ。もう俺はこれがあるからな」と自慢げに左手に嵌めた真新しいグローブを見せてきました。
「もう帰らなきゃ――あ、そうだ。お前の自転車直さなきゃいけないんだったな」
男の子は私の自転車のチェーンをあっという間に嵌め直してしまいました。
「わぁ……!」
「お前、このくらい自分で出来るようにならなきゃだめだぞ」
「え、う、うん……」
「じゃ、俺帰るわ。また学校でな」
「――ね、ねえ!」
私は思わず口を開きました。自分でも信じられないくらい大きな声でした。
「何?」
「あの……また一緒にやってくれる? きゃ、きゃっちぼーる?」
それを聞いた男の子は、ちょっと唇を尖らせました。
「自分の練習したいんだけどなー……まあ俺は毎日放課後ここにいるから、来たかったら来れば?」
「う、うん! 分かった!」
男の子から貰ったグローブを両手で抱きしめました。
これが、私と彼との――そして、野球との出会いでした。